覚醒編・18『悪逆者』
■ ■ ■ ■ ■
大歓声がここまで聞こえてくる。
女王は執務室の窓を開けて闘技場を見下ろしながら、白い息を吐き出した。
王座戦が開幕してから半日が経過した。毎度のことながら、狂乱に近い盛り上がり方をするのが王座戦だ。国が盛んなことは、女王にとっては歓迎すべきことだ。
民の笑顔は、国を豊かにする。
しかし女王には杞憂があった。熱気が渦巻く闘技場では誰も感じないかもしれないが、例年よりも急激に気温が下がっているのだ。雪が降ってもおかしくない温度にまで下がっている。
今回の寒波はかなり強い。
「……厳しい戦いになりそうね」
女王は空を見上げる。
どんよりとした曇り空だった。
寒波はいつも王座戦の最終日にピークを迎え、それと同時にあの魔物が空からやってくる。
名も無き氷の魚――通称〝空喰い〟。
空喰いが初めて姿を現したのは八百年前だった。
当時の獣王国では歯が立たず、滅びるかと思われた。そこに現れた三賢者が一昼夜戦い続けてなんとか撃退してくれたが、その数十年後から、空喰いは寒波とともに姿を現すようになった。
女王を決める戦いの裏で、いつも国は脅威に晒されていた。
二度目の襲来以降、国を人知れず守っていたのがレクレスだという。
使徒という強い加護を受けた彼は、権能を駆使し、獣王国を守ってきた。そして空喰いを退けて寒波が去ると、しばらく気ままに過ごした後、また深い眠りにつく。
獣王国の歴史は、その繰り返しだった。
レクレスが国を守ってきたのは事実。
しかし女王は知っている。レクレスが守ろうとしているのはこの国でもなければ人民の命でもない。彼が求めているのは『予言』の相手なのだ。
彼の仲間に予言者がいて、何か重大な予言を聞いてこの国でその相手を待っているらしい。
いつも城の地下で深く眠っているのは、予言の相手が現れる時代になるのを待っているからだ。いつになるかわからないその時を待ち、レクレスは時代を越えて生きている。
「……予言、か」
女王も具体的な内容まで聞かされてなかった。
だが彼の――ひいては彼の仲間たちの目的は、知っている。
彼らは権能の一部を借り受けるだけでは満足できなかった使徒たち。
善良なる神々を引きずり下ろし、その神座に取って代わろうとする集団だ。
彼らは自分たちのことを【悪逆者】と呼んでいた。
自分たちがやろうとしているのはまさに悪逆だと、そう自覚してなお止まらない者たち――その一員がレクレスだった。
使徒。
妹――サラサナンと同じ、神の権能を使える者たちのことだ。
術式に頼らず、魔力に頼らず、神の権能を振るえる強者たち。
妹は幼い頃に属性神――火神に認められて使徒となった。その力は並大抵の者では破ることは出来ないだろう。女王も、生まれ持ったスキルがなければ妹にすぐに負けていただろう。
そしてレクレスは明らかにそれ以上の実力を持っていた。彼を加護する神が何なのか聞いたことはないが、妹のように直接的な破壊をもたらす力ではない。もっと深く、そして不可解な権能だった。
「私では敵わない……」
あのレクレスに勝てるのは、大陸最強の生物――竜王くらいのものだろう。
あるいはその力に匹敵すると噂される、あの〝神秘の子〟にも可能性があるかもしれない。
密偵の報告では、その冒険者たちは王座戦を観戦していた。どうやら『変身薬』を探しているらしく、休眠期が終わりダンジョンに挑めるまで待っているとのことだ。
その報告を思い出した女王の脳裏に、ふと考えがかすめた。
……もし、誰かが空喰いを完全に葬ることができれば、この先もレクレスの言いなりになる必要はないんじゃないか?
