20:37 男子寮・広間
静寂だった。
──いや、静かすぎた。
男子寮の広間には、十数人の生徒が肩を寄せ合って避難していた。
けれど、誰一人として言葉を発さない。
まるで“息をひそめる”ことだけが、生き延びる術だと信じているようだった。
誰かの吐息ひとつが、暴走体を引き寄せてしまうかもしれない。
そんな恐怖が、この場所の空気を、粘りつくように覆っていた。
広間の隅。
二人分の毛布の下で、俺は──
ユフィ先輩と並んで座っていた。
唯一灯る魔導灯には、布がかけられている。橙色の光が、その布越しにじんわりと漏れ出していたが──温かさは、なかった。
俺は、記憶を手繰るように話していた。
「……覚えてませんか?二階東棟、実行委員の控え室。準備で夜中まで残って、紙資料が風で全部……吹っ飛んで……」
先輩は黙っていた。
けれど、その首の傾け方──
昨日までと、まったく同じだった。
でも、違う。
その目の奥が──
明らかに、変わっていた。
「……ほんとうに、ごめんなさい。どれも……知らないんです」
淡々と。痛みも、嘘もない声。
だからこそ、言葉が鋭く沈んだ。
信じたくなかった。共鳴で暴走が鎮まることは知ってた。だけど──“存在そのものが記憶から抜ける”なんて、どの教本にも書かれてなかった。
あのとき、確かに俺は彼女を守った。話して、笑って、──そして、抱きしめた。けれど、その記憶は、彼女には──もう、ない。
「……セイルさん、でしたっけ?」
ユフィ先輩は、困ったように笑った。敵意も、警戒もない。けれど、それは“知らない誰か”を見る目だった。
「変ですよね……初対面のはずなのに。あなたと話すと、すごく、安心するんです。でも……理由がわからないんです。記憶に、ないんです。なのに、たまに──心の奥がざわつくような……そんな感じがして」
そのとき、胸に広がったのは喪失じゃなかった。
“自分だけが覚えている”という、名もなき孤独だった。
(……俺だけが、覚えている)
(彼女は──もう)
──そのときだった。
「……いたっ……」
かすれるような声。
水底から浮かび上がるような、小さなうめき。
反射的に顔を上げた。
広間の奥。
ユフィ先輩も、同じ方向を見ていた。
誰かが、痛んでいる。
それは、張りつめた空気に生じた、たった一滴の乱れ。
水面に落ちた雫のように──
広間全体を、静かに波打たせた。
魔導灯の下、毛布に包まれていた生徒の肩が震えていた。
「……誰か、怪我してる……?」
ささやくような声が、夜を裂く。
その瞬間。
空気の粒が、どこか軋むような、ざわりとした違和感を帯びた。
──“最初の異変”。
それは、音もなく。
けれど、確かに──
始まっていた。
この物語の本編は、異世界ファンタジー『愚痴聞きのカーライル 〜女神に捧ぐ誓い〜』です。ぜひご覧いただき、お楽しみいただければ幸いです。
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