覚醒編・31『私の娘』
レクレスは、竜王の一撃で消滅した。
結局あれだけ傲慢に振舞って他者を見下していたレクレスも、皮肉なことに、竜王にとっては羽虫とさほど変わらなかったらしい。
せっかく助けてくれた仲間に見捨てられたことにも気づかず、実力差もわからず竜王に勝てると息巻いた結果の、まさに無謀な最後だった。
「……そうですか。レクレスは死んだのですね」
「はい。竜王の手で、跡形もなく」
俺がうなずくと、女王は深く息をつき空を見上げる。
そっと閉じた瞼の端から、綺麗な雫が落ちていった。
しばらく静かに佇んでいた女王だったが、観客たちのざわめきが大きくなってきたことに気づいて、涙を拭って声を張り上げた。
「獣王国の皆さん、先ほどは何が起こったのかわからず混乱していると思います。その説明と、私からも女王としてお話しなければならないことがございますので、どうかご傾聴ください」
女王はそれからレクレスの存在と、この国の関係、そしてどれほど多くの女王が彼の支配に置かれ涙を呑んできたかを語った。レクレスの狙いや、この王座戦を利用されてきたこと、さらには俺たちの戦いまでの一部始終。
そして最後には、そのレクレスがどうなったかも。
ほぼ一気に語った女王は、しばらく息を整えてから胸に手を当て、ゆっくりと頭を下げた。
「そして最後に、謝罪をさせてください。国を危険に陥れた責任は、私、女王にあります。多くの一般市民、傭兵、そしてここにいる冒険者の方々によって大きな被害は食い止められましたが、少なからず犠牲者が出たのも事実です。レクレスという脅威を野放しにしていた責任は私が背負わなければなりません。今回亡くなった方のためにも、私は今日限りをもって女王の座を辞すことに――」
「認めねぇぞ!」
と。
退位を言葉にしかけた女王を遮ったのは、観客の一人だった。
「そんなクソ野郎なんざ知るか! 勝手に辞めるんじゃねぇ!」
「ですが私のせいで――」
女王が反論しようとすると、観客たちが一斉に声を上げる。
「女王様よぉ、この国じゃあんたが一番強いんだ! じゃあ他の誰が止められたってんだ!」
「そうだ! それに王座戦の結果は絶対だ! 女王でもそれは変えられねえぞ!」
「責任取るなら、きちっと任期終えてから辞めやがれ!」
野次を飛ばす観客たち。
国のトップにかけるような言葉や態度じゃない……が、この国ではそれが普通なのかもしれない。強さに敬意を表しても、立場に敬意を表しているわけじゃないのか。
ここで逃げることは恥。それは弱者のすること。
そう考える獣人たちの勇ましさに気圧されて、女王も少し困惑していた。
「し、しかし……」
「そうや! 責任っちゅう言葉を使って逃げんな!」
そこで闘技場の出入り口から入ってきたのは、治療室にいたはずのハートハットだった。
「ウチら挑戦者でいっちゃん強かったクリムゾンにすら圧勝したんは誰や? それを見んかったことにせぇって言うつもりか? そんな不義がこの国で通じるかいな!」
その後ろからネムネムとヤヨイマーチも出てきて、何度もうなずいていた。
みんな容赦なく、女王を睨んでいる。
そして。
「姉さん」
クリムゾンが、その拳を青い炎に変化させながら言った。
「どうしても退位するというのなら、私ともう一度戦え。戦って負ければ誰も文句はない」
「……サラサナン」
「なに、手加減しなくてもいいぞ。私もこの戦いで大きく成長したのだ。このまま戦わず敗者として表舞台から去ると言うのなら、私は金輪際姉さんの背中を追うことはないだろう。〝最強の傭兵〟として、弱者に憧れるような誇りのない人生を送るつもりはないからな」
鼻で笑うクリムゾンだった。
女王は驚いた表情を浮かべる。
いままでそんなことを言われたことはなかったんだろう。
そして妹に挑発されたことを知ると、涙の跡をぬぐい去って、何かが吹っ切れたように笑みを返した。
「言ったわね。まだ妹の貴女に負けるつもりはないわ」
「そうか。なら女王の座をかけて勝負しろ」
「ええ。受けて立つわ」
拳を握って、クリムゾンが女王に対峙する。
王座戦の再戦を前にして、観客たちも一気に盛り上がった。闘技場は爆発するような歓声に包まれる。
部外者の俺たちもまた、彼らの行動を眺めて心の底から笑っていた。
「ははは。なんて国だ」
「うむ、豪快なやつらじゃのう」
「ん。つよい」
