覚醒編・27『ふたりの羊人族』
■ ■ ■ ■ ■
「卑劣者め……っ!」
クリムゾンは苦悶の表情を浮かべ、吐き捨てた。
『娘の場所を白状すれば姉を助けてやる』
そんな条件、クリムゾンに呑めるわけがなかった。
レクレスはそれをわかっていながら、嘲るように笑っていた。
「卑怯? 余は君より遥かに強い。強者が弱者に選択肢を与えてあげようというんだから、むしろ寛容だと褒めてほしいね」
何が寛容か。
いますぐ殴り飛ばしてやりたかった。
だが、手足はピクリとも動かないままだ。
どうすればこの窮地を脱せる?
どうすれば体が自由になる?
そもそもコイツの力の正体はなんだ。なぜこうも抵抗できない。
考えろ。どんなことにも理由はある。
こいつが使っている能力が何か、考えるんだ……。
「ははは、足掻いてる足掻いてる。なら君のがんばりに免じてもう一つだけ選択肢をあげよう」
するとレクレスはパチンと指を弾いた。
その瞬間、空が割れた。
「えっ」
薄いガラスのような何かが割れて、消えていく。
いままで曇り空しか見えなかったはずの景色が、一瞬で様変わりしていた。
大きく穴が開いた曇天。
その穴のはるか向こうでは、巨大な氷の魚。
そして雲の下には、おびただしい数の小さな氷魚が蠢いている。
爆発音が響き、氷魚が消えてゆく。
だが新しく生まれ、再び地に向かって落ちてくる。
破壊され、再生されてゆく氷魚。そこかしこで激しい戦いが起こっていた。王都中で多くの者たちが、迫る脅威を迎撃している。
なぜいままで気づかなかった?
「君が遊んでいるあいだにラランドは大変なことになってるみたいだね」
「あの魚はまさか……空喰い!?」
「ご明察。いまはちんけな冒険者たちが抵抗しているようだけど、冒険者ごときに空喰いは簡単には倒せない。だけどね、余はアレを退ける力があるんだ。実際に八百年間ずっとそうしてきた」
「八百年……」
「さて、ここで第三の選択肢をあげよう」
レクレスはさらに嗤った。
「どうしてもミンミレーニンと女王のどちらも助けたいなら、仕方ないから譲歩してあげよう。余は優しい男だからね。ただしその場合、獣王国民みんなに死んでもらおうか。なあに、余が直接手を出すことはしないよ。空喰いがこのままラランドを滅ぼすのを、共に見届けようじゃないか」
「……そんな」
「女王か、ミンミレーニンか、それ以外か。生き残る者を選ぶのは君だ」
「ふ……っ!」
ふざけるな。人の命を何だと思ってる。
クリムゾンは頭が沸き立った。
だが、あまりの怒りに喉は震え、言葉が出てこない。
全身全霊を賭してレクレスを殴り飛ばしたかった。
愉悦に歪む笑みを、目の前から消し去ってやりたい。
こんなに激情が湧いてきたのは、ミンミレーニンを奪われたあのとき以来だった。
それでも体はぴくりとも動いてくれない。
どうして何もできない?
どうして私は、こんなにも弱い?
「さあ、君の手で選べ。この国の未来を」
そんなことできるはずがない。
娘も、姉も、国民たちもみな大事だ。
誰かを斬り捨てる選択なんてできるはずもなかった。
だが、レクレスに抗うすべがない。
私は弱い。
弱いことは、罪なのか?
