覚醒編・28『覚醒』
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氷属性の極致。
それはあらゆる因子運動が停止する極めて『無』に近い世界。
レクレスはかつて、仲間にそう教えられた。
その疑似状態を魔術で生み出すのが極級術式『絶対零度』だ。
だがたかが術式。いくら威力が高かろうが、扱うのが難しかろうが、そんなものはただの術式に過ぎない。
レクレスの権能ならその根底――理術的要素から操ることができる。
どんな属性因子も自由に減衰できる。
それが上位神のなかでも優れた氷神の力なのだ。
創造神の権能でもなければレクレスの権能に抗うすべはない。
そう思っていた……しかし。
「余が、地面に、伏すなど……!」
凄まじい重力が、体を圧し潰していた。
重力干渉を受けたのは初めてだった。いくら因子運動を止めても重力は防げないのか。
口から血を漏らしながら、レクレスは己の無知を認めた。
認めざるを得なかった。
……エルニネール。
こいつは、そこらの雑魚とは違う。
レクレスがいままで出会った誰よりも魔術を使いこなし、誰よりも理術知識がある女。
痛みは久々だった。まともに息すらできない重圧だったが、レクレスも伊達に序列四位にまで登りつめたわけではない。
怒りとともに、権能を発動させた。
「でも所詮はただの魔術士っ!」
氷の権能の弱点が重力だったとしても、魔術相手なら話は別だ。
レクレスが防御のために権能を自動発動させているのは、干渉力の強い〝現象〟に対してだ。強弱構わずすべての干渉を切ってしまえば空気すら吸えなくなってしまうから、それも当然と言える。
レクレスはこの自動防御を、対魔力に変更した。
その瞬間、重くのしかかっていた負荷が消失する。
陥没した地面でゆっくり立ち上がるレクレス。その体を、彼が持っている羊人族の種族スキルが治癒していく。
「ぺっ……相変わらず血は不味いね」
久々に受けた怪我も、ほぼ数十秒で全快した。
そのまま足元に氷を発生させ、レクレスの体を押し上げる。
陥没した地面の底から戻ってきたレクレスは、杖を片手にこっちを見つめているエルニネールを睨んだ。
「不意打ちとは卑怯だね。会話をしている相手を襲うのはマナー違反だって学ばなかったのかい?」
「『グラビディナックル』」
「無駄だよ。魔術はもう効かない」
重力弾がレクレスの体に触れた瞬間、消滅する。
レクレスは一歩踏み出す。足先を起点に、氷が地面を這うように広がっていく。
この王都ラランドを囲む氷霜の岩花のように、闘技場の地面を氷が覆い尽くし、そのままエルニネールを襲う。
だがエルニネールが展開する『絶対零度』の壁に当たると、その氷も霧散する。
氷因子同士が打ち消し合っているのだ。
ちっ。
レクレスは舌打ちした。
さすがに物質ではない魔力を打ち消すには、レクレス自身が触れなければならない。遠隔でできるのは実体への干渉だけだ。
序列二位のギルティゼアも実体がないものには直接触れていたから、これは使徒の力の制限というやつなんだろう。
「面倒だけど仕方ない。そこを動くなよ」
ただレクレス唯一の弱点は、機動力だった。
氷を生成して上昇や下降はできるが、身体能力そのものが低い羊人族であることには変わりない。
エルニネールは転移も使えるから、さすがに逃げられるか……そう思ったレクレスだったが、
「へぇ。尻尾巻いて逃げないのかい? まあ逃げたらここにいる者たちを全員殺すから、賢明な判断だけどね」
じっと動かないエルニネールを挑発する。
魔術が効かなくなったと知ったはずなのに逃げないのは、人質の効果があるのか、あるいはプライドが高いゆえか。
いずれにしてもエルニネールがこの国のために戦う理由はないはずだが……まあ、留まる理由はどうでもいい。
実のところ、レクレスもエルニネールを殺す気はなかった。魔術の才能といい度胸といい上等すぎる女だ。ぜひとも飼っておきたい。
少々躾が必要だろうが、こういう手合は心を折って主従関係を教え込めば従順になる。
そう。いまはまだ、レクレスの実力をわかっていないだけなのだ。
レクレスは余裕の表情で語りかける。
「そろそろ魔力も限界じゃないのかい? ただの魔術士風情が使徒に敵うわけがないんだよ。憶えておくんだよ、これが力の差ってやつさ」
手を広げ、力を放出する。
冷気が、ますます闘技場内に満ちていく。
エルニネールは依然、『絶対零度』の壁で防いでいる。だがそれもいつまでも保てるものじゃない。その術が解けた瞬間がエルニネールたちの最後だ。
レクレスが放つ凍気をひと息吸うだけで、死に至るだろう。
「けど余は優しいから、いま降伏すれば命だけは助けてあげる。頭を下げてごめんなさいとひとこと言えば、それで許してあげるよ」
「ひつようない」
結界の中に閉じこもったエルニネールは、平然とつぶやいた。
「わたしのほうが、つよい」
「……まだ現実が見えていないようだね。良いだろう、根比べといこうじゃないか。余に楯突いたことを後悔しながら、魔力が切れるのに怯えれば――」
「『全探査』」
と、エルニネールが発動したのは索敵魔術。
魔力そのものと雷因子を拡散し、全方位の物質の配置をすべて感知する禁術だ。
拡散した魔力はレクレスに触れると消滅するが、それ以外は王都中に広がっていく。
なぜいまそんなものを――レクレスが一瞬、訝しんだ瞬間だった。
「『絶対零度』」
今度は、レクレスを包み込むように、氷の禁術を発動した。
その瞬間、レクレスが周囲に展開していた権能が邪魔されてみるみる気温が戻っていく。
「ちっ」
とっさに『絶対零度』の壁に触れて消し去ろうと手を伸ばすが、エルニネールが杖をクイっと動かすと、その壁が動いた。
レクレスの手が、空を切る。
「なっ!」
発動した魔術を、後から操っているだと!?
