心臓編・23『サーヤ=シュレーヌ』
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「『伝承顕現――タンタロス』」
ルルクがそう唱えた瞬間、周囲全ての霊素たちが輝いた。
霊脈の活性化だと、サーヤはすぐに理解した。霊脈を使うのは想念法の術式だということは知っている。でも神秘術の先生も想念法は使えなかった。習得が難しい神秘術のなかでも、そう簡単に使えるような術式ではないのだ。
そこら中から湧き出す霊素は、目もくらむような光の奔流だった。
その霊素は、サーヤの父の頭の中に吸い込まれていく。
「かつて神々が懇意にしていた人間タンタロスは、ある日自らの宴に神々を招いた。タンタロスは神々に出した食事の中に、あろうことか自らの子を殺してその肉を混ぜたんだ。さらにタンタロスは神々の食事を盗み、自らの利益のために他人に与えた。神々の怒りをかったタンタロスは、子殺しと横領の罪をかぶり、地獄へ送られた。タンタロスは地獄の沼の上で枝に吊るされ、喉の渇きを潤すために沼に近づけば水位が下がるという、渇望の呪いをかけられて苦しみ続けることになった」
淡々と語るルルク。
サーヤの鼓動が早くなっていく。
……知ってる。
その話は聞いたことがある。
ずっと前、彼が楽しそうに親友に語っていたのを憶えている。
隣の席だったから、盗み聞きしていたのだ。
「ゆえに苦しめ。子殺しを成そうとした罪に、毒を用いて兄の栄誉をかすめ取ろうとした罪に。お前のその汚れきった手の先にあるのは、未来永劫つかめない幻――『届かない苦しみ』。それがお前を苦しめる、物語の名だ」
父はもう、何も言わなかった。何も言えなかった。
いつもの悪態も、兄への嫉妬も、奴隷への横暴も、どんな感情も失ったように座り込んで虚空を眺めていた。
まるで廃人になったかのようだった。
……終わった。
サーヤはそう感じた。
とても静かな終わり方だった。ずっと自分を苦しめてきた父は、ルルクの手によって自らの欲望に苦しむことになった。
戦いも、血も、痛みもない。それでもたしかに終わったのだ。
ひとりの人生を、生きながら苦しめるという方法で終わらせてしまったのだ。
それは傲慢で身勝手な、まぎれもない罪だった。
「……ごめん、ルルク」
「謝る必要はありませんよ」
それはルルクの罪。
でも、サーヤの罪でもある。
正しい裁きを与えなかったその罪は、いつかサーヤたちに向くかもしれない。この世界のどこかにいるという神様が二人を裁くかもしれない。
……それでも。
「ありがと」
サーヤの口から出たのは、そんな言葉だった。
命を救ってもらったことへの感謝。どうしても許せない父を、破滅へ導いてくれたことへの感謝。そしてなにより――
「〝手を離せクソ野郎〟。さっき、ルルクが言ったんでしょ? だから父が手を離したんでしょ?」
ここまできたら、もう確信に近かった。
どくん、と心臓の鼓動がはやくなっていく。
「……サーヤさん、この言葉がわかるんですか?」
驚いたルルクの表情。
真実を告げるには勇気が必要だった。
もし勘違いだったらどうしよう。違っていたらどうしよう。
バクバクと波打つ心音が自分でも聞こえそうだ。
喉が震える。
ありったけの勇気がいる……でも。
「〝私も、日本人だったから〟」
サーヤは日本語で答えた。
今度こそ、ルルクが息を止めるほど衝撃を受けていた。
でも、同じ元日本人ってだけじゃこんなに緊張なんてしない。
それだけじゃ、ないんだ。
「さっきの物語、ギリシャ神話だったよね。私も聞いたことがあるんだ。この世界に転生する前、学校の友達が仲のいい子とその話をしてたことがあってね。私、そのとき盗み聞きしちゃった」
「そ、そうだったんですね。参りましたね……サーヤさんも元日本人だったなんて。地球の神話を利用して強いフリしてるってバレたら、なんだか恥ずかしくなってしまいますね」
ちょっと照れたような顔。
似てる。
ああ、本当に笑い方がそっくりだ。
「ルルク……あのね……」
「なんでしょう」
「……神話とか伝承とか、好き?」
喉が枯れそうになったけど、ちゃんと問いかけることができた。
その質問こそ、ルルクが彼かどうか確かめるための鍵。
どうしても知りたいのに、いまさら目を閉じて耳を塞ぎたくなったサーヤを、その腕に抱えたルルクは目を輝かせた。
「はい! 物語には様々な形態がありますが、やっぱり伝承の根底にあるのは神話ですよ! 北欧、ギリシャ、エジプト、インド、中国、そしてもちろん日本にも多くの神話がありますよね。その起源を知ったりどう伝わってきたのかを調べたりするのがとっても好きなんですよ! 別の言語圏では同じ神なのに名前と力が違っていたり、あるいは配偶者だったりと地域ごとの繋がりもあったりして、本当に奥が深いんです! 俺も大学でもっと学びたかったんですけど、残念ながら夢を前にしてアッサリ死んでしまいまして――」
