2話 微風と摩擦の境界線
眩い光が収まったとき、俺の鼻腔を突いたのは、湿った土と草の匂いだった。
「……ここが、異世界か」
立ち上がり、自分の手を見る。
指はある。感覚もある。
神の空間では曖昧だった「重力」が、今ははっきりと俺の体を地面に繋ぎ止めていた。
周囲を見渡す。
そこは、見上げるほど巨大な樹木が立ち並ぶ深い森の中だった。
木漏れ日が地面に斑模様を描き、遠くで聞き慣れない鳥の鳴き声が響いている。
「ステータス……とかは、ないのか」
念じてみたが、目の前にウィンドウが浮かぶ気配はない。
ただ、脳の片隅に、あの事務的な神から与えられた《物理補助》という概念だけが、静かに居座っていた。
試しに、足元の小石を拾い上げてみる。
「《物理補助》――発動」
意識を小石に向ける。
すると、石の表面に薄っすらとした光の膜が張ったような感覚があった。
「……重くなれ」
石の重量を増やすイメージを持つ。
だが、手に伝わる重みは、ほんの僅かに増した程度だった。
体感で言えば、100グラムの石が110グラムになったかどうか。
「……神の言った通りだな。数値的な影響力は最低ランク、か」
次に、石を軽くしてみる。
これも、羽のように軽くなるわけではなく、少しだけ手応えが薄れる程度。
戦闘で武器を振り回すにしても、この程度の補正では誤差の範囲だろう。
俺は溜息をつき、石を放り投げた。
石は放物線を描き、茂みの奥へと消える。
ガサリ。
その瞬間、茂みが揺れた。
「……ッ!」
反射的に身を隠す。
大樹の陰から様子を伺うと、そこから這い出してきたのは、一匹の奇妙な生物だった。
大きさは中型犬ほど。
姿はネズミに近いが、その背中には鋭い棘がびっしりと生えている。
そいつは鼻をヒクつかせ、俺が投げた石のあたりを警戒するように探っていた。
(……あれが、この世界のモンスターか)
見たところ、それほど強そうには見えない。
だが、俺の手元には武器がない。
あるのは、微々たる効果しか発揮できない《物理補助》だけだ。
正面から戦えば、あの棘で深手を負うのは目に見えている。
俺は周囲を観察した。
ネズミが今いる場所は、緩やかな斜面の上だ。
そしてその足元には、湿った苔の生えた大きな岩が転がっている。
(……あいつの足元、滑りやすくできないか?)
俺は静かに、地面を這うようにしてその岩に近づいた。
幸い、風下だったおかげで、ネズミはまだ俺の存在に気づいていない。
岩の端に、そっと指先を触れる。
「接触限定」――それがこのスキルの絶対条件だ。
「《物理補助》……摩擦係数、減少」
岩と、その下の地面との間にある摩擦を、極限まで減らすイメージ。
神の説明によれば、効果は微々たるもののはずだ。
だが、物理学において「静止摩擦係数」がわずかに下がることは、均衡を崩す決定打になり得る。
ズルリ。
岩が、自重に耐えかねて動き出した。
ほんの数センチの移動。だが、斜面の上ではそれが加速を生む。
「キュイッ!?」
足元の岩が突然動き出し、ネズミがバランスを崩す。
俺はさらに、岩の進行方向にある地面の摩擦も減らし続けた。
加速する岩。
ネズミは棘を逆立てて逃げようとするが、足元の地面もまた、俺のスキルによって「滑りやすく」なっていた。
踏ん張りが効かず、ネズミは岩に巻き込まれるようにして斜面を転がり落ちる。
ドゴォォン!
斜面の下にあった大樹に、岩とネズミが激突した。
ネズミはぐったりとして動かなくなる。
「……ふぅ」
心臓の鼓動が速い。
アクションと呼ぶにはあまりに地味な、だが確実な勝利。
俺は自分の手を見つめた。
確かに、このスキル単体では、敵を吹き飛ばすことも、体を鋼鉄にすることもできない。
だが、世界のバランスを「ほんの少し」崩すことはできる。
その「ほんの少し」が、物理法則という連鎖の中でどれほど大きな結果を生むか。
「……面白いじゃないか」
俺は、死ぬ直前まで読んでいた物理学の参考書の内容を思い出す。
神は「数値」しか見ていない。
だが、俺は知っている。
世界は、たった一つの定数が狂うだけで、容易に崩壊することを。
俺は、動かなくなったネズミの死骸から距離を置き、森の奥へと歩き出した。
まずは、この「微々たる補正」で何ができるか、もっと試す必要がある。
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