── 第32話─何もしていないのに、工程が進む──
部屋は、静かだった。
広くも狭くもない。
椅子と机、寝台。それだけ。
窓はあるが、外は見えない。
光は入るのに、景色だけが切り取られている。
レンは、寝台に腰を下ろしていた。
逃げようと思えば、逃げられる。
扉は閉まっているが、鍵はかかっていない。
足も動くし、体も言うことを聞く。
それなのに――
(……逃げない、じゃない)
(「逃げる」って決められない)
怖い。
嫌だ。
ここに居たくない。
気持ちは、ちゃんとある。
なのに、その次が無い。
「だから走る」という一行が、頭の中で書けない。
(俺、縛られてもいないよな)
両手を見る。
縄もない。
痺れもない。
魔法を受けた感覚も、何かをされた記憶もない。
(……なのに、なんでこうなる)
◆
扉の外から、声が聞こえる。
抑えた、事務的な声だ。
「対象の精神状態は?」
「恐怖と拒否感はあります」
「逃走意思は?」
「感情としては確認できます。ただ――」
一拍、間が空く。
「行動に変換されていません」
レンは、息を詰めた。
(……俺のこと、だよな)
「意識混濁は?」
「ありません」
「外部拘束は?」
「無し」
「術式の痕跡は?」
「確認できません」
淡々としたやり取り。
誰かを助ける声じゃない。
誰かを責める声でもない。
ただ、状態を整理しているだけ。
(なんだよ、それ)
(俺、生きてる人間なんだけど)
◆
レンは、壁に背中を預けた。
冷たい感触が、やけに現実的だ。
(俺、何もしてない)
それは言い訳じゃない。
本当に、何もしていない。
力を使った覚えもない。
誰かを止めようとした意識もない。
それなのに。
喧嘩は止まる。
怒鳴り声は続かない。
刃は抜かれない。
(前世のときも……そうだった)
人に睨まれて、
嫌なことを言われて、
殴られるはずだった瞬間。
「……まあ、いいか」
相手がそう言って終わる。
理由もなく。
納得もなく。
(あれ、偶然だと思ってたのに)
村でも、街道でも、境目の街でも。
同じことが続いている。
(俺の近くでだけ)
◆
扉の外。
セイルは、壁際に立っていた。
腕を組んでいるが、休んでいるわけじゃない。
完全に「待機」の姿勢だ。
(……もう観測段階は終わったな)
ここまで揃えば、偶然じゃない。
レンが自覚していなくても、
世界の側が「異常」と判断するには十分だ。
(問題は、次だ)
分類するのか。
隔離するのか。
それとも――連れ出すのか。
セイルは、扉の向こうを見ない。
見れば、余計なことを言ってしまう気がした。
◆
再び、扉の外の声。
「確認完了」
短く、はっきりした言葉。
「次の工程に移行する」
レンの胸が、ぎゅっと縮む。
(工程……?)
助ける、でもない。
捕まえる、でもない。
ただ手順が進んだだけの言い方。
(待って)
(俺、まだ何も選んでない)
レンは、思わず拳を握った。
怒りでも、決意でもない。
ただ、取り残される感覚が嫌だった。
(俺は――)
(普通に、生きたいだけなんだけど)
特別になりたいわけじゃない。
世界を壊したいわけでもない。
何もしていない。
それだけなのに。
扉の向こうで、誰かが歩き出す音がした。
複数人分の足音。
もう「様子を見る」段階じゃない。
レンは、ゆっくり息を吐いた。
何も起きない。
それが、ここまで話を大きくするなんて――
思ってもいなかった。
でも。
世界はもう、気づいてしまった。
「何も起こさせない存在」が、ここにいることに。
レンは、目を閉じる。
逃げる決断は、まだできない。
でも――
(このまま流されるのも、嫌だ)
その感情だけが、
ようやく形になり始めていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
レン本人は何もしていないつもりなのに、周囲だけが勝手に進んでいく――そんな違和感の話でした。
少しでも気になったら、ブックマークして続きを追ってもらえると嬉しいです。
次もよろしくお願いします。
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