もし女王が持っている『変身薬』を対価に、彼らに空喰いと戦ってもらって打ち倒すことができれば。
「私は……この国は、解放される?」
それは、劇薬のような思考だった。
空喰いは三賢者やレクレスをもってしても退けるがやっとの相手。いくら〝神秘の子〟でも、勝てるとは限らない。
だが彼の仲間には竜姫がいる。もし戦いの中で竜姫に危険が及んだら、竜王も参戦してくるかもしれない。
竜王ヴァスキー=バルギリアは、創造神に次ぐ最高上位神・竜神の使徒だ。なおかつその神の血が流れる圧倒的な強者。彼なら、あの厄介な空喰いの息の根を止めることもできるかもしれない。
そんな淡い期待のようなものが、心に芽生える。
……だめだ。何を考えているのだ、私は。
あまりに他力本願、しかも確実性はない。国を預かる身としては愚かな考えだった。
女王は首を振ってその思考を捨てる。
「賭けなどもってのほかだというのに……」
「誰かに賭けたのかい?」
「……お帰りなさいませ」
振り返ると、レクレスがいつの間にかソファに座っていた。
やはり前触れは感じない。転移か、あるいは時間そのものを操っているのか、少なくとも女王では理解できない権能を使って感知を防いでいる。
女王は首を振った。
「少し考えただけです。それより、レクレス様はいままでどちらに?」
「コレを取りに行ってたんだよ」
レクレスはしかめっ面でペンダントを掲げた。黒い宝石が嵌められた大きなペンダントだ。
それが何か知っている女王は、表情をこわばらせた。
「呼び出しですか?」
「みたいだね。面倒だから行きたくないんだけどさ」
「そうでしたか。お気をつけて」
「何言ってるんだい? 今回は君も一緒に行くんだよ」
「……はい? いま何と?」
耳を疑った女王。
レクレスは肩をすくめた。
「余を呼んだのがギルティゼアなんだ。アイツ、余より五百歳も年上なのにいっつも人形を連れて歩いてて、しかも会うたびに自慢してくるんだ。鬱陶しいでしょ?」
「……それが、私とどう関係が?」
「君も美人だし、しかも国を背負ってる女王だからね。あの人形より上玉だしたまには自慢し返してやろうかと思って」
「わ、私など年増の女王です。そのような場に立つなど恐れ多い」
「余が決めたことだ。口答えは許さないよ」
「……かしこまりました」
頭を下げる女王。
すると黒いペンダントがチカチカと輝き始めた。
「もう呼び出しだ。ほらこっちにおいで。エスコートしてあげよう」
「……はい」
女王がレクレスの肘に触れる。
その瞬間、女王たちはペンダントに吸い込まれたのだった。
暗い空間だった。
窓も扉もなく、部屋の中央にぼんやりと輝く魔術陣だけで照らされた薄暗い部屋だった。
「こ、ここは……?」
女王は慣れない転移の感覚に酔いそうになりながらも、部屋を見渡した。
最初はぼんやりと魔術陣しか見えなかったが、すぐに部屋の暗さに目が慣れる。
魔術陣の周囲には大きな椅子が八つあって、そこにはすでに三名が座っていた。
一人は幼い少女だった。
大きなクマのぬいぐるみを抱えて、ぼんやりとしている。
一人は青年だった。
特徴のない顔で、一度視界から外したら顔を思い出せなくなるような平凡な青年だった。彼の椅子の肘掛けには、四肢が魔石でできた少女がしなだれかかって座っている。
そして最後はフードで顔を隠した人物だった。
顔も見ないし、ローブのせいで輪郭も曖昧だった。
「――ッ!?」
だがその姿を見た瞬間、女王は背筋から汗が噴き出した。
――生物としての格が違いすぎる。
直感がそう告げていた。獣王国では最強を誇る女王でもこれほどの強い気配を感じたのは、生まれて初めてだった。
足が震える女王の隣で、レクレスはすぐに目の前にある『Ⅳ』と書かれた椅子に座って、義肢の少女を連れた青年に話しかけた。
「ギルティゼア、つまらない用事なら余はすぐに帰るから」
「へえ? 僕はつまらないことしかこの世にはないと思うんだけど、君は違うのかい眠り姫?」
「余を姫と呼ぶな」
「姫は姫でしょ」
「……目覚めぬ眠りを与えてやろうか」
「ははは。子守歌が欲しくなったら君に頼むよ、序列四位の眠り姫」
おどけたように言う青年。
レクレスは不機嫌に舌を打った。
「チッ。おまえに余の力が通じない理由さえわかれば……」
言いくるめられるレクレスなんて初めて見た。
