29話 決戦と、仮面の下顔
夜明け前。
俺は一人、街の北門をくぐった。
空は、まだ暗い。
だが東の地平線に、ほんのわずか――橙色の光が滲み始めている。
まるで、世界が深呼吸をしているかのような、静かな時間だ。
草原に出ると、冷たい風が全身を包む。
夜露に濡れた草が、靴を湿らせる。
足を踏み出すたびに、露が光を弾いて散る。
まるで、無数の蛍が地面を這っているかのように。
俺は正面を見据える。
草原の中央。
そこに、一つの影が立っていた。
銀の鎧。
背中の大剣。
月明かりに照らされたその姿は、まるで古い神話から抜け出てきた戦士のように――圧倒的な存在感を放っている。
「来たか」
低い声が、静寂を切り裂く。
「ああ」
俺は答える。
「一人で来たな」
「指定通りだ」
俺は、銃とナイフを確認する。
ゼリーが、俺の肩でぷるぷると震えている。
「ゼリー」
俺は小声で言う。
「何かあったら、空高く飛べ。それが合図だ」
ゼリーが、静かに震える。
了解の証だ。
「さあ」
騎士が、大剣を背から抜く。
ギィン……。
その音が、草原全体に響き渡る。
「始めよう」
騎士が、一歩踏み出す。
草が、その重みで静かに倒れる。
俺も、構える。
銃を右手。ナイフを左手。
「《物理補助》……ナイフの弾性限界、増加」
《動力保存》の準備。
まだ溜めない。
まず、騎士の動きを見る。
騎士が、突進してくる。
その速さは、前回と変わらない。
まるで、平原を駆ける白い嵐のように。
俺は横に跳ぶ。
大剣が、俺の右肩をかすめる。
鎧が、ガリッと削れる音。
「ぐっ……!」
浅い傷だが、痺れる。
「一回分、溜めた」
俺は歯を食いしばる。
騎士が振り返る。
今度は、剣を横に薙ぐ。
俺は身を屈める。
大剣が、俺の頭上を通過する。
「二回分」
もう一度跳ぶ。
だが――騎士の膝が、俺の腹部に叩き込まれる。
「がっ……!」
吹き飛ぶ。
地面を二度、三度転がる。
「三回分」
起き上がる。
口の中に、血の味がする。
だが、止まらない。
「四回分……五回分……」
俺は銃を構え、牽制する。
パン、パン!
弾丸が騎士の鎧に当たり、弾かれる。
「《物理補助》……地面の摩擦係数、最小化」
騎士の足元を滑らせようとする。
だが――騎士は一瞬よろめいただけで、体勢を立て直す。
「やはり、地面の操作は効きにくい……」
前回と同じだ。
この騎士は、動じない。
騎士が再び迫る。
大剣を、振り上げる。
俺はナイフで受け止める。
「《物理補助》……ナイフの硬度、最大化」
ガキィィン!
衝撃が、腕を痺れさせる。
「六回分……七回分……」
騎士が、剣を引き、連続で斬りかかる。
俺は後退しながら、捌く。
捌く度に、衝撃をナイフに溜める。
「八回分……九回分……」
息が上がる。
視界の端が、わずかに歪み始める。
「十回分……」
まだ足りない。
二十回まで、あと十回。
「くっ……もっと受けないと……」
俺は、あえて一歩踏み込む。
騎士の懐に、自ら入る。
「何をする?」
騎士が、わずかに驚いたような声を上げる。
俺の胸に、騎士の肘が叩き込まれる。
ドスッ!
「ごっ……!」
肋骨が、軋む音がする。
だが――。
「十一回分……十二回分……」
俺は倒れない。
騎士の攻撃を、全身で受け止め続ける。
まるで、嵐の中に立つ岩のように。
削られながらも、揺れながらも――確実に、溜め続ける。
「十三回分……十四回分……」
視界が二重になる。
それでも、立ち続ける。
「何故、立っていられる」
騎士が、低く呟く。
「あれだけ受けて……」
「まだ、終わってない」
俺は答える。
荒い呼吸で。
口の端から、血が流れているのが分かる。
「十五回分……十六回分……」
俺は、銃を構える。
騎士の右脇の下を狙う。
鎧の継ぎ目だ。
「《物理補助》……地面の反発係数、増加」
パン!
俺が踏みつけた地面が跳ね返り、俺の体が浮く。
視点が上がる。
「十七回分……十八回分……」
俺は空中で、騎士の頭部へと拳を叩き込む。
ガン!
騎士がわずかによろめく。
「十九回分……二十回分……」
着地する。
頭の中で、何かが飽和する感覚。
二十回分。
目標に、到達した。
「……今だ」
俺はナイフを握りしめる。
三つの効果を、頭の中でイメージする。
振動数増加。
硬度上昇。
そして――《動力保存》の全解放。
「《物理補助》――振動数増加、硬度上昇。そして――」
俺は踏み込む。
「《動力保存》、全解放ッ!」
ナイフが、白熱する。
二十回分の運動エネルギーが、一点に収束する。
まるで、ダムが決壊するように。
俺はナイフを、騎士の右脇の継ぎ目に叩き込む。
ギリギリギリギリ――!
振動が、甲冑を削る。
蓄積されたエネルギーが、爆発的に放出される。
バキィィィン!