そんなこといままで考えたこともなかった。体だけがまるで何も知らない少女の時代に戻ったようで、ただ胸が苦しかった。悔しかった。
だがいまの彼女にできるのは、冷酷な男のわずかに残っているであろう慈悲に、訴えることだけだった。
「……ゆるして、ください……」
「ん? なんと言ったんだい?」
「お願いします。許して、くれませんか……?」
「ふぅん。思ったより根性ないね、君」
レクレスは笑顔を消した。
「興が削がれちゃったよ。君の姉は従順だったけど、どんなに痛めつけても泣いたり乞いたりしなかったし、いつも心の底では余を殺したいって顔で見てきたから面白かったんだけど……まあそれが君と姉の強さの違いかな。それともまだ現実を直視できてないのかな。ならまずは君の姉を殺そうか。そうすれば、君も本気で余に向かい合ってくれるのかな?」
「待っ――」
クリムゾンが止める間もなく。
レクレスが足を上げ、姉の顔を砕こうと躊躇なく踏み下ろした――その瞬間だった。
「『エアズロック』」
レクレスの体が、ピタリと固まった。
姉の顔を踏み砕く直前、ほんの数ミリ目前でレクレスの足が止まる。
一瞬、クリムゾンには何が起こったのかわからなかった。
いままでこの闘技場に動ける者はいなかった。クリムゾンとレクレス以外、物音ひとつしない空間だった。
だがいつのまにか膨大な魔力が、空に渦巻いていた。
「……へえ、君も余に歯向かおうというのかい? エルニネール」
クリムゾンたちの頭上。
空中に、もう一人の羊人族が立っていた。
杖を手に、緑の衣に身を包んだ幼い少女がこっちを見下ろしているのは、冒険者の少女――エルニネール。
彼女の魔力が、極薄の膜を張ったようにレクレスの周囲の空気に干渉し、固めていた。
あまりにも薄く綻びのない魔力干渉だ。
ここまで綿密な魔術は、いままで見たことがなかった。
だがレクレスもまたすぐに動き出した。
エルニネールの魔術をまるで虫を払うかのように弾き飛ばし、真上に首を向けた。
「余にこの程度の拘束が通じるとでも?」
「『転移門』」
エルニネールは答えず、転移の術式で姉をクリムゾンのすぐ隣へ移動させた。
姉の体にはヒビひとつ入っていない。ほっと息をつくクリムゾンだった。
「勝手に動かさないでくれるかなぁ? 余の妻が死んだらどう責任取ってくれるの? それに君、ちょっと頭が高いんじゃない? 目上の者には頭を下げろって習わなかった?」
「ん。こっちがえらい」
「ははは、いくら余と同族とは言ってもそれはちょっと――調子に乗り過ぎだクソガキ」
低い声で唸り、手をエルニネールに向けて振ったレクレス。
まずい。
何かがエルニネールに干渉し、クリムゾンと同じように四肢の力を奪おうとして――
「『絶対零度』」
だがエルニネールは、氷属性の禁術を自分の前方に壁のように展開した。
彼女は杖をしっかりと手にしたまま、両足で視えない床を踏みしめて、じっとレクレスを見下ろしたままだった。
……レクレスの力を、無効化した?
何が起こったのか理解できなかった。
それはレクレスも同じだったようで、一瞬、ぽかんとしていたが――
「は、あははは! なるほどね、余の力をそうやって止めるのか。確かにそうだね、それなら止められるだろう。さすがだよエルニネール」
「ん、とうぜん」
「ということは、君は余の権能の正体を見破った。そういうことかな?」
どこか楽しそうに、獰猛な笑みを浮かべて問いかけるレクレス。
エルニネールは小さくうなずいた。
「こおりのけんのう」
……氷の権能?
つまりレクレスは、氷神の使徒……?
クリムゾンは思わずつぶやいた。
「そんなバカな……」
彼女の手足の感覚を奪っているのが、氷の力?
もしかして冷たくなっているのかもしれないが、見た目では凍っているようには見えないのだ。これが氷の力だとすれば、どう干渉している? 炎化もできない理由はなんだ?
レクレスは深く息を吸ってから、クリムゾンにも聞こえるように言った。
「大正解だよ、エルニネール。余は氷神の使徒……ただし、そこにいるような力に甘んじているだけの使徒とは違う」
バレてしまったからか、今度はまるで自慢の玩具をひけらかすような口調になっていた。
「ねえクリムゾン、君は使徒の力をなんだと思っている? 火を出せる力? 火になれる力? 神の権能がそんな現象を操れるだけだと思っているのかい? 神の力はもっと根本的なものだと考えたことは……ま、ないんだろうね。だから君は弱いんだよ」
「な、何を言ってる……」
「権能とは概念と同義さ。火はどうやって起こる? 火因子とは何から生まれて、何を司っているのか考えたことは? 余は火については大雑把にしか知らないけど……氷についてならよく知っている。氷因子の根底は、つまり〝因子運動の減衰〟だよ」
レクレスは指をクリムゾンに向ける。
その瞬間、右腕の動きが戻った。
しかしつぎの瞬間には、また動かなくなった。
「無尽蔵に氷を生み出し、操る……そんな現象なんて、余にとっては児戯に等しい。本物の使徒というものは、その理論すら理解して使役する。余が因子運動を止めれば、どんなものも余に触れると完全に停止する。どれほどの威力があろうと、熱があろうと、強度があろうと、だ」
「……そんなバカな」
あらゆる力を停止させる権能?
