心臓編・8『サーヤ』
レスタミア王国北部の森は、この季節ときおり濃い霧に覆われる。
バルギア竜公国側には国境の壁があり、南には山脈が連なっているためこのあたりの森には人が訪れることは滅多にない。もし迷い込んだとしても、濃い霧と竜王の領域から逃れる魔物たちの餌食となるだろう。
4年前に羊人族の集落が滅んでからは、この森に隠れ住んでいるのは兎人族だけになってしまったらしい。ロズが言うには、世界的にも獣人の隠れ里は年々減っているという。
ここに残っている兎人族は臆病ゆえ危機察知能力がすこぶる高く、ロズをもってしても捕まえるのは苦労するんだとか。集落も木々の上に住処を構えており、近づいても普通の人間なら発見できない。
とまあ、ひととおり説明したけど会いに行く理由もないので今回はスルーらしいけどな。ちぇっ。
ウサミミ少女とか見てみたかったなぁ。バニーガールは養殖じゃなくて天然に限るよね。まあバニーガール自体見たことないけどさ。
ちょっと残念に思いながらも、霧が立ち込めた森をまっすぐ西に進み続けた。
出会う魔獣や魔物を狩って、肉や素材を手に入れながらサクサク進むこと3日。
森が開けたところには高低差がかなりある崖――大きな渓谷があった。
この渓谷、4年前にマルコシアスが巣をつくっていたストアニア南部の川の下流にあたるらしく、そのまま川沿いに南に進めばレスタミア王国を縦断するらしい。
いまとなっては懐かしきマルコシアスくん。
ダンジョン後半でも階層ボスとして出てきたマルコシアスくん。エルニが恨みつらみを吐き出すためにボコボコにして、しかもことあるごとに周回してストレス発散の的になっていた憐れなマルコシアスくん。
兎に角。
「で、これはどうやって越えるんですか?」
「もちろん転移よ」
「ですよねー」
失敗すれば谷底に真っ逆さま。
むかしテレビで見たバンジージャンプの施設があるような高さの渓谷だ。死は免れないだろう。
そんなことを考えている隙に、ロズがひとりで対岸まで転移していた。そりゃ不老不死にとっちゃこんなところ、道端の側溝をまたぐのと変わらない感覚なんだろうけど。
下をのぞきこむと下腹部がヒュッとなるのであまり見ないようにして、エルニの手を握って『相対転移』を発動。
目測違いで空中に――なんてことはなく、両足はちゃんと地面を踏みしめていた。
ふぅ、怖い怖い。
こういう時のために、今度浮遊か飛行の術式を開発してみようかな。
魔術にもそういう便利なものはないのだろうか。
「重力関連の魔術は闇属性ね。エルニネールなら禁術レベルまでいずれ習得できるかもしれないけど、闇属性は中級から理術の理解度がかなり重要になるみたいだし、憶えるのはまだちょっと早いと思うわ」
「だってさエルニ。しばらく先になるな」
「ん。べつにいい」
エルニは高いところ平気みたいだった。うらやましいぜ。
ちなみに渓谷を越えた時点で、マタイサ王国へ入ったことになる。
さすがにこの天然の国境線は、転移なしじゃ越えられないからな。当然壁もなければ警備も見張りもいない。
「さ、目的の街はもうすぐよ。今日中に着くわよ」
「はーい」
「ん」
俺たちは少し北寄りに進み始めた。
目的地はマタイサ王国南部のケタール伯爵領。
なんかどこかで聞いた記憶があるんだよなぁ。……なんだっけ?