ああ、神様……。
サーヤの目に涙が滲んだ。
ずっと、苦しかった。
わけもわからず死んで、目が覚めたらこの世界に赤ん坊として転生していた。
貴族に生まれたというのに、想像以上に貧しい暮らしだった。日本にいたときは優しい両親に囲まれて温かいご飯が出るのが当たり前だった。安全な国で生まれ、快適な環境で育ったことになんの疑問も抱いてこなかった。
その記憶のまま、この世界に来たことを何度恨んだだろう。
味の薄い食事。盗みや殺しが日常の街。愛情を向けてくれた母親はすぐに亡くなって、娘を道具としか思っていない父親に命令されるがままの日々。
望んでもいない将来。やりたいこともやれない閉じ込められた日々。魔術や神秘術の座学だけが、つまらない灰色の人生のなかでサーヤに色を与えてくれた。
家から出ることも許されず、友達なんて誰もいなかった。伯父様がかくまっている獣人の子どもたちにも近づくのを禁止され、孤独に、たった一人で生きていかなければならなかった。
それでも10年我慢できたのは、記憶とともに心も引き継げたからだ。
小学生の頃、彼女は中二病だった。
意味もなく眼帯をつけて、男の子たちと走り回っていた。自分には魔法の才能があって、眼帯を外すと魔法少女に変身できると――そう思い込んだイタい子どもだった。
クラスメイト達がバカにしても、彼女はへこたれなかった。強気で振舞って、笑って、楽しそうな表情を浮かべて……そのあと家で泣いていた。
なんでバカにされるの?
好きなことをしてるだけなのに。
誰にも迷惑なんてかけてないのに。
そんな彼女を初めて認めてくれたのは、ちょっと変わった男の子だった。
「それいいね! きみが主人公なら、きっといい物語になるよ!」
その子にとっては、彼女の中二病を空想の遊びだと思ったのかもしれない。
けど、彼女にはそんなことどうでもよかった。
自分を物語の主人公だと、そう思ってもいいんだと、背中を押してくれたのだから。
それ以来、彼女は彼のことが気になっていた。
中学生になり彼女が中二病を卒業しても、彼女は彼を目で追っていた。
高校生になり大人になり始めて、友達付き合いも一気に増えた。言い寄ってくる男もたくさんいたけど、それでも彼女は彼の背中を視線で追い続けた。
色んな物語が大好きで、他のことなんてほとんど気にしない真っすぐな彼。
大学生になったら勇気を出して一歩踏み出すんだ――そう思っていた矢先、クラスメイトと一緒に突然死んだ。
もう、絶対に会えない。
この想いが報われることはなくなった。
でも10年間、つらいことがあったときは、この想いを支えにしてがんばってきた。
戦うのはイヤだけど、たくさん勉強して賢くなって偉くなってやろう。
絶対に、有名になってやる。
有名になって、物語の主人公として語られるような存在になってやる。
そしたら誰かが語り継いでくれるかもしれない。
自分を主人公にした物語が、歴史に残ったなら……。
この報われなかった想いも、いつかどこかで物語が大好きな彼に届くかもしれない。
そう思っていた。
だから、だから……
「ちょ、サーヤさん!?」
涙が、とめどなく溢れていた。
「すみません、どこか痛かったですか? 床に下ろしましょうか? 触るの嫌いでしたよね、すみませんすぐに――」
「七色くん」
彼女は、彼の名をつぶやいた。
サーヤとしてではなく、一神あずさとして。
溢れる涙をぬぐおうとなんてしなかった。
じっと彼を見つめる。
彼は――ルルクはしばらく息を止めて、そして小さく答えた。
「もしかして、一神さ――んっ!?」
その瞬間、サーヤの唇がルルクの唇を塞いでいた。
それは彼にとっては一瞬で。
彼女にとっては永遠とも思える刹那だった。
ひどく乱暴で暖かなキスだった。
唇が離れると、サーヤはルルクの首元に抱き着いたまま声を震わせる。
「ずっと、ずっと会いたかったよ……私、もう会えないって思ってた……でも、会えた。会えたよお七色くんっ」
「……そっか。ずっと一人でがんばってたんだね、一神さん」
「うん、がんばった……こんな人生、何度もイヤだって思ってた……でもよかったよぉ……生きててよかったよぉ。うう、うわあああああんっ」
「うん。生きてくれてよかったよ。俺も出会えてよかった。助けられて、本当によかった」
ルルクはそっとサーヤの背中をさする。
わんわんと声をあげて泣き出した彼女に向けた彼の視線は優しく、慈しみに溢れていた。




