聖域編・32『亜神』
光の繭がほどけてゆく。
まるで羽化する蝶のようだった。
再び姿を現したエークス卿は、光が収まると、自分の体を驚いたようにまじまじと見つめた。
それもそのはず、彼女の姿はさっきとは大きく変わっていたのだ。
壮年で皺も深かったエークス卿は二十歳ほどに若返っていて、スタイルも変化しかなり美しくなっていた。さらには枢機卿の法衣だった服も、聖女のような煌びやかドレスに変化していた。
エークス卿自身が夢見ていた理想の姿……そういわんばかりの姿だった。
「あぁ、力が湧いてくる……これが神の力! これこそワタクシのあるべき姿なのね!」
天を仰いで、溌剌とした声をあげる。
あきらかに異質な存在感だった。何か底知れない雰囲気を感じる。
ここは退避すべきだろう。どれくらいの戦闘力を持っているのかは分からないが、神の権能を手にした相手だ。少なくとも聖域内ではまともにやり合いたくない。
「セオリー! ナギを拾って逃げるぞ!」
『御意!』
セオリーはすぐにナギのそばに駆け寄った。
俺はそのあいだに、翼にしがみついているサーヤを背中に引っ張り上げる。
「ナギよ! こっちに来るのじゃ!」
ミレニアが声をかけるが、ナギは様子が少し変だった。
『凶刀:神薙』をじっと見つめて怪訝な顔をしている。
「……? いまの、おまえが言ったです?」
「何をしておる! はよう乗るのじゃ!」
「待つです。いまこの子が『糧をよこせ』と喋った気が……」
「刀が喋った!? まさか……いや、それよりさっさと来るのじゃ!」
ミレニアが急かしたら、ナギはしぶしぶセオリーに飛び乗った。
だが、こんどは何かに気づいたサーヤが入れ違いに飛び降りてしまった。俺は慌てて叫ぶ。
「サーヤ!?」
「みんなは先に逃げて! 私は教皇と聖女を連れて逃げるから!」
見れば、大聖堂の二階の割れた窓から俺たちを見下ろす影が三つ。まだ残っていたのか。
サーヤは迷いなく大聖堂のなかへと駆け込んでいった。誰も見捨てやしないと、その背中が雄弁に語っていた。
『あるじどうするの!?』
迷うセオリー。
どうするか? そんなもん決まっている。
仲間の選択を、勇気を、俺たちが支えなくて誰が支えるっていうんだ!
「撤退中止! 俺たちで時間を稼ぐぞ!」
「よしきたです! その言葉待ってたです!」
ナギが嬉々としてセオリーの背から飛び降りた。太刀を抜き、まっすぐにエークス卿を見据える。
相手は亜神――極位存在だ。ナギにとっては三段階も格上の相手。
実力は未知数だが、おそらくナギでも簡単には渡り合えないだろう。
当のエークス卿はしばらく自らの変化に恍惚とした表情を浮かべていたが、俺を視界に入れるなり嬉々として声を発した。
「冒険者ルルク。あなたにワタクシの夫になる名誉を与えましょう」
「……は?」
つい声が漏れた。
何を言い出すんだ、この女は。
「神となったワタクシのものになる栄誉です。つつしんで受けなさい」
「いやいや、断るに決まってるだろ」
「許しません。従いなさい」
おいおい、亜神になって最初にやることが求婚だって?
さすがの俺もドン引くぞ。
冗談めかして答える余裕なんてないし、押し問答することすらイヤだ。そう言われてみればなんかヤラシイ目でこっち見てる気がするし。いまの俺は五歳児だぞ、ロリショタはノータッチが礼儀だろうがよ?
