覚醒編・0『とある傭兵の寂寥』
大変お待たせしました。
第Ⅴ幕【彼岸の郷土】覚醒編スタートです。
前話にて登場人物一覧も同時掲載してます。
全部読むのはとても長いですが、関係性などの情報も一部追加してるので、お気に入りのキャラがいたらそこだけでもチェックしてみてくださいね。
カラン、と氷が音を立てて溶けていく。
インワンダー獣王国王都ラランド。
その王都の外れにある小さな家で、獅子の耳と尾を持った女性が、酒杯を片手に銀色に輝く月を見上げていた。
氷が沈んだ酒の表面には、ゆらゆらと揺れる月が映っている。
「あの夜も、こんな月夜だったか……」
彼女は小さくひとりごちた。
紅蓮。
災害。
あるいは、焔の王。
彼女は長い間、そう呼ばれてきた。
千年の歴史を持つこの獣王国には数多くの傭兵団が存在している。
建国期から存続する傭兵団もいくつかある中で、【血染めの森】はまだ歴史も浅い部類だった。
三十年前にその三代目頭目となった彼女は、その類まれなる力で瞬く間に傭兵団の頂点とのし上がった。彼女が味方した勢力は必ず勝てる――そう言われるようになってから、もう何年も経っている。
いつしか紅蓮の名は、傭兵の象徴となった。
だがその名は、彼女自身を指すものではない。
称号は名誉と同じだ。輝かしい結果として担ぎ上げられるが、その本質ではないのだ。
本当は傭兵になりたかったわけじゃない。名誉が欲しかったわけじゃない。
ただ母のために、強くあろうとした。
そして姉の背中に追いつこうとした。
戦うしか能がなかったから、家族のために戦うことを選んだ。それだけだった。
強さが目的ではなかった。
力が欲しかったのは、安息できる場所が欲しかったからだ。
「ただ穏やかな日々を送りたかっただけなのに、な……」
自嘲しながら、酒を煽る。
家族で過ごす何でもない時間が欲しかった。ただそれだけを求めて拳を振るい続けた。
なのに、手の中に残ったのは無骨な傭兵の仲間たちだけだった。
もちろん、この人生に後悔はしていない。
彼らは気のいい仲間たちで、新しい家族とも呼べるだろう。傭兵ゆえに多くの出会いと別れがあるが、離れることに寂しさを感じた相手も多かった。
彼女は【血染めの森】を家だと思っている。自分の居るべき場所だと、心から感じている。
……だか、やはり代えがたいものはあった。
「なぜだ、姉さん……」
口から漏れるのはやるせない感情。
いまも思い出すのは、生まれたときから背中を追いかけていた姉から突き放された、三十年前のことだ。
女王となった姉は、妹の自分をあからさまに避けるようになった。
その理由は、いまもわからない。
そしてそれから二十五年過ぎた、五年前のこと。
縁が切れたはずの彼女に、生まれたばかりの娘を奪われたのだ。
あの時の悔しさは、いまでも昨日のことのように思い出せる。
最強の傭兵と呼ばれる紅蓮は、獅人族の父の血を継いだ生まれながらの強者だった。
肉食系の獣人は、草食系の獣人より寿命が短い代わりに肉体的に強い。それが常識だ。そのなかでも彼女はさらに優れていた。
だが、その彼女でも。
母の血を継いだ兎人族の姉に勝てたことは、ただの一度もなかった。
強さこそ至上とする獣人の国において、姉の強さは隔絶していた。家を出てから頭角を現した姉は瞬く間に駆け上がり、そして三十年前に今代の女王となった。
それ以来、王座を守り続けている。
戦場では負けなしの自分でも、ずっと姉には勝てなかった。それが悔しくてどうしようもないと同時に、それ以上に誇らしかった。
生まれたばかりの娘を、奪われるまでは。
あの夜、姉が突然やってきて娘を連れて行ったのだ。まともな会話などなく、ただ「悪いわね」と言いながら。
当然、抵抗した。
紅蓮と呼ばれる前――その時からすでに誰もが恐れるほどの力を持っていた彼女も、やはり、姉には一蹴されてしまった。
幼い頃から感じていた圧倒的な差を、改めて見せつけられたのだ。
そしてたった一言、言い放った。
「この子のためだから」
かつての幼かった頃の彼女なら、そんなことを言われればたとえ愛する姉相手だったとしても、感情のままに戦いを挑んだだろう。
だが、その時彼女はふと考えてしまったのだ。
暴力の化身のように生きる傷だらけの傭兵と、強さと賢さを備えた一国の女王。
