覚醒編・29『ワンダーランドの歌』
魔法とは、魔神の権能である。
俺が初めてそれを知ったのは、学術都市の〝宮殿書庫〟で見つけた『魔神が生まれた日』という古い伝承を読んだときだった。
その神話はダニエリフという〝模倣の神〟の視点で描かれる、苦悩と栄光の軌跡だった。
物語は、ダニエリフが霊素を操ることができない体質に生まれたところから始まる。
そもそも霊素は、創造神以外の神々が与えられた権能という法則を現象化するために使うものだった。中央魔術学会のガノンドーラも考察していたように、つまり、もともと神秘術とは神々が使っていた秘術を指す言葉だ。
当時の神々は神秘術を使いこなして、世界をつくりあげていった。
しかし神秘術を使えなかったダニエリフは、模倣の権能をうまく扱うことができず、神界では落ちこぼれの烙印を押されていた。役に立たない無能の神として、まともな眷属すら持つこともできなかった。
それでもダニエリフは自らの役割をまっとうし、世界をよりよく導こうとしていた。
そんなある日、ダニエリフを憐れんだ星誕神トルーズが、ひたむきな彼のために新たな素子を生み出した。
それが魔素だった。
そしてダニエリフは星誕神の優しさに報いるため、長い年月をかけて努力を重ね、ついに魔素を使った新たな技法――〝魔法〟を習得した。
つまり魔法とは、魔素を使った『模倣』の権能だ。
ようやく望むがままに模倣の力を使えるようになったダニエリフは、それからさらに勤勉になった。
彼を虐げてきた他の神々を恨まず、むしろ『模倣』の力で彼らの助けとなった。そんなダニエリフの純真な心に触れた他の神々も、やがて彼に一目置くようになっていった。
そしてダニエリフは魔法の神――魔神と呼ばれるようになった。
そんな彼は神代末期になると、かつての持たざる者としての経験、そして星誕神の慈悲を受けた立場から、ほぼすべての下位種族のために加護を与えることにした。
それが魔素を〝魔力〟に変換する能力と、魔術という技術体系だった。
もともと魔素は細かく流動的で、神以外には感知すら難しい。
下位種族では到底、魔素そのものを扱うことはできない。ゆえに彼らの体内で魔素を溜め、生命体に毒となる部分を取り除いてから使用する力――魔神の加護を与えた。
もちろんそれは権能と呼べるほどではなく、あくまで属性因子を『模倣』して〝現象を再現する〟だけのものだ。
だがそれでも下位種族たちには非常に便利な身を守る術になった。
こうして魔神ダニエリフは、かつて落ちこぼれと呼ばれた身から大きな成長を遂げ、多くの民に感謝されるようになった。
そして彼を慕う多くの神や民とともに、幸せに暮らしたとさ。
めでたし、めでたし。
「――っていうのが、『魔神が生まれた日』に書かれてあった内容なんだけど」
「なるほど、魔術とは魔神の加護そのものか。その話が本当なら、下位種族のほぼすべてに加護を与えるとはよほど慈悲深い神なんじゃろうな」
迫り来る空喰いの一匹を撃破しながら、ミレニアが俺の話に相槌を打った。
「……じゃがダニエリフか。初めて聞いたのう。実話じゃろうか?」
「かなり古い文献だったし、信仰そのものはどこかで途絶えたんじゃないか? まあ、俺もその話が本当か半信半疑だったけど」
「だった、ということはすでに確信があるんじゃな?」
「まあね。魔法と魔術の関係をエルニに話したら、ダニエリフの名はともかく、魔術に関してはこの神話の通りなんだって。聖魔術以外の魔術って、理術的にあり得ない現象はどう頑張っても起こせないんだって。ダニエリフが実在してなかったとしても、魔術がいわゆる〝現象模倣〟しかできないのは間違いないってさ。そらよっと」
「エルニネールほどの者でも新たな現象は作れんのか? ほいっと」
「みたいだね。おりゃあ」
俺たちは背中を合わせ、空喰いの大群を迎撃しながら話を進める。
空喰いはどんどん増えているが、雲はほとんど薄くなって、小さな氷魚もほとんどいなくなってきた。
この戦いも終わりが見えているのだ。
空の上でも……そして、闘技場でも。
「じゃがあのエルニネールのことじゃ。得意の魔術が下位種族のために用意されたものと言われて、素直に納得できるのかのう?」
「まさにその通り。俺もそう思ってたら、エルニってばいきなり魔法の研究を始めたんだよ」
「魔法を!? 魔素そのものを操るつもりか?」
「最初はそのつもりだったけど、さすがに難しいんだって」
「そ、そうか……さすがに無理か」
「でも、そこで諦めるエルニじゃなかったよ。一度魔力を分解してから抽出するっていう、魔素として帰化させる術式があれば、魔法を模した魔術が使えるんじゃないかって考案してた。エルニが命名するには〝疑似魔法〟だって」
魔素を魔力にするのではなく、魔力の一部を魔素に戻す。
魔力を操れない俺からするとまるで想像もできない技術だ。
だが、それはおそらく……完成した。
