35話 固定する力と、動き出す時間
《慣性のキューブ》を握りしめた瞬間、俺の世界が変わった。それまで見えなかったものが、見えるようになった。いや、正確には「見える」というよりも「感じる」という表現の方が正しいかもしれない。玉座の間に存在する全ての物体――床の大理石、天井の石、柱、そしてドゥームフォレスの巨体に至るまで、それら全てが持つ「運動の状態」が、まるで色彩のように俺の感覚に流れ込んでくる。静止しているものは青い光のように、動いているものは赤い光のように、そして回転しているものは緑の渦のように、俺の脳裏に映像として浮かび上がってくるのだ。
これが、《慣性制御》の力なのか。物体の運動状態を、直接知覚する能力。そして――それを操作する力。
「それは、俺のものだ!」
ドゥームフォレスが、俺に向かって突進してくる。その巨体が床を蹴るたびに、大理石が砕け、破片が宙を舞う。その速度は、今までで最も速い。まるで、黒い隕石が落下してくるかのような圧倒的な質量と速度が、俺に向かって迫ってくる。
だが――俺には、その動きが手に取るように分かる。ドゥームフォレスの右足が床を蹴る瞬間、体重が左に移動する瞬間、腕が振り上げられる瞬間、その全てが俺の感覚の中でスローモーションのように展開されていく。
「《慣性制御》……」
俺は、キューブを握ったまま、右手を前に突き出す。
「対象――ドゥームフォレス。慣性、固定」
その瞬間――ドゥームフォレスの動きが、止まった。
いや、「止まった」という表現は正確ではない。彼の体は、まだ前に進もうとしている。筋肉は収縮し、骨格は動こうとしている。だが、空間そのものが彼の運動を拒否しているかのように、彼の巨体は空中で静止した。まるで、時間が止まったかのように。いや、時間は動いている。ただ、彼の「運動」だけが、固定されたのだ。
「……何だと?」
ドゥームフォレスの声が、驚愕に染まる。彼は自分の体が動かないことに気づき、必死に力を込めようとする。筋肉が膨張し、毛皮が逆立つ。だが、動かない。
「これは……慣性の固定か!」
「その通りだ」
俺は、ゆっくりと近づく。一歩、また一歩。キューブを握る手に、汗が滲む。この力を維持するのには、想像以上に集中力が必要だ。頭の中で、ドゥームフォレスという巨大な質量の運動状態を「固定」し続けなければならない。それは、まるで巨大な岩を両手で支え続けるような、精神的な重圧を伴う作業だった。
「タクミ、今のうちに!」
ガルドが叫ぶ。
「篭手を壊せ!」
「分かってる!」
俺は、ナイフを抜く。そして――ドゥームフォレスの腕に近づく。脊椎骨の篭手が、目の前にある。この篭手を壊せば、ドゥームフォレスの再生能力は失われる。それが、勝利への唯一の道だ。
だが――その時。
「甘い!」
ドゥームフォレスの目が、鋭く光る。
突然、ドゥームフォレスの体から、黒いオーラのようなものが溢れ出す。それは魔力なのか、それとも別の何かなのか、俺には判別できない。だが、そのオーラが俺の《慣性制御》に干渉してくる。まるで、泥のような重さで俺の意識を押し潰そうとしてくる。
「ぐっ……!」
俺の額に、脂汗が浮かぶ。集中が、乱れる。
「お前の力は面白い」
ドゥームフォレスが、わずかに指を動かす。完全には動けないが、少しずつ、俺の制御から逃れようとしている。
「だが、俺の魔力を完全に止めることはできん」
「くそっ……」
俺は、さらに集中力を高める。《慣性のキューブ》が、手の中で熱を持ち始める。まるで、焼けた鉄のように。だが、手を離すわけにはいかない。
「タクミ、無理するな!」
リーナが叫ぶ。
「一度引いて、立て直そう!」
「いや……ここで引いたら、チャンスはない」
俺は、歯を食いしばる。
「もう少し……もう少しだけ!」
俺は、ナイフをドゥームフォレスの篭手に押し当てる。脊椎骨の表面が、冷たい。そして――硬い。