ほんの数分前まで国が滅びる瀬戸際だったと思わせないほどの盛り上がりだった。
これがインワンダー獣王国。
これが、獣人たちの逞しさか。
義と強さを何よりも尊び、大事にしてきた獣人たち。
観衆たちは相手が女王であろうと……いや女王だからこそ、戦うことから逃げることを許さない。
たった一人で背負うことを、許さない。
いままで女王が抱えていた苦しみや、葛藤、そして重責。
そのすべてをかき消そうとするように、乗り越えろと言わんばかりに、獣王国民は全力で声援を送る。
その言葉は乱暴なものかもしれない。
ひどく粗雑で、優しさが見えないかもしれない。
だが彼らが言いたいことはひとつだった。
逃げなくていい。
おまえは決して一人じゃない。
この国が、俺たちがついているんだぞ。
そう言わんばかりに、熱く響いていた。
「ほんなら王座戦延長戦、開始や! さあいくで――いざ、死合えッ!」
ハートハットの合図とともに。
女王とクリムゾンは獰猛な笑みを浮かべ、全力でぶつかったのだった。
王都の空は、青く澄み渡っていた。
■ ■ ■ ■ ■
「……完敗だ」
吐き出す息が白くない。
寒くない風がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
クリムゾンはそんな感慨とともに荒い息をついていた。
いまだ信じられなかった。生まれてからずっと肌を震わせてきた王都ラランドの寒さが、まるで嘘のように消えているのだ。
どこからか生暖かい風が吹きつけて、遥か高い空には、一匹の渡り鳥が飛んでいた。
クリムゾンは地面に横たわって肩で息をしながら、千切れ雲が流れていく空を仰いでいた。
これほどまでに心地の良い敗北は、初めてだった。
「当然よ。私はお姉ちゃんだもの」
クリムゾンの隣に立ち、同じように空を見上げてそう言ったのは女王の姉。
またもや完敗だった。
新しく身に付けた因子運動の増幅をもってしても、姉にはまだまだ届かなかった。
やはり越えられない壁なのか。
そう思いながらも、彼女は自らを笑う。
これからだ。
これから、強くなればいい。
「次の王座戦では私が勝つ」
「そう。がんばりなさい」
生まれたときから追いかけた背中は、まだ遠い。
でも指先が触れる距離くらいには近づけたと思う。ようやく権能も使いこなせるようになってきた。火神の使徒として、神に恥じない強さになろう。
「でもいい戦いだったわ」
「ああ」
クリムゾンは差し出された手を握って、身を起こした。
二度も完膚なきまでに負けたというのに、なぜか今回は観客たちの割れんばかりの歓声が心地よかった。
「……ねえ、サラサナン」
「なんだ姉さん」
「貴女に、きちんと謝りたいことがあるのだけれど――」
姉が改まってそう言いかけたときだった。
「ママーっ!」
闘技場の出入り口から飛び込んできたのは、小さな影だった。
ぴょこんと生えた長い耳に、愛くるしい無垢な表情。
……見間違うはずがない。
ミンミレーニンだ。
ミンミレーニンはそのままテトテト走ってくると、姉の足に抱き着いた。
姉は驚いていた。
「貴女、どうしてここに……」
「す、すみません陛下! 姫様がどうしても陛下の元へ戻れとお命じになり……」
ミンミレーニンについてゾロゾロと闘技場に入ってきたのは、彼女を守る兵士たち。
そのなかにはバツの悪そうな顔をした犬人族の知り合い――サーベルもいた。
女王は苦笑しながら、
「ミンミン、どうして兵士さんたちにワガママを言ったのかしら?」
「ごめんなさいママ。でも〝ははのもとへかえれ〟って、いつもの声が聞こえたから……」
「また『神託』が下ったのね。なら仕方ないか……無事で戻ってきてくれて良かったわ」
ぎゅっとミンミレーニンを抱きしめる姉。
その背中に小さな腕を回して、嬉しそうに笑うミンミレーニンだった。
「……」
クリムゾンは、そっとその場から離れる。
ミンミレーニンにとっての母親は、姉なのだ。
私はただの傭兵。
姉は、私とミンミレーニンを守るために一人でずっと戦ってきたのだ。私とミンミレーニンのために、嫌われる覚悟でレクレスから守ってくれていたのだ。
いまさら恨みがあるはずもない。
だから、これでいい。
いまさら本当の母親が名乗り出てもミンミレーニンが困るだけだ。
「……」
愛情を注がれ、まっすぐに育っている私の可愛い娘。
その姿を一目近くで見れただけで満足だ。
元気な顔を見れただけで充分だろ?