「疑似魔法か。疑似的とはいえ人の身で権能を発動させようとするとは、どんな発想をすればそうなるのじゃ」
「まあ師匠が師匠だしなあ」
「そう言われれば納得もするが……ルルク、おぬしも一役買ってるのではないか?」
まあ、多少は俺の知識も参考にしただろうけど。
ミレニアは呆れながらも、やや心配そうに言う。
「じゃがそれができたとしても、いま戦っとる相手は氷神の使徒じゃろ? おそらくあやつも【悪逆者】の一員。いくら疑似魔法を使えたとて、相手は本物の権能を使う。そう簡単に勝てるとは思えんが……」
「大丈夫だよ」
俺は気楽に言った。
「エルニが勝てると判断したんなら、負けないだろ」
「す、すごい信頼じゃの」
「信頼って言うか、確信なんだけどな。だってエルニは――」
思い返せば、もう五年も前のことだ。
かつてエルニが親の仇を取った、あのマルコシアスとの戦いの後。
それから俺との修行期間を経ていまに至るまでのあいだ、エルニは自分だけで戦うと決めたとき、ただの一度たりとも負けてないのだ。
それも、ただの負けではない。
五年間エルニはただの一度も、
「傷を負ったことすらないから」
常勝無傷の魔術士。
それがエルニだ。
言葉足らずで脳筋思考じゃなければリーダーを任せたいくらいに強いのだ。そしてその成長速度は、ロズすら手放しで褒めていたレベルだ。
俺の言葉に、ミレニアも納得していた。
「……なら、妾たちの援護はいらんかのう」
「そうだな。レクレスは任せて、俺たちは空喰いを引き付けて街の被害を抑えることに集中しよう――『光弾』!」
「承知したのじゃ――『連鎖裂衝』!」
俺とミレニアは空喰いたちを破壊していく。
そしてその直後。
眼下の闘技場で、それは発動した。
■ ■ ■ ■ ■
「――疑似魔法『8』」
張り詰めた闘技場に、呪文が紡がれる。
レクレスがとっさに目を向けると、エルニネールの体から漏れていた魔力が唐突に消失した――ように見えた。
だが、それは違った。
幾重にも重なる魔力が、解けて結び直されていく。
誰にも感知できないほど細かく、そして綿密に。
「〝魔法〟……?」
レクレスは訝しんだ。
神話曰く、魔法とは魔神の権能そのものだ。
いくら魔王の素質を持っていたとしても、権能は世界の法則。
詠唱をしてから発動したってことは、ただの魔術だ。魔術で権能を使うことはできないはず。
「ふん、所詮はこけおどし……ん?」
だが、唐突に言い知れぬ喪失感が襲ってきた。
なんだ?
何が起こったのかさっぱり分からない。
だが、何かが起こったのは分かる。
その不可思議な感覚の正体を知る前に、レクレスの耳に歌が聞こえてきた。
「~♪」
エルニネールが鈴の音のような声で歌い始めた。
目を閉じ、じっと歌声を響かせている。意味があるのかないのか、不可思議な言葉で歌を口ずさんでいる。
……何をやっているんだ?
レクレスは訝しみながらも、手をエルニネールに向ける。
身を守っていた『絶対零度』の壁も消え、その身を無防備に晒して歌うなんて、バカなんじゃないか?
「隙だらけだよ」
一体何がしたいのかわからないが、動きを止めてしまえば負けることはない。
そう思って権能を発動した。
その瞬間。
「うおっ!?」
エルニネールの前に立っていたクリムゾンの体が青く燃え上がった。
まるで因子運動を無理やり増幅されたように、さらに熱く、青い炎となって空へと熱を舞い上げる。
エルニネールは固まらず、歌ったままだ。
「これは……これが、因子運動の増幅!?」
クリムゾンが自分の体を見て、目を見開く。
おかしい。
確かに権能を使って、エルニネールの活動すべてを止めたはず。
なのにその代わりと言わんばかりに、隣にいるクリムゾンの因子が活性化している。
「なにが……?」
困惑するレクレス。
それを隙と見てか、女王が飛び出してきた。
さすがの身体能力だ。速い。
だが、対応できない速度ではない。
レクレスは手をかざして女王の動きを止めようとした――が、権能が発動した瞬間、女王の速度が上がった。
「あがっ!?」
腹を蹴り飛ばされる。
レクレスは闘技場の壁に叩きつけられ、地面にドサリと落ちた。
一瞬、意識が飛んだ。
治癒スキルがすぐに体の再生を始める。
「何が……」
血を吐きながら、フラフラと立ち上がるレクレス。
顔を上げた瞬間、迫る青い炎。
クリムゾンの〝炎拳〟だ。
だがさっきとは出力が違いすぎる。
「くっ!」
氷の壁を作ろうと権能を発動する。
しかし、できない。
むしろ青い炎が、まるで何かを燃料とするかのようにさらに激しく燃え上がった。
防御もできずに、全身が炎に呑み込まれる。
「うぎ!?」
痛い。
熱い。
なんだ、これは。
骨まで溶けそうな温度だ。かろうじて体内は凍らせることができるので、内臓を焼かれるとまではいかないが、激痛が全身を包む。
意味がわからない。
権能はちゃんと発動しているはず。
なのに、なぜ防げない?