□ □ □ □ □
森を抜けて草原に出てからは、転移をくりかえして数時間。
遅めの昼食の時間になってしまったが、まだ陽は高い。たどり着いた街は活気にあふれていた。
街は大きく外壁も立派で、ムーテランとさほど変わらない規模の街だ。街の名前はシャブーム。北部にあるシャブーム山脈からそのままつけたらしい。
「じゃ、私はいつも通り情報収集してくるわ。……あ、そうだエルニネール。ちょっと買い物もするからついてきて」
「ん」
「いってらっしゃいませ。俺はいつも通り冒険者ギルドに行ってきますね」
そのまま商店街に出かけて行った女性陣。
もちろん退屈な荷物持ちを名乗り出る気はさらさらないので、俺もさっさと冒険者ギルドに向かう。まだ昼過ぎなのでクエストを受ける時間はありそうだ。
珍しい魔物の討伐とかあればいいんだけど。
そう考えながら、とりあえず街の中央を目指す。冒険者ギルドはたいてい中心付近にあるから、ある程度近づいたら街の人にでも聞けばいいや。
そう思ってのんびり歩いているときだった。
視界の端にちょっと違和感を憶えた。
たくさんの人が行き交う大通り。ところどころに露店が並び、そのせいで人の流れがかなり複雑になっていた。
それでもその不自然な動きに俺が気づいたのは、単に偶然だった。
年下っぽい少女がひとりで裏路地へ飛び込んでいったのだ。
裏路地にはいい思い出がない。
かつて誘拐犯と対峙して死にかけたのは、苦い思い出だ。まだ5歳だったとはいえ無謀な戦いを挑んでしまったことに変わりなはい。あのときもっとうまく立ち回っていれば、より安全にリリスを救えたかもしれないのだ。
「うーん……しゃーない」
無関係な人間のために危険を冒すようなほど慈悲深くない。
だけどつい、その子の後ろ姿に妹の影を見てしまったのだ。
その子を追って俺も路地裏に入ることにした。
どこの街も大通りから逸れると、狭く薄暗い通りになる。
下水の匂いもどこからか漂ってくるし、ネズミなんかもよく見かける。衛生的にもあまり長居したくはないので面倒なトラブルは勘弁してほしいところだ。
少女が駆けていった方角を見ると、生活道路なのでまったくの無人というわけではないが、離れていく少女の姿をとらえる。思ったより遠くまで行ってる。歳の割に足が速い子だな。
でも何かから逃げてるような、そんな走り方だ。
単に鬼ごっことかそういう遊びならいいんだけど、俺が気になっていたのは彼女の服装だった。
庶民が着るようなシンプルなデザインだが、材質はかなり高価なものに見えたのだ。庶民の遊びをするにはいささか場違いな服装……おそらく、貴族の令嬢か。
それゆえこの裏路地に駆けこんでいった彼女を放っておけなかったんだけど。
「お、ビンゴだ」
少女を追いかけるように、別の道から新たに路地に入ってきた男たち。
私兵だろう。服装に統一感はないが、装備は同じ。
平民で私兵を雇うような人はかなり少ないだろうから、やはり貴族関連だろうな。人攫いは見えないけど……いや、先入観はよくないな。
どっちにしても、厄介ごとだろう。
いくら足が速くても大人と子供の差は大きい。そのうち誘拐犯(?)に捕まる可能性は高いだろう。
とりあえず、ちょっとだけ事情を聞いてみるか。
「『相対転移』」
俺は少女が駆けて行った方角の、一番高い建物の屋根に転移した。
危なげなく屋根のふちに立ち、眼下を眺める。
いたいた。逃げる少女に追いかける男たち。
「よっと」
家の壁を蹴って地面に降りる。
その直後、少女は予想通りこっちに曲がって走ってきた。
俺の後ろには壁。行き止まりだ。
このあたりの地形はさっき上から把握したけど、無秩序に家を建てたみたいで袋小路が多くなっていた。それも知らずにこっちに走ってくるってことは、慣れてる道ってわけじゃないだろう。
「そんなっ!」
俺のそばまで走ってきた少女は、行き止まりだと知ると顔を蒼白にしてこっちを向いた。
「そ、そこのお兄さん! 隠れられる場所知らない!?」
「ん? お嬢ちゃん、このあたりじゃ見ない顔ですね。どなたですか」
地元民っぽい返事しておく。
そこで正面から少女をまじまじと見て……――
ハッ!?
いかん、ちょっと見惚れてしまってた。
まだ10歳程度の少女だったけど、その顔はすこぶる整っていた。くりくりの瞳に、すらりと通った鼻筋。バランスの取れた口角にほんのり朱色に染まった頬。
髪はこの世界では珍しい黒髪だが、瞳は明るいグレーだ。師匠ほどの日本人顔じゃないけど、かなり近しい可愛さを持っている。黒髪は左右を赤いリボンで結んでいてツインテールにしている。
まだ俺の好みの年齢じゃないけど、そんなことは関係ないと思えるくらい、語彙力を失ってしまうほどめちゃくちゃ可愛かった。いずれ絶世の美少女になるだろう。
あと5年もすれば十分守備範囲内だ。ここは連絡先を聞くべきか。ラインやってる?
