36話 新たな仲間と、新たな力
玉座の間を出て、俺たちは来た道を戻り始めた。長い廊下を歩きながら、誰も口を開かない。勝利の実感は確かにあるのだが、それと同時に、何か大きなものを失ったような、空虚な感覚が胸の奥にじわりと広がっていた。グレンは黙ったまま先頭を歩いていて、その背中は以前よりも小さく、そして重く見える。三十年という時間をかけて追い求めてきた復讐を果たした今、彼の心の中には何があるのだろうか。達成感なのか、それとも喪失感なのか、あるいはその両方が入り混じった、名状しがたい感情なのか。
廊下の壁には、相変わらず不気味な絵画が飾られていて、松明の光がそれらを不規則に照らし出している。獣が人を襲う絵、血に染まった戦場の絵、そして狼の群れが月に吠える絵。つい数時間前にこの廊下を通った時は、これらの絵に恐怖を感じていたが、今はただ――寂しさを感じる。ドゥームフォレスという存在が消えた今、これらの絵は単なる過去の遺物に過ぎない。
俺は、自分の右手を見る。《慣性のキューブ》を握っていたこの手は、今は空っぽだった。あのキューブをグレンに渡した瞬間、俺の体から何かが抜けていくような感覚があった。それは、まるで体の一部を切り離されたかのような、鋭い喪失感だった。《慣性制御》という力は、確かに圧倒的だった。物体の運動を自在に操り、ドゥームフォレスすらも止めることができた。だが、その力は――もう、ない。
試しに、《慣性制御》を発動しようとしてみる。意識を集中し、目の前の小石に向かって「慣性、固定」と念じる。だが、何も起こらない。小石は床に転がったまま、動かない。いや、元々動いていなかったのだから当然なのだが、俺が意図したのは「その場に固定する」ことだった。だが、それができない。《慣性制御》の感覚は、もう俺の中にはなかった。
「……失ったな」
ガルドが、俺の隣を歩きながら小声で言う。
「ああ」
俺は頷く。
「《慣性制御》は、もう使えない」
「残念だな。あれは強力だった」
「でも、グレンには必要なものだった」
俺は答える。
「あのキューブには、彼の妻子の――何かが、保存されているかもしれない」
「……そうだな」
ガルドが、前を歩くグレンの背中を見る。
「なら、正しい選択だ」
その時――。
「クゥン……」
小さな鳴き声が、前方から聞こえた。
五人が、一斉に足を止める。グレンが剣を――ああ、剣は折れたのだった――拳を構える。ジンが弓を、リーナが魔法を、ガルドが剣を構える。
廊下の曲がり角から、小さな影が現れた。
それは――あの子供の魔狼だった。
体長一メートルほど、まだ幼い個体。黒い毛並みは柔らかそうで、赤い目は他の魔狼のような凶暴さはなく、どこか不安げに揺れている。その小さな体は、廊下の隅で震えていて、俺たちを見上げている。
「……あの時の」
ジンが、弓を下ろす。
「見逃した魔狼か」
「ああ」
グレンも、構えを解く。
「殺す必要はない」
子供の魔狼は、俺たちを見ながら、ゆっくりと近づいてくる。その歩き方はおぼつかなく、時々つまずきそうになりながら、それでも一歩一歩、確実に近づいてくる。そして――俺の足元まで来ると、俺の靴に鼻先を擦り付けた。
「クゥン、クゥン」
まるで、犬が飼い主に甘えるような仕草だった。
「……懐いてる?」
リーナが、不思議そうに言う。
「みたいだな」
俺は、しゃがみ込んで子供の魔狼に手を伸ばす。魔狼は警戒する様子もなく、俺の手に頭を擦り付けてくる。その毛並みは、予想通り柔らかかった。
「お前、一人なのか?」
「クゥン」
魔狼が、悲しそうに鳴く。
「……親を、探してるのかもしれない」
グレンが、静かに言う。
「ドゥームフォレスが倒れた今、この森の魔物たちは統率を失っている。おそらく、群れは散り散りになっただろう」
「じゃあ、この子は……」
リーナが、心配そうに魔狼を見る。
「一人で生きていくのは、難しい」
グレンが答える。
「魔狼は群れで生きる生物だ。一匹では、他の魔物に襲われる」
「……なら」
俺は、子供の魔狼を抱き上げる。意外に軽い。五キロもないだろう。
「俺が、面倒を見る」
「本気か?」
ガルドが、目を丸くする。
「魔狼を、ペットにするつもりか?」
「ペットじゃない」
俺は答える。
「仲間だ」
子供の魔狼が、俺の腕の中で嬉しそうに尻尾を振る。その様子は、もう魔物というより、ただの子犬にしか見えない。
「名前は?」
リーナが尋ねる。
「名前……」
俺は少し考える。黒い毛並み、赤い目、小さな体。
「……クロ、でいいか」
「安直すぎるだろ」
ガルドが呆れた顔をする。
「でも、覚えやすい」
「クゥン!」
クロが、嬉しそうに鳴く。気に入ったらしい。
