── 第61話─殴れなかった理由──
中庭の端。
人は多いが、密集してはいない。
声は重なっているのに、ここだけ少し隙間があった。
カイは、最初から苛立っていた。
理由ははっきりしている。
昨日から、ずっとだ。
言葉が途中で切れる。
考えがまとまらない。
自分が自分じゃない感じがする。
「……でさ」
上級生が何か言っている。
内容はどうでもいい。
からかいだ。
分かっている。
いつものことだ。
「聞いてんの?」
一歩、距離が詰まる。
その瞬間、カイの中で張りつめていたものが鳴った。
――もういい。
拳が握られる。
肩が前に出る。
迷いはない。
殴る。
殴って終わらせる。
それでいい。
そう思った。
思った、はずだった。
拳が上がらない。
止められた感覚じゃない。
力が抜けたわけでもない。
ただ――
「殴る」という行為だけが、途中で宙に浮いた。
「……は?」
自分の腕を見る。
ちゃんと力は入っている。
でも、次が来ない。
怒りはある。
苛立ちも、嫌悪も、全部そのままだ。
なのに、
殴った後の光景だけが、頭から消えた。
殴ってどうなるか。
相手が倒れて、周りが騒いで、教師が来て――
そこまでの“流れ”が、つながらない。
「やるならやれよ」
上級生の声で、もう一度踏み込もうとする。
それでも同じところで止まる。
カイは歯を噛みしめた。
怖いのは相手じゃない。
自分の中で、苛立ちだけが空回りしていることだった。
そのとき、視界の端に影が入る。
レンだ。
助けに来た顔じゃない。
止めに来た顔でもない。
ただ、
何も変わらない顔で、そこに立っている。
その瞬間だった。
カイの中で、苛立ちの行き先がなくなった。
消えたんじゃない。
爆発できなくなった。
代わりに浮かんだのは、
「今、殴らない」という選択肢だった。
選ばされた感覚はない。
ただ、
それ以外が成立しなかった。
「……チッ」
上級生の方が先に興味を失って離れる。
カイは深く息を吐いた。
苛立ちは残っている。
でも、手は震えていなかった。
レンを見る。
「……今の」
カイは、そう言ってから言葉を探した。
喉まで何か来ているのに、言葉が続かない。
止められた、とは違う。
助けられた、と言うのも違う。
殴らなかった。
ただ、それだけのはずなのに――
胸の奥に残っていた、あの嫌なざらつきが、いつの間にか消えていた。
「……なんつーか」
拳を一度、強く握る。
今度は、ちゃんと動く。
殴ろうと思えば、殴れる。
でも――もう、殴る理由がない。
「さっきのまま行ってたらさ」
途中で言葉が切れた。
その先を言うと、何かが壊れる気がした。
レンを見る。
助けに来た顔でもない。
何かをした顔でもない。
ただ、いつも通り立っている。
それが逆に、効いた。
「……助かった」
小さく、でも誤魔化さずに言う。
冗談にも、軽口にもできない声だった。
理由は言わない。
説明も求めない。
カイは背を向けて歩き出す。
少しだけ肩の力が抜けたまま。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少し遅い更新になってしまい、すみません。仕事の都合でした。
今回は、レンの力が「言葉」じゃなく
行動そのものに影響する場面を書いてみました。
ここから少しずつ、できること・できてしまうことが
変わっていきます。
よければブックマークや感想、励みになります。
次もなるべく間を空けずに更新します。
※毎日19時頃更新