……そんなの無敵じゃないか。
そんなふざけた能力があってたまるか。
クリムゾンは否定したくてたまらなかった。そんな力があれば、獣王国だけじゃない。大陸まるごと支配できる。
ただ実際にその力を目の当たりにしている以上、信じざるを得なかった。
だが同時に、希望も湧く。
もし氷神の権能でそこまでできるのなら。
「なら私も権能を使いこなせさえすれば――」
「無駄だよ。火は四大属性。対して氷と雷は強属性だ。属性相性くらい聞いたことがあるよね? それって権能も同じでさ、下位の属性が上位に敵うわけがないんだよね」
属性相性は魔術の基礎知識のひとつだ。
クリムゾンも当然知っている。
火、水、風、土は『四大属性』。
雷、氷は『強属性』。
光、闇が『対属性』。
そして聖が『特殊属性』。
聖魔術はそもそも属性因子ではなく、創造神の権能を疑似再現しているという論文を中央魔術学会がごく最近発表していた。
とにかくその聖魔術は例外としても、四大属性と強属性の違いについては知っていた。だが、研究者ではないクリムゾンは、いままで細かく考えたことがなかった。
「つまり火は氷に勝てないんだよ」
「だ、誰が……」
誰が素直に信じるものか。
そう言おうとしたら、レクレスが鼻で笑った。
「詳しくは知らないけど、火は因子運動の増幅でしょ? 余の力は減衰。自然の法則では、減衰の力のほうが強く作用する。生命が死んでいくのと同じだよ」
「貴様の言葉など……」
「足掻くのは自由だ。けど、事実は変えられない。そもそも、これくらいの理術理論は極級魔術を使える者なら知ってるだろうさ。ねえそうだよねエルニネール? 君がフェニックスを簡単に殺せるのは、この原理を知ってるからだろう?」
「ん。そう」
問いを投げられた属性理論に、素直にうなずくエルニネール。
「そんな……」
クリムゾンでは、レクレスに勝てないのか?
いくら権能を使いこなしたところで絶対に勝てないのか。
クリムゾンは言葉を失った。
しかし。
「でも」
エルニネールが短く言葉を紡いだ。
「わたしは、かてる」
絶対的な自信。
あるいは確信とも言えるかもしれない。
それはレクレスにも垣間見える、他者を寄せ付けない圧倒的な精神的強さ。
理論すら使いこなす神の使徒を前にして、エルニネールは自分に疑いひとつ持っていなかった。
これにはレクレスも笑っていた。
「ははは! やっぱり君は余の妻になるべきだよエルニネール! だってこんなにも、これほどまでに君は余と似ている!」
「ぜったいいや」
「取り付く島もないね! でもその君を屈服させる顔が見てみたくなった!」
歪んだ愛情。
いや、支配欲か。
レクレスがエルニネールに向けるその感情は愛なんかじゃない。
傍から見ていても嫌悪感すら抱く情動だ。それを愛と形容するなんて、クリムゾンにはできなかった。
「さあどうするエルニネール? 同じ〝運動因子の減衰〟で余の力に対抗したとして、君が余を傷つけられないことには変わらない」
「……。」
「そもそも余が権能を振るうたびに極級魔術を使わないとならないなんて、魔力が底を突くのも時間の問題だよね」
「もんだいない」
「虚勢だね。まあそれが真実としても、君が余に敵わないのは道理だ。なんせ君には気にすべき足手まといが大勢いるからね」
レクレスは空に指を向けた。
「試しに、君が泣いて謝るまで空喰いを増やしてあげよう。余の眷属たちは余が命じる限り、ラランドを襲い続けるからね……さあ、君の仲間たちの体力はいつまでもつかな? もし止めて欲しかったら、余に泣いて謝って妻にしてくださいと懇願すれば、ちょっとは考えてあげてもいいけどね?」
エルニネールを脅すレクレスだった。
……そうか。
氷の権能ってことは、無尽蔵に氷を操れるってことで。
つまり空にいる氷の魔物たちは…………!
