第五話 消えないぬくもり
あの人の腕の中で、私は──
たしかに、救われた。
怖かった。
胸の奥が焼けるみたいで、
自分の輪郭が、ほどけていくのがわかった。
頭が熱に浮かされて、
指先の感覚も消えていった。
“ここ”にいることさえ、ぼやけていく。
あと一歩で、崩れていた。
もう戻れない場所へ、落ちていた。
──でも。
あの人の手が、私を抱きしめたとき。
世界が、ふっと軽くなった。
あれはきっと、奇跡だった。
制服越しに伝わった体温。
背中に回された、確かな腕。
呼吸のリズム。心臓の音。
すべてが、“私がここにいる”と教えてくれるようで。
あのぬくもりが、私を呼び戻してくれた。
あの瞬間だけは、間違いなく──
私の世界に、“誰か”がいてくれた。
──
マナの暴走は、鎮まった。
感覚も、理性も、ひとつずつ戻ってきた。
でも。
記憶だけが、戻ってこなかった。
名前が、思い出せない。
あの人の顔が、夢みたいにぼやけていく。
確かに言葉を交わしたはずなのに、
光の中で何を言ってくれたのか──
思い出せない。
でも。
あの人が、手を引いてくれたことは忘れていない。
私を、寮まで連れてきてくれたことも。
走るたびに、その背中は、いつも目の前にあった。
誰よりもまっすぐで、誰よりも迷いがなかった。
──
……ねえ、どうして?
名前も知らないはずの人なのに。
こんなにも胸が締めつけられるの?
こんなにも涙が出そうになるの?
──
私は、学院祭の実行委員長だった。
先生がいない中で、全部を背負った。
計画書を組んで、配置を整えて、
五日間、一度も崩れずに走り抜いた。
生徒たちが笑ってくれた。
ステージが成功して、拍手が起きて、
誰もが──“この夜は終わった”と思っていた。
でも。
私は、思ってしまった。
……終わってほしくないって。
もう少しだけ、この光の中にいたいって。
だって、みんなが笑ってくれたから。
みんなが、私を必要としてくれていたから。
──
けれど。
こんな終わり方なんて、望んでなかった。
誰かの悲鳴で幕を閉じるような、
そんな夜明けなんて、私は──
絶対に、認めたくない。
──
お願い。
せめて、記憶じゃなくてもいい。
私は、
あの人の名前を──
この胸に、刻みたい。
たとえ思い出せなくても。
この手が、そのぬくもりを忘れてしまっても。
“あなたが、そこにいてくれた”という事実だけは。
私の中から、絶対に、消えないで。
──
このまま、夜が明けるのを待てばいい。
じっと、静かに。そうすればきっと、
失われた記憶も、魔法医務室の先生たちが取り戻してくれるはず。
今は、そう信じたかった。
マナが揺れ続けるこの夜を抜ければ、
あの人の名前も、顔も、ぬくもりさえも──
もう一度、ちゃんと思い出せると。
……そう、願っていた。
けれど──
たった数分後。
そのささやかな希望は、あっけなく崩れ落ちる。
あの安堵が、
落下の助走だったなんて──
夢にも、思わなかった。
この物語の本編は、異世界ファンタジー『愚痴聞きのカーライル 〜女神に捧ぐ誓い〜』です。ぜひご覧いただき、お楽しみいただければ幸いです。
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