女王は驚きと共に、ほんのわずかに胸がすいた。ざまあみろと言ってやりたい気持ちをグッと堪えた。
しかし、よくよく考えてみたら良いことではない。
レクレスは城に帰ったら誰かに八つ当たりするだろう。相手は女王かもしれないし、使用人かもしれない。ミンミレーニンは理由をつけて遠ざけているから大丈夫だろうが、帰った後のことを考えるだけで陰鬱な気持ちになってしまう。
「それで眠り姫。そっちのレディはどなたかな? 僕たちに紹介してくれない?」
「コイツは獣王国女王のライクラライアだ。ただのヒト種にしては強いほうだよ」
「ふぅん……確かにその娘、なかなか面白い加護を持ってるじゃないか」
「羨ましくても手は出すなよ。コイツは余のモノだ」
「ははは、出さないよ。ミナに飽きたら考えるけど」
「ギル~なんてコトいうのヨ~。捨てないでヨ~」
ギルティゼアにべったりとくっついて甘えた声を出す義肢の少女ミナ。
「冗談だよミナ。君を捨てるわけないじゃないか」
「ホント? ならいいのヨ」
嬉しそうにギルティゼアの首筋に手を回して頬を摺り寄せるミナ。
彼らを眺め、レクレスは小さな声でつぶやいた。
「……嘘つきめ。ソイツで何体目だ」
女王を見せびらかす目的は果たせたようだったが、それでも不機嫌なままのレクレスだった。ただ面と向かってギルティゼアを指摘する気はないらしい。
それもそのはず【悪逆者】においてレクレスよりも上位に位置するのがこの青年だった。
序列二位のギルティゼア。
【悪逆者】で最も活動的で、たまに獣王国にも顔を出している。女王も何度か顔を合わせたことがあったが、まったく顔を覚えることができない妙な青年だった。強いのか弱いのかすらまったく判断ができない、不思議な雰囲気を放っている。
まるで個性を感じない――そんな謎多き青年だ。
「それでギルティゼア。余を呼びつけた理由は何だ? 余もヒマじゃないからね、さっさと本題に入ってくれないと困るんだよ」
「忙しないなぁ。まあ、君が起きるのがどういう時期かくらい知ってるんだけど」
ギルティゼアは口元だけ笑みを浮かべると、真剣な目つきでクマのぬいぐるみを抱えた少女に問いかけた。
「アルテマ。レクレスに関する予言は変わってない?」
「……うん」
コクリとうなずく少女。
ぼんやりと虚空を眺めたまま、言葉を紡ぐ。
「『第四の悪逆、焔より生まれし姫を喰らい神に近づく』……このままだよギル、レクレスも」
「だってさ」
「八百年間で一文字も変わってないじゃないか。それでアルテマ、焔の姫の具体的なことは?」
「……わからない」
「は~。相変わらず使えないなおまえ」
不機嫌にアルテマを睨むレクレス。
その後ろで、女王は密かに息を呑んでいた。
『焔より生まれし姫』
それが誰のことか考えるまでもない。
焔の化身とも呼ばれる火神の使徒の妹が産み、そして姉の女王が育てている獣王国の姫――ミンミレーニンのことだ。
レクレスは、ミンミレーニンが自分と女王の子だと信じている。レクレスが眠っている間に起こったことは知らないのだ。同じ兎人族だったことが幸いしていたのだ。
「焔が産みし、ね……謎かけは得意じゃないんだよね。まあ思い当たる子が出てくるまで気長に待つさ。それでギルティゼアは予言について言いたいことでも?」
「忠告だよ。レクレス、君は今回動かない方が良い」
「……理由を聞いても?」
睨みつけるようにギルティゼアを見るレクレス。
平凡な青年はうなずいた。
「僕の邪魔をした子たちが君の国にいるんだよ。厄介な相手だから刺激しない方が良い」
「へえ? 余が恐れるとでも?」
「下手をすれば負けるよ」
「……余が? ふざけてるのか」
声に怒気を孕ませたレクレス。
女王は背筋がゾクリとして、つい身震いしてしまう。
「冗談じゃないさ。いま君の国にいるのは賢者だ。神秘術の賢者ミレニア……君もよく知ってるだろう?」
「なんだって? あの女、まだ生きてたのか」
「冒険者ギルドの総帥として仮の姿で生きていたみたいなんだよね。ずっと僕を邪魔していたあの厄介者が、まさか賢者だったってのは僕も驚いたんだけど」
「……くそ、死んでなかったのか」
賢者ミレニア。
ミンミレーニンを助けた特殊部隊からの報告では、現在は童女の姿になっているとの話だった。【王の未来】と共に謎の童女が行動していると隠密から報告があったので、おおかた予想はついていた。
