── 第50話─図書棟──
図書棟は、静かだった。
静かすぎて、最初は「誰もいない」のかと思った。
でも違う。
机には学生が座っている。
書架の間を歩く影もある。
それでも、音が遠い。
紙をめくる音。
椅子が擦れる音。
それが全部、壁一枚向こうみたいに薄い。
入口をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷えるわけでも、重くなるわけでもない。
ただ――余計な匂いが消える。
学園の教師が言っていた言葉が浮かぶ。
「図書棟は、“普通”が揃っている」
普通。
人がいて、静かで、魔術の痕跡が薄い場所。
つまり、俺が何も起こさないかどうかを確かめる場所。
俺は、息を吸って吐いた。
影の中で幼精霊が揺れた。
小さく。はっきり。
止まれ。
歩くな、ではない。
“今は、余計に動くな”という感じの揺れ。
「……分かった」
誰に言うでもなく呟いて、俺は歩幅を小さくした。
それだけで揺れが落ち着く。
ここに来て初めて、分かったことがある。
幼精霊は、俺を前へ押すだけじゃない。
止めることもできる。
書架の列をゆっくり進む。
背表紙の色はばらばら。
魔術書だけじゃない。
歴史、言語、植物誌。
読める文字と、読めない文字が混じっている。
それが「普通」なら、俺も普通でいればいい。
――と思った瞬間。
奥の通路に、赤い札が見えた。
小さい。
目立たない。
なのに、目が離れない。
立ち入り禁止。
“禁止”という形があるだけで、そこは急に境界みたいに見えた。
視線が吸い寄せられた、その瞬間。
幼精霊が、今までで一番強く揺れた。
やめろ。
迷いのない揺れ。
止まれ、よりもっと強い。
俺は足を止めた。
近づいてもいない。
それでも胸の奥が詰まる。
怖いからじゃない。
自分の中で、何かが動きかけたのが分かったからだ。
「……行かない」
俺は言って、赤い札から目を逸らした。
逸らしただけで、幼精霊の揺れが弱くなる。
それが答えだった。
俺は手近な棚から一冊を抜いた。
紙は重い。
文字は半分読めない。
それでも、ページをめくる。
何も起きない。
――と思った。
幼精霊が、また揺れた。
今度は弱い。
でも、方向が決まっている。
ここ。
俺は本を閉じた。
そして、半歩だけ横に動いた。
揺れが止まった。
「……ここが、いいのか」
言葉にした途端、胸の奥が少しだけ軽くなった。
赤い札に近づかなかった。
それだけじゃない。
幼精霊が「止まれ」と言った時、俺は止まれた。
「やめろ」と言った時、俺は引き返せた。
今までの俺は、流される側だった。
境目の街でも、管理区域でも、そうだった。
でも今日は違う。
小さくでも、選べた。
背後にセイルの気配がある。
視線もある。
でも、何も言わない。
言葉で説明されるより、
この沈黙の方が「正しい」気がした。
図書棟を出ると、音が戻ってきた。
遠かった足音が、少し近い。
居室に戻ると、机の上には何もなかった。
紙もない。
言葉もない。
学園は、褒めない。
叱らない。
記録もしない。
ただ、「次へ進めるか」を静かに見ている。
俺は椅子に座って、息を吐いた。
今日の出来事は、一つだけだ。
赤い札の方へ行かなかった。
幼精霊の揺れに、従えた。
――越えなかった。
それだけが、今日の結果だった。
影の中で、幼精霊が静かに揺れる。
前でも、横でもない。
今はここ。
まだ、内側。
今日は、ここまででいい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
50話まで来られたこと、そしてブックマークしてくださった方、本当に嬉しいです 。
学園編は、少しずつですが確実に動いています。
この先も、静かな変化を見守ってもらえたら幸いです。
引き続き、よろしくお願いします 。
※毎日19時頃更新




