弟子編・22『伝承顕現』
フェンリルという獣がいた。
北欧神話に登場する、巨大な狼の怪物だ。
彼は神と巨人の子として生まれ、普通の狼として育った。
しかし彼が神に災いをもたらすとされ、魔法の紐により拘束されてしまう。
その拘束具は強固で、大いなる戦いで彼が解放されるそのときまでの永い間、彼の体を縛り続けた。
その魔法の紐の名は『グレイプニル』と言った。
□ □ □ □ □
「『伝承顕現――グレイプニル』!」
俺が呼び出したのは一本の紐だった。
敵を傷つける刃も、敵の攻撃を防ぐ盾も存在しない。
ただ、一本の紐だ。
『小賢しい! そんな術ひとつで何ができると――』
マルコシアスが嘲り、その紐ごと俺を吹き飛ばそうと魔術を発動しようとして、そこで体がぴくりとも動かないことに気づいた。
紐が、いつのまにかマルコシアスの全身に絡みついていた。
マルコシアスだけじゃない。周囲の眷属たち全員の体にも。
たった一本の紐なのに、マルコシアスがどれだけ力を籠めても千切れる様子はない。
『なんだ、コレは……っ!?』
「それは災厄と呼ばれた狼を縛るために生み出された伝説の道具だ。その災厄の狼っていうのは、こっちでも王狼――フェンリルって呼ばれてるみたいだけどな」
『グ、ヌヌヌ!』
もがいても、もがいても抜け出せない拘束具。
マルコシアスの上位種を縛るためにつくられたものだ。当然、マルコシアスにどうこうできるはずがない。
「解けないさ。この紐は伝承そのものなんだよ。狼を縛るという目的のために作られた、対狼専用概念武装――それがグレイプニルだ」
その狼にこれが破れるはずがない。
顕現した〝狼縛の紐〟は神の理――概念そのものだ。
逆に言えば、狼以外にはまったく役に立たないけどな。もしこの場に狼以外のマルコシアスの眷属がいたなら俺も危うかっただろう。
『……しかし、ただ縛るだけで我に勝てるとでも? 所詮貴様は一芸に長けただけの虫けらよ。強者の前では時間を稼ぐのが関の山。それにこの術も、いつまでも保っていられるものではないだろう』
「ああ、そうだな」
すでにマルコシアスを縛るグレイプニルは、霊素を拡散させて薄れ始めていた。
けど、対狼用の伝承はこれだけじゃない。
むしろ次が本命だ。
「『伝承顕現――井戸』」
それは穴だった。
マルコシアスをはじめ、すべての狼たちの足元に出現した暗い底なしの穴。
ただそれだけのもの。
『クハハ、ただの落とし穴で、我々を滅ぼせるとでも思ったか!』
「……マルコシアス。おまえはこの大陸にどれくらいの人々がいるか知ってるか?」
突然話を変えた俺に、マルコシアスは一瞬訝しみ――その穴の違和感に気づく。
まるで死神の鎌を突きつけられたような、容赦のない悪寒がマルコシアスの毛を逆立てた。
『なんだ、コレは……!?』
「正確にはわからないだろうけど、マタイサ王国の概算によるとおそらく五千万人強だと想定されている。この大陸の大国ではマタイサ王国には三百万ほど、マグー帝国とバルギア竜公国には五百万人ほどの民が住んでいるってわけだ。もうひとつの大陸や小さな国々を合わせても、五千万人――少なくとも六千万人には届かないらしい」
『虫けらァ! この穴はなんだと聞いている!』
「俺の『伝承顕現』は、世界樹に保存されている記憶を呼び出して使う力だ。その世界樹の記憶――集団意識が強ければ強いほど、その概念も強くなる」
対して、地球の人口はおよそ七十億人。
現在生きているだけで、七十億人だ。
この世界の百倍を軽く超えている。
「おまえたちを縛るグレイプニルは、有名な神話のひとつだ。だけどその神話よりも圧倒的に知られている狼の物語が存在する」
すでにマルコシアスを縛るグレイプニルが消えかかっていた。
「その物語では最後、狼は泉や井戸に落ちて死ぬんだ。わかるか? 狼は落ちて死ぬものなんだよ」
俺は倒れているエルニネールを抱えて立たせる。
後ろから支えると、彼女は目の前にいる仇をしっかりと見据えた。
俺が呼び出したのは、狼を殺す物語だ。
フェンリルの伝説よりも、圧倒的に知る人の多い狼の物語。昔から世界中の国々で読まれ、いまもなお愛されている母と子の童話。〝知名度〟がそのまま強さとなる【想念法】にとって、狼殺しはこれ以上ない強靭な概念として顕現される。
物語は、かの有名なグリム童話。
「『狼と七匹の子山羊』。それが、お前を殺す物語だ」
グレイプニルが消える。
その瞬間、すべての狼たちは奈落へと吸い込まれていく。
狼を殺す概念の穴は、決して彼らを逃がさない。
『ぬううう! だが我には翼がある!』
マルコシアスは自らの翼をはためかせ、巨大な奈落から脱出しようとする。
無駄だ。
『狼と七匹の子山羊』で母山羊は万が一にも狼が登れないように、確実に落ちていくように狼の腹に石をつめた。
だからお前が狼である限り、そこからは決して逃げられない。
それでも重い体を必死に浮かせて、穴から出ようともがき続けるマルコシアス。
「エルニネール、石を」
「ん」
俺にうながされ、エルニネールは足元に落ちている河原の石をひとつ拾い上げた。
生き残った子山羊が、無事に兄弟を助けた物語のようにはいかないけれど。
……せめて家族の仇は、子羊の手で。
「ルルク、ありがと」
エルニネールが放った石はゆっくりと放物線を描いて、マルコシアスにぶつかった。
たったひとつの小さな石が当たると、マルコシアスはすべての力が抜けたように、真っ逆さまに落ちていく。
『バカな! バカなああああああっ!』
断末魔が暗闇へと消えていく。
全ての魔物が穴に吸い込まれると、役目を果たした暗闇は綺麗さっぱり消え去った。
狼たちはこうして、奈落に飲み込まれしまいましたとさ。