「まあ、いいんじゃないか」
ジンが、珍しく笑う。
「ゼリーもいるし、もう一匹増えても変わらん」
ゼリーが、俺の肩でぷるぷると震える。まるで、「新しい仲間だね」と言っているかのように。
「じゃあ、決まりだ」
俺は、クロを抱えたまま歩き始める。
「行こう」
◆◆◆
廊下を抜け、窓から外に出る。朝の光が、まだ空を照らしている。俺たちが玉座の間にいたのは、ほんの数時間だったのだ。だが、その数時間が、まるで数日間のように長く感じられた。
岩壁を降りる。今度は下りだから、登りよりは楽だ。クロは俺の背中に背負って、リュックのように運ぶ。クロは大人しく、時々俺の首筋を舐めてくる。
森を抜け、草原に出る。遠くに、街の城壁が見える。あの街に戻れば、また日常が待っている。温かい食事、柔らかいベッド、そして平和な日々。だが――その日常も、いつまで続くのだろうか。《十魔帝王》は、まだ九人いる。そして、キューブを集める計画は動き出している。
「なあ、タクミ」
ガルドが、俺の隣を歩きながら言う。
「お前、《慣性制御》を失った代わりに、何か得たものはないのか?」
「得たもの?」
「ほら、力ってのは、トレードオフだろ。何かを失えば、何かを得る」
その言葉を聞いて、俺はふと自分の体の感覚に意識を向ける。確かに、《慣性制御》の圧倒的な力は失われた。だが――何か、別の感覚が残っている。それは《慣性制御》ほど強力ではないが、確かに俺の中に根付いている感覚だった。
「《物理補助》……」
俺は呟く。
「いや、違う。これは――」
俺は、手のひらを見る。そして、近くの小石に向かって手をかざす。
「《慣性操作》……対象の運動、微調整」
小石が、わずかに動く。転がる速度が、ほんの少しだけ変わる。
「……これだ」
俺は、確信する。
「《慣性制御》の下位互換だ。完全に運動を固定することはできないが、運動の速度や方向を、微調整することはできる」
「それって、役に立つのか?」
ガルドが尋ねる。
「分からない。でも――」
俺は、もう一度小石に手をかざす。
「使い方次第だと思う」
小石が、今度は円を描くように転がる。俺の意図した通りに。
「……面白いな」
ジンが、その様子を見て言う。
「弾道を曲げることができれば、狙撃の精度が上がる」
「ガルドの剣の軌道を微調整すれば、相手の防御を抜けるかもしれない」
リーナが続ける。
「可能性は、ある」
俺は頷く。
「《慣性制御》ほど派手じゃないけど、地味に使える力だ」
「それでいい」
グレンが、前を向いたまま言う。
「派手な力は、使いどころを選ぶ。地味な力こそ、日常で役に立つ」
◆◆◆
街の北門に着くと、衛兵たちが驚いた顔で俺たちを迎えた。
「生きて帰ってきたのか!」
「ドゥームフォレスは!?」
「倒した」
グレンが、短く答える。
衛兵たちが、歓声を上げる。抱き合う者、涙を流す者、空に向かって叫ぶ者。その喜びようは、まるで長い戦争が終わったかのようだった。
実際、ドゥームフォレスの脅威は、この街にとって何十年も続いていたものだったのだ。それが今、終わった。
「お前、それは何だ?」
衛兵の一人が、俺の背中のクロを見て尋ねる。
「仲間だ」
俺は答える。
「……魔狼を、仲間に?」
「ああ」
衛兵は呆れた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。おそらく、ドゥームフォレスを倒した英雄が何を連れていようと、文句を言う権利はないと判断したのだろう。
街に入ると、人々が集まってくる。噂は、すでに広まっていた。ドゥームフォレスが倒れたという知らせは、風のように街中に伝わり、人々を熱狂させていた。
「ありがとう!」
「英雄だ!」
「これで、安心して暮らせる!」
人々の声が、俺たちを包む。その声は温かく、そして重い。俺たちが戦ったのは、確かに正しいことだったのだと、改めて実感する。
だが――俺の心の中には、まだ不安が残っている。《十魔帝王》の残り九人。キューブを集める計画。そして、ドゥームフォレスが最後に言った言葉。「お前たちでは、止められん」と。
◆◆◆
宿に戻ると、俺たちは久しぶりに温かい食事にありつけた。肉のシチュー、焼きたてのパン、そして冷たいエール。どれも、この上なく美味しく感じられた。戦いの後の食事は、いつもこうだ。生きていることの喜びを、噛みしめるように味わう。
クロは、俺の足元で丸くなって眠っている。シチューの肉を少し分けてやったら、喜んで食べていた。ゼリーも、クロの隣で揺れている。二匹は、すでに仲良くなったようだ。
「さて」
グレンが、グラスを置く。
「これからのことを、話そう」