レクレスは驚愕した。
そんな技術聞いたことがない。魔力で術式を組んで想定した現象をつくりだすのが魔術だ。術を発動したときには、もはやその後のコントロールはできないはず。
一体どうやって……と、レクレスが考えようとした瞬間だった。
「『ダークプリズン』」
レクレスの視界が、闇に閉ざされた。
■ ■ ■ ■ ■
「姉さん! 姉さんっ!」
エルニネールがレクレスの周囲の太陽を遮って闇に包んだのと同時に、女王はハッと目が覚めた。
さっきまで妹と戦っていたはずだったが、いつのまにか倒れていたようだ。妹が半泣きになりながら自分を抱きしめ、無事を喜んでいた。
「よかった……姉さん、本当によかった」
「……サラサナン、何があったの?」
「レクレスってやつがいきなり現れたんだ」
妹は短く言った。
「そいつ、めちゃくちゃ強くて、私は何もできなくて……」
「レクレスが!? 貴女、何かされなかった!?」
焦る女王。
妹がミンミレーニンのことを口走ったとき、女王はマズいと思っていた。
レクレスはいつもながら空喰いを撃退するために動いているはずだったが、万が一話を聞かれていたら――そう思って止めようとしたが、どうやら遅かったようだ。
妹はうなずいて、
「私は大丈夫。最低なクソ野郎なのに恐ろしく強くて……でもこの子が、私たちを守ってくれたんだ」
「……エルニネールさんね」
女王たちを守るように立っているのはエルニネール。
二重の魔力で膜を張って、闘技場の一部を覆っている。
もの凄い魔力が小さな体から漏れ出ていた。
「禁術を同時にいくつも使えるんだとさ。こんな魔術士、私もいままで見たことがない……」
「じゃあレクレスはあの中? でもレクレスは、触れるだけであらゆるものを塵にしてしまう謎の権能を――」
「氷神の権能だ」
妹が女王の腕を掴んで言った。
「あいつが言ってた。氷の権能の本質は、あらゆる因子運動を減衰させる力だって。私じゃどう足掻いても勝てないけど……たぶん姉さんなら勝てる。あいつは姉さんの『超越』の力を恐れてた。だから姉さんにはずっと力を隠してたって」
「氷神の……」
女王はハッとする。
いつもレクレスが不意に現れたのは、その直前から凍らされていたからか。
ようやくレクレスの力を知った女王は、強くうなずいた。
「わかったわ、なら私のスキルで氷因子を超越できるか試してみる。エルニネールさん、私に強めの氷魔術を当ててくれないかしら。耐性さえつけば貴女にも付与できーー」
「きけん。いらない」
が、エルニネールは振り向きもせず言った。
「危険は承知の上よ。それに相手は使徒なの。ここでリスクを取らないと……」
「ん。もんだいない」
その言葉は女王を心配したからか、あるいは本当に必要がないという自身のあらわれか。
女王がそれを見極める前に、レクレスが暗闇を消し去って再び姿を現す。
眩しそうに目を細めていた。
「……こんな子ども騙しが余に効くと思ったのかい?」
「きいた」
「わざと遊んであげたのさ。でもまあ、余も舐められるのは少しばかり癪に障るからね……これだけは使う気はなかったけど、身の程知らずにはお仕置きが必要だね。覚悟はいいかい?」
レクレスは手を地面に当てて、つぶやいた。
「凍つる終末」
瞬間、レクレスを包み込んでいる『絶対零度』の結界が弾け飛んだ。
エルニネールは即座に自分と女王たちを守るように、もう一度『絶対零度』で結界を張り直す。
その向こうで、氷風が吹き荒れていた。
「なんだ、アレ」
「氷の竜……?」
女王と妹は息を呑んだ。
レクレスが巨大な氷の竜の頭部に立ち、こっちを見下ろしていた。
竜が吐き出す息が周囲を一瞬で凍てつかせ、闘技場全体があっという間に真っ白になった。もともと停止させられていた観客たちが、霜で白く染め上げられていく。
竜の上では、レクレスがつまらなさそうにエルニネールを見下ろす。
「この技、強すぎるんだよね……。もし国が滅んだら、使わせた君のせいだからねエルニネール。君は国を滅ぼした大罪人だ」
「しらない。『極炎』」
「はは。いまさらそんな魔術が効くとでも?」
エルニネールが放った炎の魔術は、氷の竜の胸に吸い込まれるように消える。