しかしわからないのは、レクレスがまるで賢者の名前を親の仇のように言い捨てることだ。
女王の知る限り、ミレニアとレクレスには接点はなかったはずだが。
「……けど、それがどうかした? いまさら賢者ごときに負けるつもりはない」
「賢者もそうだけど、その連れの〝神秘の子〟って呼ばれてる人族もなかなか厄介でね。亜神を殺せるほどの力を持っている。他にもナギって言う剣士もかなり腕が良くて、武器が凄まじい性能をしている。彼らも警戒すべきだ」
「どれも知らない名だ。余がそんな相手に負けるとでも?」
「君なら相性が良いだろうけどね……でも、彼らの仲間には何より竜姫がいる。これが一番厄介だ」
「竜姫? それがどうかしたのか?」
「どうもこうもないさ。僕が珍しく君のことを心配したんだよ? 君にとっては、僕なんてただのいけ好かない知り合いだろうけど、僕にとっての君は違う。君は僕が期待した後輩なんだから、いくら手がかかっても可愛いものなのさ」
「……ふん。余にそんな気味の悪い感情を抱かないでほしいね。男は嫌いなんだよ」
「ははは。それが君を女を抱けるようにしてあげた恩人に対する態度かい? 眠り姫」
「黙れ。さっさと忠告とやらを言え、この軽薄男」
レクレスがあからさまに仏頂面になると、ギルティゼアは言った。
「じゃあ言うよ。竜姫が近くにいるときは動くな。竜王だけには敵意を向けられるな。アレは埒外の存在だからね。僕たちが束になっても勝てないよ」
「ふっ……ふざけるな! 余とそこらの弱者を一緒にするな!」
「忘れたのかいレクレス。僕らの目的は神になることだ。誰よりも強いことを証明することじゃない。竜王は竜神の使徒にして、王位存在、そして真祖の血を持つ竜種。僕たちがたとえ亜神になっても勝てるとは限らないんだよ。機を掴む前に目をつけられるのは得策じゃない」
「……余に、コソコソと隠れろと?」
「何をいまさら。いつも眠って隠れてるじゃないか」
乾いた笑い声をたてたギルティゼア。
レクレスは椅子を蹴って立ち上がった。
「心外だ! 話はそれだけか!? 用事が済んだなら余は帰る!」
「うん、これだけだよ。一応ちゃんと伝えたからね」
「ふん。本当につまらない時間だった! ほらさっさと来い女王。帰るぞ!」
「は、はい」
女王はすぐに顔に怒気を滲ませるレクレスの肘に触れた。
その瞬間、薄暗い空間から執務室に戻ってきた。
「くそっ!」
レクレスはすぐそばにあったソファを蹴った。
粉々に砕け散るソファ。ガラスのように砕けて割れてしまった。
……幼い容姿からは到底想像もできない力を秘めているのが、それだけでわかる。
そのまま鼻息荒く、扉を開けて執務室を出て行こうとするレクレス。
「レ、レクレス様、どちらに?」
「こんなに腹が立ったのは初めてだ。このままだとうっかり君を殺してしまいそうだからちょっと外に出て頭を冷やしてくるよ。君はまだ利用価値があるからね」
「そうですか……」
いまのレクレスを止めることはできない。
どうか人に当たることはないようにと祈って見送るしかない女王だった。
レクレスが去ってしばらくすると、女王は窓を閉めて息をついた。
「……恐ろしい者たちだな」
何度か見たことがある序列二位の青年に、序列は低いだろうがレクレスの行動を決めている予言者の少女。
そして、謎の圧倒的な強者。
一言も発さなかったが、あの人物が序列一位で、【悪逆者】の仲間を集めた諸悪の根源だろう。
女王もさすがに気疲れを感じていた。しかしそれ以上に重要な情報をいくつか知ってしまったことに強い焦りを憶えていた。
その最たるものはミンミレーニンのことだ。
レクレスが眠っている間に妹が産んだ子。レクレスの魔の手から妹を守るために無理やり城に連れて来て、女王の娘として育て始めた。
そこには強い罪悪感があった。決して正しいことでも褒められたことでもないのはわかっていた。
だが……結果的に間違ってはなかったのかもしれない。
レクレスが真実を知れば、予言の相手がミンミレーニンだと気づかれてしまう。おそらくミンミレーニンは殺されるだろう。そして妹も玩具にされる。
これだけは隠さなければならない。
この事実だけは。
「あの子に恨まれるのは、私だけで良い……」
女王は再び、決意を固めるのだった。