「これから?」
ガルドが尋ねる。
「ドゥームフォレスは倒した。だが、俺の本当の目的は、まだ果たされていない」
グレンが、懐から《慣性のキューブ》を取り出す。
「このキューブに、俺の妻子が……何らかの形で保存されているかもしれない」
「開けるのか?」
リーナが尋ねる。
「いや、まだだ」
グレンが首を振る。
「開け方が、分からない」
「開け方?」
「このキューブには、何かの鍵が必要だ。それが何なのか、俺には分からない」
グレンが、キューブを光にかざす。
「だから、調べる必要がある」
「どうやって?」
「古代語を解読できる者を、探す」
グレンが答える。
「この大陸の東に、そういう者がいると」
「東……」
俺は呟く。
「遠いのか?」
「ああ。この街から、徒歩で一ヶ月はかかる」
「一ヶ月……」
「だが、行く価値はある」
グレンが、キューブをしまう。
「お前たちも、来るか?」
俺は、少し考える。東へ、一ヶ月の旅。それは、容易なものではない。途中で様々な困難が待ち受けているだろう。だが――。
「行く」
俺は答える。
「俺も、キューブのことを知りたい」
俺のキューブ。銀色の、謎のキューブ。それが何なのか、まだ分かっていない。古代語を解読できる者なら、何か分かるかもしれない。
「俺も行く」
ガルドが言う。
「私も」
リーナが続ける。
「俺もだ」
ジンが頷く。
「……ありがとう」グレンが、小さく笑う。「では、三日後に出発する。それまでに、準備を整えろ」
「了解」
◆◆◆
その夜、俺は一人で部屋にいた。ベッドに座り、窓の外を見る。街は静かで、月明かりが屋根を照らしている。
クロは、俺の足元で眠っていて、時々小さく寝言を言う。「クゥン……」と。
ゼリーは、枕元でぷるぷると揺れている。
俺は、自分のキューブを取り出す。銀色の、冷たい金属。表面に刻まれた文様が、月明かりに鈍く光る。
「お前は、何なんだ」
俺は、何度目かになるその問いを、キューブに向ける。
だが――キューブは、相変わらず答えない。
その時――。
視界の端に、何かが現れた。
文字だ。
透明なウィンドウのような何かが、俺の視界の中に浮かび上がる。
【ステータス更新】
【レベル:25】
「……レベル?」
俺は、驚いて立ち上がる。
この世界に転生してから、こんなメッセージを見たのは初めてだ。
いや、違う。
一度だけ、見たことがある。
俺が、この世界に転生した、その瞬間に。
【ようこそ、異世界へ】
あの時のメッセージと、同じ形式だ。
だが――今回は、何かがおかしい。
文字が、揺れている。
まるで、水面に映った文字のように、不安定に揺らめいている。
そして――。
ノイズが走った。
ビリビリビリ、と。
視界全体に、砂嵐のようなノイズが広がる。
「何だ……これは……!」
俺は目を閉じようとするが、閉じても消えない。
ノイズは、俺の視界の中に――いや、脳に直接刻み込まれているかのように、逃れられない。
【警告】
【警告】
【警告】
【警告】
【警告】
同じ文字が、何度も何度も点滅する。
赤い文字。
まるで、血のように。
「くっ……!」
頭が痛い。
まるで、頭蓋骨の内側から何かが押し広げようとしているような、激しい痛み。
【《ERROR》】
【能力構成矛盾】
【職業枠外適合反応検出】
意味の分からない文字が、次々と表示される。
そして――画面全体が、崩壊し始める。
文字が溶けるように流れ落ち、色が反転し、形が歪む。
まるで、現実そのものがバグを起こしているかのように。
【再定義処理ヲ開始シマス】
文字が、一瞬だけ正常に表示される。
そして――。
【転職クエストを開始します。】
その文字を最後に、ノイズが消えた。
視界が、元に戻る。
俺は、荒い息をついて床に膝をつく。
「はあ……はあ……」
額に、脂汗が浮かんでいる。
「何だった……今のは……」
クロが、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
ゼリーも、俺の肩に乗って震えている。
「大丈夫……大丈夫だ……」
俺は、二匹を安心させるように撫でる。
だが――心の中では、不安が渦巻いていた。
転職クエスト。
システム。
《ERROR》。
「……一体、何が始まるんだ」
俺は呟く。
窓の外では、月が静かに輝いている。
だが、その光は――どこか、不吉に見えた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になった方は、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
コメントも頂けると嬉しいです!