あの竜は魔術士にとっては……いや、あらゆる因子を停止させるその力は、生きとし生けるすべての者にとっての天敵だろう。
竜が大きくブレスを吐きつける。
絶望の冷気が、エルニネールの結界を徐々に削ってゆく。
「君たちに最後の忠告だ。このまま国ごと滅びるか、余に忠誠を誓って身も心も差し出すか……選びたまえ」
ここまでか。
女王は拳握った。
レクレスがいくらなんでも強すぎる。
八百年にも渡り、この国を裏から支配していたおぞましい少年。
どんなに強力な魔術を使えても、どんなに戦いの才能があったとしても、結局レクレスには敵わないのか。
……私は女王だ。
女王として、ここは命を差し出してでも許してもらうべきかもしれない。
国民の命だけはと交渉すべきかもしれない。
それが国を守る者の宿命であり、義務だろう。
だけど。
「ごめんね、獣王国民のみんな」
女王はエルニネールの隣に立ち、レクレスを睨みつけた。
女王失格かもしれない。
国としては間違いなのかもしれない。
それでも、女王は宣言した。
「私たちは」
八百年間、レクレスに踏みにじられてきた歴代女王たち全員の想いを背負って。
この悪魔のような少年に、これ以上誰も人生を狂わされないように。
「もう二度と、貴方の思い通りにはならない!」
そして、一歩踏み出す。
もしレクレスに一矢報いることができるとしたら、『超越』の権能が宿ったこのスキルだけだろう。
今度はすぐに殺されるかもしれない。
でも、耐性さえ獲得できれば。
この『超越』のスキルを使えさえすれば。
例え自分が死んだとしても、この権能でエルニネールの魂に耐性を刻み付けられる。
『氷無効』さえあれば、この魔術士と妹ならきっとレクレスに打ち勝ってくれるだろう。
女王は覚悟を決めて、つぶやいた。
「サラサナン、この国は任せたわ」
「いいや姉さん、私も一緒に戦う!」
体を炎化させた妹もまた、同じ表情を浮かべて並び立った。
その身から信じられないほどの熱量が立ち昇る。命ごと燃やし尽くすような意志を、その強い言葉から感じた。
女王は妹と目を合わせ、自然とうなずく。
幼い頃から、先を歩いてきた自分についてくるばかりだった妹。
彼女の憧れであり続けようと、必死に努力してきた。
姉として弱い姿を見せたくなかった。
強い自分であり続けようとした。
だから一人で悩んで、一人で決めて、妹に対しては恨まれて当然のことをしてしまった。
あれからずっと避けて、逃げて、遠ざけようとした。
どんな事情があろうと、結果的に守っていたとしても、深く傷つけたことには変わりない。
どれだけ謝っても許されないだろう。
だけどいま、妹は隣にいる。
隣に立っている。
それだけで、女王の心に闘志が漲ってくる。
たとえ死ぬかもしれなくても。
妹となら、怖くない。
「……愚かだね」
レクレスが呆れる。
だが女王と妹は獰猛な表情を浮かべ、巨大な竜とその頭に乗るレクレスを睨みつけた。
「その言葉!」
「そのまま返す!」
『氷』。
『火』。
そして『超越』。
その三つの権能がいま、限界を超えてぶつかり合う――
その直前。
「我は帰す」
詠唱が、響いた。
「祖は星、祖は海、祖は地、祖は翼、祖は怒、祖は哀、祖は深淵、祖は無垢、祖は慈悲たる黎明を以って理を絶ち、終焉を以って界を始むる。円環定めし無は胎となり、星誕抱きし有は母となり、世を繋ぎし万端たる宿命を愛するは我が誓いとなる。編みし心は輪廻の調を謡い、漂う星刻は縁となり揺蕩い、我が真名に於いて唱えしは敬愛を以って通ずる。其の万物たる師は心に帰し、彼の魂に我の不敗を捧ぐ。我が極めし魔の天現は新たなる創世の祝詞と化し、我がマナに於いて異界とならん――」
エルニネールの魔力が混ざり合い、ふと消えた。
そして。
「――疑似魔法『8』」
世界が反転した。
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>魔王スキル『魔術無効』『魔素の奏者』を獲得しました。
>スキル習得にともない王位存在に昇位しました。
>魔法習得にともない〝魔神の使徒〟の称号を獲得しました。
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