どちらの娘として育ったほうが、彼女にとって幸せなのかを。
ふと浮かんだその考えが、彼女を止めてしまった。
あとはもう、涙ながらに姉の背中に手を伸ばすしかできなかった。
残ったのは深い悲しみと姉への複雑な憎しみだけ。
「ミンミ……おまえは、元気でやってるか……?」
あの日別れた娘の名は、ミンミレーニン。
祖母の血を受け継いだ兎人族の愛する娘。
本当なら、ミンミをこの手で育てたかった。
三十年前から姉と疎遠になって以来、ようやく手に入れた自分だけの家族だった。
最愛の娘をこの手で守りながら、一緒に生きたかった。
だが、自分は他の誰よりも戦いに勝ってきた。それはつまり、他の誰よりも命を奪ったと言うことだ。傭兵という仕事は、争いが起これば雇われてどこにでも行く。各地の集落同士の争いや、他国との小競り合い、魔物との闘争……相手が同族であれ魔物であれ、命を奪い続けてきた。
この手は誰よりも血に塗れていた。
娘に触れたい。
愛していると伝えたい。
だが他人の命を奪うことに慣れてしまったこの手では、きっと娘を穢してしまう。
強いジレンマが、常に彼女の胸を焦がしてきた。
激情に任せて王城へ殴り込もうかと何度考えたことだろう。一度は諦めたつもりでも、やはり娘を取り返したい渇望がこの身を蝕みつづけていた。
だが、戦場で誰よりも強い自分でも、姉には歯が立たなかった。
それが現実だ。
それに、本当の母を知らなくても子どもは真っすぐに育つことができる。
自分が父を知らなかったのと同じように。
ミンミにとって大事なのは、誰の娘かということではなく、どう生きられるか、なのだ。
恵まれた環境で、何不自由なく育ち、きっと優しい子に育つだろう。
ならば、つまらない母の寂寥など知らなくて良い。
それがミンミのためなのだ。
……しかし。
「姉さんは、許したくない……」
幼い頃から憧れだった姉。
女王となった三十年前から、疎遠となってしまった愛する家族。
離れてもずっと愛していた。
向こうも同じだと思っていた。
だけど、裏切られた。
娘を奪うという最も許せない形で、裏切られたのだ。
何か事情があるのかもしれなかった。
姉のことだ。理由もなくそんなことをするはずがない。
そう思っていた……姉が子どもを産めない体になった、と聞くまでは。
嫉妬、したのだろうか?
妹の自分が、子どもと幸せに暮らすことに。
だから無理やり奪ったのか?
……いいや、そんな短絡的な性格ではなかったはずだ。
だが、正面から事情を聞いても答えてくれるはずもない。
それこそ、そんな素直な性格はしていなかった。
それにいまや女王と傭兵。普通に生きていれば、顔を合わせる機会などない。
だからこそ、今回は貴重な機会だった。
五年に一度の女王を決める戦いが始まろうとしている。
トーナメントを決勝まで勝ち進めば、最後には女王との一対一が待ち受けている。どれだけ避けていた相手でも、そこまでたどり着けさえすれば顔を合わせざるを得ない。
あとはこの機会をものにするだけだ。
「力づくでも、話させてやる……!」
彼女の胸中には、複雑な愛憎が渦巻いていた。
紅蓮と呼ばれる傭兵――その名を、サラサナン。
彼女は宵闇に浮かぶ銀月を睨みつけて、力強くつぶやく。
その手の酒杯の氷は、すでに跡形もなく溶けきっていた。
あとがきtips〜クリムゾン〜
〇クリムゾン
>傭兵団【血染めの森】三代目頭目。獅人族の女性。
>>本名はサラサナン。クリムゾンという名は【血染めの森】の頭目に与えられる呼称で、三十年前にサラサナンが襲名した。(襲名制度はインワンダー獣王国の文化のひとつ。詳しくは本編にて記載予定)
>>>八十年前、インワンダー獣王国の東部の集落に生まれた。父は獅人族、母は兎人族。十歳離れた姉がいる。三十年前に姉とともに『王座戦』に挑み、準決勝で姉相手に敗退。姉が十八代目の女王を襲名し戴冠。サラサナンはその直後に傭兵団【血染めの森】の三代目頭目として〝紅蓮〟を襲名した。五年前に娘を産むが、その直後に姉が娘を連れ去ってしまい、現在は王都ラランドの隅で一人暮らしをしている。ちなみに獅人族は平均寿命が百五十歳のため、人間に換算すると現在四十五歳くらい。ただし、見た目は『変身薬』の影響で二十歳程度になっている。