まて。鎮まれ、俺の下心……っ!
「い、いいから教えて! それかかくまって!」
ちょっと気が強いのか慌ててるだけかはわからないけど、焦りながらも睨んでくる。
追いかけてくる男たちの足音も近いので、冗談はほどほどにしておこう。
事情を聞く時間もなさそうなので、仕方ない。
俺は手を差し出す。
「じゃあ、手を貸してください」
「えっ……わ、わかったわ!」
少女が疑いの目を向けて来ながら手を握ると、俺は少女と自分に向けて『閾値編纂』を発動した。
「神秘術!?」
「しっ、黙って」
驚いた声を上げる少女に、静かにするよう指示。
ちょうどそのとき追いかけてきた私兵たちが姿を現した。
隣で身を固くする少女だったが、私兵たちは俺たちのそばまで歩いてくると、
「キミ、ここを女の子が通らなかったか? これくらいの身長なんだが」
「さあ。見た覚えはないですね」
「本当かね?」
「気づかなかっただけかもしれませんけど、ここは見ての通り袋小路ですよ。隠れる場所もないですから、あっちに行ったんじゃないですか?」
「……そうだな。感謝する」
そう言い残して引き返して言った私兵たち。
俺と堂々と手を繋いで立っている少女に気づきもしなかった。
彼らが離れていくと少女から手を離す。
少女はその場にへたり込んだ。
「ここで座ったら汚いですよお嬢様」
せっかくの上等な服だろうに。
俺は妹をあやすように、脇に手を差し込んで持ち上げて立たせた。
少女は顔を赤くして暴れた。
「ひゃっ! 触らないでえっち!」
「ああ、すみません。妹に似てたものでつい」
「そっ……それなら、まあいいわ」
プイッとそっぽをむいてしまった少女。
しかし思い出したように振り返って、
「それよりさっきの! あなた、何をしたの? あれ神秘術でしょ?」
「よくお分かりになりましたね。霊素が視れるんですか」
もちろん俺も気づいていた。神秘術を一目で神秘術とわかるのは、同じ神秘術士だけなのだ。
少女は逆に問われてハッとしたが、隠す必要もないとばかりに開き直った。
「ええそうよ。神秘術も使えるわ。それでお兄さん、さっきのは何? どんな術なの?」
「置換法の一種ですよ。『閾値編纂』と言って、対象に任意の情報を上書きする認識阻害の上級術式です。さっきは俺たち二人に『大人の男が一人で立っている』という情報を上書きしたので、彼らには男が一人立っているだけに見えたんですよ」
「すごいっ!」
と、目を輝かせた少女だった。
「すごいわあなた! そんなに若いのに、うちの家庭教師よりずっとすごいわ!」
10歳くらいの子に若いって言われたんだが。
まあ、客観的に見れば確かに13歳も若いんだけどさ。
「ねえ、あなた普段はなにしてるの? 神秘術士ってことは、研究者?」
「冒険者ですよ。これが証明書です」
「Bランクなんて! あなた何歳なの? まだ成人してないわよね?」
「13歳ですよ。俺の場合は、教えてくれた師匠が俺なんかよりずっと凄い人ですから」
「へえ……そんなにすごい神秘術士がいるの。会ってみたいわね」
はわわ~と浮ついた表情の少女だった。
それよりも。
「お嬢様は、どういったご事情でこんなところに? さっきの方々はどなたですか?」
「…………。」
そろそろいいだろうと思って問いかけたら、ムッとして視線を逸らされた。
さっきまでの親密な態度からあっという間の変わり身だ。
年頃の少女は難しいな。
「話したくなかったら結構ですよ、俺も善意で助けただけなので。でも路地裏は何があるかわかりませんから、すぐに大通りに出ることをおススメしますよ。それでは俺はここで失礼しますね。それでは」
「ま、待って!」
あっけなく去ろうとしたら、少女が止めた。
かなり言いづらそうに口を開いた。
「わ、私はサーヤっていうの。助けてくれてありがとう……それで、お願いなんだけど……あの、お兄さん」
「ルルクといいます、サーヤさん」
「ルルクね、わかったわ。それでルルク……あのね、もしよかったらなんだけど……少しの間どこかで匿ってくれないかしら?」
ふむ。
つまりこの小さな美少女を、人目につかない場所に連れ込めってことだな(ゲスい顔)。
いやまあ、冗談だ。
……冗談だよ?




