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── 第32話─何もしていないのに、工程が進む──

 


 部屋は、静かだった。

 広くも狭くもない。

 椅子と机、寝台。それだけ。

 窓はあるが、外は見えない。

 光は入るのに、景色だけが切り取られている。

 レンは、寝台に腰を下ろしていた。

 

 逃げようと思えば、逃げられる。

 扉は閉まっているが、鍵はかかっていない。

 足も動くし、体も言うことを聞く。

 それなのに――

(……逃げない、じゃない)

(「逃げる」って決められない)

 

 怖い。

 嫌だ。

 ここに居たくない。

 気持ちは、ちゃんとある。

 なのに、その次が無い。

 「だから走る」という一行が、頭の中で書けない。

 

(俺、縛られてもいないよな)

 両手を見る。

 縄もない。

 痺れもない。

 魔法を受けた感覚も、何かをされた記憶もない。

 

(……なのに、なんでこうなる)

 

 

 扉の外から、声が聞こえる。

 抑えた、事務的な声だ。

「対象の精神状態は?」

「恐怖と拒否感はあります」

「逃走意思は?」

「感情としては確認できます。ただ――」

 一拍、間が空く。

「行動に変換されていません」

 

 レンは、息を詰めた。

(……俺のこと、だよな)

 

「意識混濁は?」

「ありません」

「外部拘束は?」

「無し」

「術式の痕跡は?」

「確認できません」

 

 淡々としたやり取り。

 誰かを助ける声じゃない。

 誰かを責める声でもない。

 ただ、状態を整理しているだけ。

 

(なんだよ、それ)

(俺、生きてる人間なんだけど)

 

 

 レンは、壁に背中を預けた。

 冷たい感触が、やけに現実的だ。

 

(俺、何もしてない)

 それは言い訳じゃない。

 本当に、何もしていない。

 力を使った覚えもない。

 誰かを止めようとした意識もない。

 

 それなのに。

 喧嘩は止まる。

 怒鳴り声は続かない。

 刃は抜かれない。

 

(前世のときも……そうだった)

 

 人に睨まれて、

 嫌なことを言われて、

 殴られるはずだった瞬間。

 

「……まあ、いいか」

 

 相手がそう言って終わる。

 理由もなく。

 納得もなく。

 

(あれ、偶然だと思ってたのに)

 

 村でも、街道でも、境目の街でも。

 同じことが続いている。

 

(俺の近くでだけ)

 

 

 扉の外。

 セイルは、壁際に立っていた。

 腕を組んでいるが、休んでいるわけじゃない。

 完全に「待機」の姿勢だ。

 

(……もう観測段階は終わったな)

 

 ここまで揃えば、偶然じゃない。

 レンが自覚していなくても、

 世界の側が「異常」と判断するには十分だ。

 

(問題は、次だ)

 

 分類するのか。

 隔離するのか。

 それとも――連れ出すのか。

 

 セイルは、扉の向こうを見ない。

 見れば、余計なことを言ってしまう気がした。

 

 

 再び、扉の外の声。

「確認完了」

 短く、はっきりした言葉。

 

「次の工程に移行する」

 

 レンの胸が、ぎゅっと縮む。

(工程……?)

 

 助ける、でもない。

 捕まえる、でもない。

 ただ手順が進んだだけの言い方。

 

(待って)

(俺、まだ何も選んでない)

 

 レンは、思わず拳を握った。

 怒りでも、決意でもない。

 ただ、取り残される感覚が嫌だった。

 

(俺は――)

(普通に、生きたいだけなんだけど)

 

 特別になりたいわけじゃない。

 世界を壊したいわけでもない。

 

 何もしていない。

 それだけなのに。

 

 扉の向こうで、誰かが歩き出す音がした。

 複数人分の足音。

 もう「様子を見る」段階じゃない。

 

 レンは、ゆっくり息を吐いた。

 

 何も起きない。

 それが、ここまで話を大きくするなんて――

 思ってもいなかった。

 

 でも。

 

 世界はもう、気づいてしまった。

 「何も起こさせない存在」が、ここにいることに。

 

 レンは、目を閉じる。

 逃げる決断は、まだできない。

 でも――

 

(このまま流されるのも、嫌だ)

 

 その感情だけが、

 ようやく形になり始めていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

レン本人は何もしていないつもりなのに、周囲だけが勝手に進んでいく――そんな違和感の話でした。

少しでも気になったら、ブックマークして続きを追ってもらえると嬉しいです。

次もよろしくお願いします。

※毎日19時更新

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