鎧の右側面が、砕け散る。
甲冑の破片が、朝の光の中を舞う。
まるで、銀色の花が咲いたかのように。
騎士が、よろめく。
膝をつく。
「……!」
俺は荒い息をつく。
頭痛が、嵐のように荒れ狂っている。
だが――やった。
鎧を、砕いた。
「……やるな」
騎士の声が、聞こえる。
そして――鎧が砕けた部分から、兜が傾ぐ。
騎士が、傾いた兜を外す。
その下から現れた顔を見て――。
俺は、息を呑んだ。
白い髭。
鋭い目。
刻まれた深いしわ。
「……グレン」
俺は、呟く。
ギルドマスターの顔が、そこにあった。
「ああ」
グレンが、静かに答える。
「俺だ」
草原に、静寂が落ちる。
風だけが、二人の間を吹き抜ける。
「……何が、目的だ」
俺はグレンを見据える。
震える足を、力で押さえつけながら。
「何故、俺たちを襲った。何故、俺を試した。そして――何故、殺さなかった」
グレンが、大剣を地面に突き刺す。
手を放す。
武器を、捨てた。
「……話す」
グレンが、ゆっくりと立ち上がる。
「俺は今、ドゥームフォレスの配下だ」
その言葉が、朝の空気を切り裂く。
「牙の四騎士の一角――《白狼の騎士》として、奴に従っている」
「……なぜ」
「それは、後で話す。だが今は――」
グレンの目に、苦しみに似た光が宿る。
「俺には、お前を倒す任務がある。ドゥームフォレスから直接、命じられた任務が」
「それで、俺を試し続けた?」
「ああ」
グレンが、小さく頷く。
「お前が弱ければ、倒して終わりだった。だが――お前は、俺の予想を超えてきた」
グレンが、砕けた自分の鎧を見る。
「まさか、鎧を破るほどの一撃が来るとは思っていなかった」
「……それで?」
「板挟みだ」
グレンが、静かに言う。
「ドゥームフォレスへの任務と……お前への期待が」
俺は、グレンの目を見る。
その目の奥に、何十年もの時間が沈んでいる。
重く、暗く、だが――消えていない炎がある。
「グレン」
俺は言う。
「お前がドゥームフォレスに従っている理由がある。俺には、まだ分からない」
「……」
「だが、一つだけ聞く」
俺は一歩、踏み出す。
「お前は今、本当にドゥームフォレスの側に立ちたいか?」
グレンの目が、揺れる。
「……」
「殺さなかった。試し続けた。お前は俺に、何かを求めていた」
俺は続ける。
「任務を遂行したかったなら、最初の戦いで終わらせれば良かった。それができる力が、お前にはあった」
「…………」
「だが、お前はしなかった」
グレンの拳が、震える。
「……俺には、果たせていない目的がある」
グレンが、絞り出すように言う。
「ドゥームフォレスへの……復讐だ」
その言葉が、草原に落ちる。
「三十年前、奴に大切なものを奪われた。だから奴の懐に潜り込んだ。だが――俺一人では、奴には届かない」
グレンの目が、俺を捉える。
「お前の力を見た時、初めて思った。もしかしたら、こいつなら――と」
「だから試した」
「そうだ。お前が弱ければ、任務を遂行して終わりだった。お前が強ければ……共に戦える」
「任務と本心で、引き裂かれていたのか」
「……ああ」
グレンが、目を閉じる。
「くだらない話だ。三十年も、奴の犬として生きてきて……まだ迷っている」
「くだらなくない」
俺は言う。
グレンが、目を開く。
「三十年、諦めずに生きてきた。それが、今ここに繋がった」
俺はグレンを真っ直ぐ見る。
「お前の復讐に、俺を使え」
「……タクミ」
「俺はドゥームフォレスと戦うつもりだ。いずれ、必ず。それは変わらない」
俺は、右手を差し出す。
「なら、お前が持ってる情報と経験が要る。そして、お前には俺の力が要る」
「……虫のいい話だ」
グレンが、苦く笑う。
「俺はお前を二度も襲った」
「知ってる。だから、一発だけ殴らせてくれ」
「……は?」
「落とし前だ」
グレンが、数秒間、俺を見つめる。
そして――。
「……好きにしろ」
グレンが、目を閉じる。
俺はナイフを腰に戻す。
そして――右の拳を、思い切りグレンの頬に叩き込んだ。
ガツッ!
グレンの頭が、横に揺れる。
「……痛いな」
グレンが、頬を押さえる。
「お互い様だ」
俺は、もう一度右手を差し出す。
今度は、握手のために。
グレンが、その手を見る。
長い沈黙。
草原の風が、二人の間を吹き抜ける。
そして――グレンの皺だらけの大きな手が、俺の手を掴んだ。
力強く。
「……世話をかけるな、若造」
「お互い様です、爺さん」
グレンが、小さく笑う。
その笑顔は、まるで長い冬の後に訪れる春のように――どこか、解けるような温かさがあった。
その時。
ぷるん!
ゼリーが、空高く飛び上がった。
合図だ。
数秒後、草原の外から三人の足音が駆けてくる。
「タクミ!」
リーナが、駆け込んでくる。
そして――グレンの顔を見て、足を止める。
「グレン……様?」
ガルドとジンも、唖然とした顔でグレンを見る。
「説明が必要だな」
グレンが言う。
「ああ。たっぷりと」
俺は答える。
草原に、朝の光が満ちてきた。
夜明けが、ようやく来た。
長い夜が――終わろうとしていた。
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