「《物理補助》……」
俺は、《慣性制御》と同時に、《物理補助》を発動させる。二つの力を、同時に使う。頭が、破裂しそうなほどの痛みに襲われる。視界が、一瞬暗くなる。だが、止まらない。
「振動数、増加。硬度、上昇」
ナイフが、震え始める。高周波の振動が、脊椎骨に伝わる。そして――ナイフの刃が、硬質化する。
「《動力保存》……」
俺は、さらに力を上乗せする。今まで溜めてきた運動エネルギーは使い果たしてしまったが、それでも構わない。今、この瞬間に全てを賭ける。
「ゼロからでも、溜める」
俺は、自分の心臓の鼓動を感じる。ドクン、ドクン、ドクン。その鼓動一つ一つが、運動エネルギーだ。血液が体内を巡る、その流れもエネルギーだ。俺自身の生命活動そのものが、エネルギーの源なのだ。
「《動力保存》……自己の運動エネルギー、転写」
俺の体から、エネルギーがナイフに流れ込む。体温が下がる。呼吸が浅くなる。だが、ナイフは熱を持ち始める。刃が、赤く光り始める。
「何を……している」
ドゥームフォレスが、俺の様子に気づく。
「お前、自分の生命力を使っているのか!」
「そうだ」
俺は答える。声が、かすれている。
「これが、俺の全てだ」
そして――俺は、ナイフを突き立てる。
ギリギリギリギリ――!
高周波の振動が、脊椎骨を削る。硬化したナイフが、骨に食い込む。そして、俺の生命エネルギーを変換した運動エネルギーが、一点に収束する。
バキィィィン!
脊椎骨の篭手に、ひびが入る。
「……!」
ドゥームフォレスの目が、見開かれる。
「まだだ……まだ足りない……!」
俺は、さらに力を込める。体が、悲鳴を上げる。意識が、遠のきそうになる。だが――。
「タクミ、一人で抱え込むな!」
ガルドの声が、聞こえる。
次の瞬間、ガルドが俺の隣に立ち、俺の手に自分の手を重ねる。
「俺の力も使え!」
ガルドの温かい手が、俺の冷え切った手を包む。そして――ガルドのエネルギーが、俺を通してナイフに流れ込んでくる。
「私も!」
リーナが、反対側から俺の肩に手を置く。彼女の魔力が、俺の体を通してナイフに流れ込んでくる。
「俺もだ」
ジンが、俺の背中に手を当てる。彼の精神力が、俺を支える。
四人の力が、一つになる。
「……ありがとう」
俺は、涙が出そうになるのを堪える。
「みんな」
そして――もう一度、力を込める。
今度は、一人じゃない。四人の力が、俺を通してナイフに集まる。
ギリギリギリギリ――!
ナイフが、さらに深く食い込む。
バキッ!
脊椎骨の篭手が、割れた。
亀裂が走り、破片が崩れ落ちる。
「……嘘だろ」
ドゥームフォレスの声が、初めて動揺を帯びる。
篭手が砕け散り、黒い破片が床に落ちる。その瞬間――ドゥームフォレスの体を覆っていた黒いオーラが、急速に薄れていく。
「再生能力が……消えた……」
ドゥームフォレスが、自分の腕を見る。
俺は、《慣性制御》を解除する。ドゥームフォレスの体が、再び動けるようになる。だが――もう、彼には再生能力がない。
「今だ、グレン!」
俺が叫ぶ。
壁に倒れていたグレンが、ゆっくりと立ち上がる。折れた剣を捨て、素手で立つ。その体は傷だらけで、血が滴っている。だが、その目には――三十年分の怒りと、決意が宿っていた。
「ドゥームフォレス」
グレンが、静かに言う。
「三十年、待った」
「……《白狼》か」
ドゥームフォレスが、グレンを見る。
「まだ、立てるのか」
「ああ」
グレンが、拳を握る。
「お前を倒すまでは、死ねない」
グレンが、走る。その速度は、傷を負っているとは思えないほど速い。まるで、三十年分の時間を取り戻すかのように。
ドゥームフォレスが、迎え撃とうとする。だが――再生能力を失った今、彼の動きには以前のような余裕がない。
グレンの拳が、ドゥームフォレスの顎に叩き込まれる。
ドスッ!