なあそうだよな、最強の傭兵?
だから、泣くな。
強者は涙を見せない、それが獣人の矜持だろう?
「クリムゾンさん」
ぐっと涙を堪えたまま闘技場を出ようとしたクリムゾンの前に、なぜか立ち塞がったのは小柄な冒険者――ルルクだった。
「どうした」
「ひとつだけ言いたいことがありまして」
「なんだ。手短に言ってくれ」
「では、あと十秒そのままで」
「……?」
なぜそんなことを。
そう困惑していたクリムゾンの足に、小さなぬくもりが飛びついてきた。
とっさに振り返る。
彼女の足に抱き着いていたのはミンミレーニンだった。
無垢な瞳で、クリムゾンの顔を見上げてくる。
「どこいくの?」
「っ……そ、外に……」
動揺したクリムゾンは、言葉に詰まる。
想像よりも小さい手足。
だが、想像よりもずっと温かいミンミレーニンのぬくもり。
思わず抱きしめ返したくなった衝動をぐっと耐える。
見ず知らずの傭兵が、姫を手に抱くなど……。
そんなクリムゾンの葛藤など知らず、ミンミレーニンは唇と尖らせて言った。
「もう行っちゃうの? せっかく会えたのに……ママと一緒で忙しいんだね、おかあさん」
「――っ!?」
お母さん。
まさかミンミレーニンの口からその言葉が出るとは思わなくて、思わず息が止まった。
聞き間違いだろうか。
クリムゾンはゆっくりと膝をついて、ミンミレーニンと視線の高さを合せる。
「いま、私をなんと」
「おかあさんだよ?」
「ど、どうして……」
「? だって、むかしはおかあさんがママだったでしょ?」
首をかしげて、当たり前のように言うミンミレーニン。
「おぼえてるよ。ずっとおっぱいくれたのおかあさんだった。いつのまにかママのところにいたけど、ママはママで、おかあさんはおかあさんでしょ? わたし、ずっとおぼえてたよ」
「……っ!」
信じられない。
姉に連れ去られたときはまだ、数か月の赤ん坊だったはずだ。
でも、娘の言葉を疑えるはずもなかった。
クリムゾンだけでなく、姉もまた目を見開いて驚いていた。
「かみさまが〝だれにも言っちゃダメ〟って言ったから、わたし、だまってたんだよ。でもね、かみさまが言っていいって言ったから……だからね、おかあさんはおかあさんだって知ってるんだよ! ママもすきだけど、ずっとおかあさんに会いたかったんだよっ!」
ミンミレーニンが、満面の笑みで腕の中に飛び込んできた。
ぎゅっと抱きしめられる。
小さくも、熱いほどの体温。
……ああ。
これは夢だろうか。
ミンミレーニン。
可愛い可愛い、私の娘。
「私も、会いたかった……!」
「えへへ! おかあさんからだおっきい!」
筋肉に触れて喜ぶミンミレーニン。
その表情も、その声も、ずっと待ち望んでいたものだった。
ずっと焦がれていたものだった。
いままでずっと、血に汚れた手でミンミレーニンを抱くことはできないと自分に言い聞かせてきた。
でもそれはただの誤魔化しだった。
苦しみから目をそらすためだけの、くだらない見栄。
娘のぬくもりを腕に抱き、彼女はようやっと自覚した。
クリムゾンは大粒の涙を流しながら、娘を優しく抱きしめる。
ミンミレーニンは腕の中で手を振って、後ろで優しく見守る姉を呼んだ。
「ねえママもこっち!」
姉はゆっくりと歩いてくると、何も言わずにミンミレーニン、そしてクリムゾンをまとめて抱きしめた。
幾年ぶりだろうか。
家族のぬくもりを感じ、クリムゾンは声にならない声を漏らす。
「ねえ、おかあさん、ママ!」
「どうしたのかしら」
「これからは、さんにん一緒にくらそうね!」
「ええ。そうしましょう」
ニッコリ笑ってうなずく姉と、「やったー!」と叫ぶミンミレーニン。
クリムゾンはただただ嗚咽に肩を震わせながら、何度も、何度も、うなずいたのだった。
晴れ渡った空の上。
澄んだ青を背に舞い踊る渡り鳥が、ひときわ、大きく鳴いた。