なぜ炎ごときかき消せない!
しばらく耐えていると、炎は消えた。
炭化した皮膚が治癒によりすぐに戻っていくが、できるのはそれだけだった。
「余の力が……っ」
「せやあああ!」
狼狽するレクレスに、女王が目にも止まらぬ速さで接近する。
とっさに凍らせようとするも、やはり力がうまく発動しない。
女王はそのままレクレスの腹を蹴り上げた。
「ぐふぅ!?」
まるで小石のように真上に飛ばされる。
なんだ、なぜ止められない!
体内を凍らせて固めていなければ、背骨が折れていたほどの威力だ。
レクレスは口と鼻から血を溢れて上昇しながらも、闘技場に棒立ちになっている〝権能の竜〟を操ろうとして――やはり失敗する。
「なぜ溶ける!?」
権能を使ったのに、氷竜が溶けていく。
もちろん動かすことなどできない。
めちゃくちゃだ。
白霜の巨竜はそのままガラガラと自壊した。
氷の権能は、因子運動を減衰させる力のはずだ。
なのにその力を自分以外にうまく使えない。
「な、何が起こってるんだよッ!?」
わけがわからない。
だが、とにかくこのままじゃマズい。
レクレスは慌てて力を発動する。
だが空中で氷の床を生もうとすると、ぬるい風が吹いた。
闘技場に氷の槍を放とうとすると、出てきたのは砂糖菓子。
この国ごとすべてを凍結させようと全力で権能を解放するも、レクレスの周囲に花が咲く幻が生まれただけだった。
なんだ、これは!
どんどん意味が分からなくなる!
まるで子どもが考えついたおとぎ話のように、めちゃくちゃだった。
権能が正しく発動してるはずだが、効果がまるで違っている。法則性もバラバラで、ビックリ箱のように使ってみなければわからない。
しかも、そのすべての攻撃力が消えている。
慣れ親しんだ世界がひっくり返ってしまったかのように、レクレスの権能が拒絶されている。
まるで不思議の国に迷い込んだかのようだった。
「~♪」
目を閉じて歌うエルニネールの旋律が、新しい物語を紡ぐように、本来あるべき因果を書き換えていく。しかもその影響を受けているのはレクレスだけ。
「炎拳ッ!」
炎が迫り、レクレスの体を焼きながらさらに上空へと押し上げる。
なんて威力。なんて高温。
体の表面の水分が一瞬で蒸発し、レクレスは必死に体内を凍らせる。
痛い。
熱い。
冷たい。
ダメだ、うまく考えがまとまらない!
吹き上げる炎は、レクレスの体を雲近くまで上昇させた。
――そうだ、空喰い!
レクレスはとっさに自らの眷属をすべて地上に叩きつけようと、さらに空の上を振り返って。
「えっ」
空喰いが……いない?
ついさっき、王都中の雲をほぼすべて空喰いにしたはずだった。
だが、それが一匹たりとも残っていない。
いままで空喰いがいたはずの場所には、小さな少年と少女が浮かんでいた。
そしてレクレスを、憐れむような目で見降ろしていた。
なんだ、あいつらは。
余の空喰いたちをどこへやった!
さっきから、一体何が起こってるんだ!?
「レクレス」
「っ!」
雲の上を見上げていたレクレスの視線を塞ぐように、すぐそばまで飛び上がってきたのは女王。
ずっと駒として扱ってきた下僕。
なんでも命令に従っていた女。
その彼女が太陽を背負って、まるで虫を見るような目でレクレスを見下ろしていた。
「覚悟は、いいな?」
レクレスと女王。二人の上昇がぴたりと止まる。
そして、女王はゆっくりと踵を振り上げた。
やばい。
回避しないと。
でも権能がまともに操れない。
言うことくらい聞けよ!
余の力だろ!
なあ、おいっ!
レクレスは必死に力を籠め続けた。
だがすべてが空回る。
こんな高さから落ちるだけでもヤバいのに。
化け物みたいな身体能力の女王に本気で蹴られたら、どうなるか想像に難くない。
やばい。
死ぬ。
このままじゃ死んでしまう!
動け。
動けよ、余の権能!
「くそっ! くそくそくそおおおおお!」
「私たちの恨み、思い知れッ!」
「やめろっ! これは命令だ!」
レクレスは叫んだ。
だが女王の踵は、無慈悲にもレクレスに振り下ろされる。
どうして!
どうして、何もできない!?
余を誰だと思っている!
氷神の使徒レクレス様だぞ!
くそ、くそくそくそ!
あいつのせいだ!
あいつがいなければ、余は神に近づけたはずなのに!
あいつさえ、いなければっ!
「おのれぇえええ! エルニネールぅううううう――ぶべぇっ!」
レクレスは呪詛のような言葉を叫びながら、大地すら砕く女王の蹴りをまともに喰らい。
まるで流星のように、地面に叩きつけられたのだった。




