── 第16話─静まりゆく通り道──
境目の宿場で迎える朝。
何も起きないはずの時間に、
小さな違和感だけが残り始めていました。
※毎日19時更新
夜が明けきる前、宿場はすでに動き始めていた。
荷車の軋む音。
火を起こす匂い。
低い声が重なり、朝が形を作っていく。
俺は窓際に立ち、外を眺めていた。
特別なことは、何もない。
旅人が動き、商いが始まる。
ただそれだけの朝――のはずだった。
◆
一階へ降りると、食堂はすでに半分ほど埋まっていた。
行商人、護衛らしき男、寝不足そうな旅人。
それぞれが勝手な方向を向き、朝食を取っている。
俺とセイルは、空いている席に腰を下ろした。
幼精霊は姿を見せず、足元の気配だけが残っている。
しばらくして、隣の卓から小声が漏れた。
「……今日は、静かじゃないか」
「確かに。朝はもっと荒れるはずだろ」
「馬も落ち着いてる。昨日から、妙だ」
世間話の延長のような調子だった。
誰も原因を探ろうとはしない。
俺は、パンをちぎりながら聞いていた。
理由を考えるほどの違和感は、まだない。
◆
宿を出ると、通りには昨日より人が多かった。
それでも、押し合うような混雑はない。
声が交差しても、自然に道が空く。
「……変だな」
少し前を歩くセイルが、低く呟いた。
「何がですか」
「この宿場は、もっと荒れる」
それ以上は言わない。
歩調を変えず、先へ進む。
通りの端で露店を出していた商人が、声をかけてきた。
「今日は助かるよ。
朝から揉め事が一つもない」
「珍しいんですか」
「そりゃな。
人が集まれば、必ず何か起きる場所だ」
笑って肩をすくめ、商人は仕事に戻っていった。
◆
俺は、無意識に足元へ視線を落とした。
幼精霊は、少し後ろ。
人の流れを避けるように、一定の距離を保っている。
近づかない。
けれど、離れもしない。
その周囲だけ、空気が軽い。
そう感じる理由は、分からない。
気のせいだと思おうとした。
だが、そう片づけるには、感覚がはっきりしすぎていた。
◆
街道へ向かう途中、道脇で言い争っていた二人組がいた。
声は荒れている。
腕も振り上がっている。
けれど――
俺たちが通り過ぎた瞬間、二人は言葉を止めた。
「……なんだ?」
「いや、今……」
互いに距離を取り、それ以上は何も起きない。
俺は、足を止めていた。
何かをした覚えはない。
ただ、近くを通っただけだ。
◆
「見るな」
前を歩いていたセイルが、低く言った。
「……はい」
「今は、まだいい」
振り向かないまま、それだけ告げる。
俺は視線を落とし、歩き出した。
◆
街道の先に、境目の街が見え始める。
高い壁も、派手な門もない。
人が集まり、流れていくための場所。
俺は、まだ分かっていない。
自分が何をしているのか。
何が変わっているのか。
ただ――
通り過ぎた場所が、少し静かになる。
それだけは、確かだった。
セイルは何も言わない。
幼精霊も、ただついてくる。
世界のほうが、先に反応し始めていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
境目の街編、もう少し続きます。
※毎日19時更新