ドゥームフォレスの頭が、後ろに反る。
「これは……妻のために」
グレンが、もう一発。腹部に。
「これは……子供のために」
さらに一発。胸部に。
「そして、これは……三十年の時間のために」
グレンが、全力で拳を振るう。
その拳が、ドゥームフォレスの顔面に命中する。
狼の頭蓋骨の兜が、砕け散る。
その下から現れたのは――意外にも、人間に近い顔だった。鋭い目、長い髪、だが確かに人間の特徴を持つ顔。
「……お前は、人間だったのか」
グレンが、驚きの声を上げる。
「かつては、な」
ドゥームフォレスが、血を吐く。
「だが、今は違う。我は……魔王だ」
ドゥームフォレスが、最後の力を振り絞って立ち上がろうとする。だが、その体はもう限界だった。膝をつき、床に手をつく。
「終わりだ」
グレンが、ドゥームフォレスの前に立つ。
「お前の時代は、終わった」
「……そうか」
ドゥームフォレスが、小さく笑う。
「だが、我が倒れても……《十魔帝王》は、まだ九人いる」
「それは、分かっている」
グレンが答える。
「そして……キューブを集める計画は、もう動き出している」
ドゥームフォレスが、玉座の背後を見る。
「お前たちでは……止められん」
「それでも、やる」
俺が言う。
「止めてみせる」
ドゥームフォレスが、俺を見る。その目には、もう敵意はなかった。ただ、何か――興味、とでも言うべきものが宿っていた。
「……面白い小僧だ」
ドゥームフォレスが、静かに言う。
「お前なら、もしかしたら……」
それが、ドゥームフォレスの最後の言葉だった。
彼の体が、前に倒れる。床に、重い音を立てて倒れる。
そして――動かなくなった。
静寂が、玉座の間を満たす。
戦いは、終わった。
「……勝った、のか?」
ガルドが、呆然と呟く。
「ああ」
グレンが頷く。
「勝った」
グレンが、ドゥームフォレスの体に近づく。そして――その亡骸に、静かに手を合わせる。
「……三十年、ありがとう」
グレンが、小さく呟く。
「お前がいたから、俺は生きられた」
その言葉の意味を、俺は完全には理解できない。だが――きっと、グレンの中には、憎しみだけではない、複雑な感情があったのだろう。三十年という時間は、憎しみだけで支えられるものではない。
「グレン」
俺が、声をかける。
「ああ」
グレンが、振り返る。その目には、涙が浮かんでいた。
「終わった。ようやく、終わった」
グレンが、玉座の背後に向かう。台座の上には、《慣性のキューブ》が――。
いや、ない。
俺が握っている。
「グレン、これを」
俺は、キューブをグレンに差し出す。
グレンが、キューブを受け取る。その手が、震えている。
「妻が……守っていたもの」
グレンが、キューブを見つめる。
「これを使って、ドゥームフォレスは……」
グレンの言葉が、途切れる。
「開けてみるか?」
俺が、静かに尋ねる。
「もしかしたら、中に……」
「……いや」
グレンが、首を振る。
「今は、まだ」
グレンが、キューブを懐にしまう。
「いつか、準備ができたら。その時に、開ける」
「分かった」
俺は頷く。
五人は、玉座の間を後にする。
長い廊下を歩き、窓から外に出る。
朝の光が、眩しい。
「……生きて帰れたな」
ガルドが、大きく息を吐く。
「ああ」
俺も、同じように息を吐く。
戦いは、終わった。
だが――これは、始まりに過ぎない。
《十魔帝王》は、まだ九人いる。
そして、キューブを集める計画。
その先に、何があるのか。
「……また、戦うのか」
リーナが、静かに言う。
「ああ」
俺は答える。
本当の戦いはこれからだった。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になった方は、ぜひブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
コメントも頂けると嬉しいです!