「き、貴様の仕業だったのかッ!」
「ははは、ようやく気付いたのかい?」
レクレスはさぞ愉快そうに声を立てて笑った。
「寒気と空喰いが来るから、余が目覚めるんじゃないのさ。余が目覚めるから、寒気と空喰いが都市を襲うんだよ」
「……じゃあ、八百年間守ってきたっていうのは……」
「国を救う恩があるって思わせたらね、女王はみーんな言うことを聞いてくれるんだよ。ほんと、義理堅いお国柄っていうのは操りやすくて便利だね。もちろん君の姉もそうさ。身も心も差し出して服従して……なんてバカなんだろうね。君もそう思わない?」
「き、貴様ぁあああああ!」
許さない。
コイツだけは、絶対に許さない。
クリムゾンは喉が裂けるほど叫んだ。
たとえ自分がどうなったっていい。
死んでもいい。
魂を失っても、何を犠牲にしても良い。
心の底からそう願って、呪って、あらゆる憎しみを言葉にして。
それでもなお、体はピクリとも動かない。
涙がとめどなく流れ落ちる。
「あはははは! 良い顔だね、そうだ、それを見たかった!」
「殺す! 貴様、だけは、何があっても!」
「激情は好きだよ。でもさ、忘れてないかい? 君の姉と娘の命は、余の思うがままなんだよ」
「ッ!!!」
脳裏に浮かんだのは、無邪気なミンミレーニンの笑顔だった。
遠目にしか見たことがない幸せそうな娘の姿。本当の母親を知らなくても、元気に、純粋に育っている娘の笑顔。
その途端、膨れ上がっていた憎しみは急速に萎んでいく。
クリムゾンは母親だった。
娘を守るためにはどんな苦難も耐えられる。
それと同時に、クリムゾンは妹だった。
姉のために、怒りも憎しみも抑え込める。
依然、心の中に激情は渦巻いている。
だがそれでも、クリムゾンは我を取り戻した。
その両目から、血の涙を流しながら。
土に額をこすりつけて。
「どうか、姉と娘だけは……」
「どうしようかな。生涯余に忠誠を誓えるのなら、それも考えてやらないこともないよ。余に与えられた『誓約』のスキルの前に、君の魂を捧げると言うのなら、ね」
「……それ、は……」
「誓えるかい? この先ずっと、余に隷属すると」
「ち……誓――」
レクレスの言葉が、笑みが、その命がクリムゾンの首輪となる――その寸前だった。
凄まじい魔力の波動が、落ちてきた。
「『グラビディパージ』」
「ガッ――!?」
地面に押しつぶされるように、レクレスが地面にめり込んだ。
凄まじい重力場だった。
景色すら歪むほどの重力が、レクレスを地面ごと圧し潰していく。
ビリビリと、近くにいるクリムゾンの肌すら空気が撫でている。
地面が陥没する。
下に、下に。
レクレスも身動きひとつできずに、血を流しながら地面とともに沈んでいく。
カツンと踵を鳴らし、ゆっくりと空中を歩いて降りてくるのはエルニネール。
やがてクリムゾンのすぐ隣に立つと、その杖を地面に打ち付けた。
「『絶対零度』」
極級魔術の壁が、クリムゾンたちを包むように生成された。
いままで消えていた手足の感覚が、何もなかったかのように戻る。
クリムゾンはすぐに立ち上がった。
手を何度か握り、感覚を確かめた。
「……戻った。本当に助かった。ありがとう」
「ん」
「でも、どうやって……」
にわかには信じられなかった。
あらゆる力を無効化できると豪語したレクレス。
現にクリムゾンも姉すらも手も足も出ない怪物だった。
その彼が、身じろぎひとつできずに地面に伏したままなんて。
そんなクリムゾンの疑問に答えるように、エルニネールは自信満々に言い放ったのだった。
「じゅうりょくのほうが、つよい」