そう思ってたら、ナギが怒気を滲ませて歩みを進める。
「あの女の頭、一度カチ割ってやるです……!」
「相手は亜神だぞ。無理は禁物だ」
「誰に物を言ってるです。格上喰いは、ナギの十八番です!」
走り出したナギ。
するとエークス卿は鼻で笑った。
「小娘は黙ってなさい」
「ぐぁっ!?」
突然、後ろから何かに弾き飛ばされたように転がるナギ。
とっさに受け身を取って身を起こすが、ナギの後ろには何もない。もちろん俺も何も見えなかった。
不可視の攻撃に不意を撃たれたナギだったが、気を取り直してまたすぐに走り出した。
その瞬間、
「うっ!」
前につんのめって倒れる。
一瞬だが上から衝撃を受けたような反応だった。さすがのナギも前兆を感じ取ることはできないようで、悔しそうに歯を食いしばって再度起き上がる。
「奇怪な技を……!」
「しぶといわね」
エークス卿は舌打ちをしながらナギを睨んでいた。
明らかに何かしている。だが、なにをしているのか外から見ている俺たちにもまったくわからない。
エークス卿が亜神になっても、ここが魔素も霊素もない空間なことには変わらない。使えるのは一部のスキルか、霊素や魔素に頼らない権能だけのはず。
いくら存在位が極位にまで上がったからといって、すぐさま新しいスキルを憶えて使いこなせているとは考えにくいんだが。
「今度こそ――ぬあっ!」
「無駄よ」
一歩踏み出そうとしたナギは、何かに圧し潰されるかのように倒れる。
しかも今度は強い力で押さえつけられているようで、苦しそうに呻いていた。
ナギはなんとか手首をひるがえして太刀を自分の真上に切っ先を向けるが、状況は変わらない。ナギの上に何かがいれば『神薙』で斬れるはずだが、そこには何もないとなると――
俺はハッとした。
「ナギ、刀身を!」
「はいです!」
ナギはすぐに峰を自分の腕に当てた。
するとナギを潰していた不可視の力があっさりと霧散した。やっぱりそうか。
跳ねるように起き上がったナギは、峰に手を添えながらチラリと振り返った。
「何が起こったです?」
「おそらく『均衡』の腕輪の力だ。エークス卿は、たぶん自分の足元にある小石か何かとナギの動きを同期させたんだ。石を踏んだり蹴ったりすれば、ナギにもその影響が伝わるようにな」
「……小石にされてたです。屈辱です」
亜神になったことで、神器の力をアレンジして使えるようになったのか。
だから自分自身に刀身を当てて影響を断ち切ったら元に戻った。そういうカラクリだろう。
ナギはすぐに駆け出した。もちろん今度は常に刀身に手を添えている。
「面倒ですが、これなら!」
「ちっ」
エークス卿は舌打ちをするとその場から前触れもなく消えてしまった。ナギの刀は空を切る。
すぐに少し離れた場所に出現した。
「忌々しい。ワタクシの覇道を邪魔する売女が」
「どっちが売女です、この発情ババア」
「ババ……!?」
「それにルルクはとっくにナギたちのものです。仲間でもない輩に渡す気なんて、毛頭ないです!」
再度斬りかかるナギ。
だが、やはりエークス卿は消えて別の場所に現れる。若干のタイムラグがあるから転移ではない。おそらく『安寧』を使って一度別次元に逃げているんだろう。
八つの神器を集めたエークス卿は、その力をある程度自由に使えるようになっているようだった。
神器に攻撃的な効果があるものはないはずだが、『均衡』のようにアイデア次第では一方的に蹂躙される可能性もある。
いまはナギが挑発して矛先を向けているが……。
「逃げるなです!」
「ああもう鬱陶しい!」
逃げるエークス卿を追うナギ。
エークス卿もナギの太刀がただの武器ではないことを感じているんだろう。他の誰よりもナギを警戒している。
「ごめんみんな! 連れて来た!」
そのとき、サーヤが大聖堂の扉から飛び出してきた。後ろにはペルメナと、サーヤのマントを被せて顔を隠した誰かを抱えたメイド、そして最後尾に全身鎧の聖騎士がいる。
顔を隠しているのはおそらく教皇だろうが、鎧はおそらくローラン総団長だ。彼はエークス卿の手駒だったと思うが、いまは敵対してる雰囲気はなさそうだ。
すぐにセオリーが尻尾を回して、彼らを背に乗せようとした――が。
「逃がすわけないでしょう!」
エークス卿が俺たちに手を向けると、ナギ以外の全員の体が光の膜のようなものに包まれた。
壁に囲まれたかのように動きがピタリと止まる。
慣れ親しんだ暖かさのような力を感じる。これは間違いなく〝境界〟の権能を宿す『守護』の力だろう。エークス卿の右耳で、銀色の耳飾りが輝いた気がした。
全身鎧のローランがすぐに叫ぶ。
「教皇様には指一本触れぬと約束しただろう!」
「ふん。いつまでも過去にこだわる男は嫌いよ」
エークス卿が手を振ると、ローランの光の壁が消える。その直後、彼女は足元の石を蹴り飛ばした。
小石とまったく同じ動きで弾き飛ばされて、大聖堂の壁に激突したローラン。
「ガハッ!」
「ワタクシに楯突いた見せしめに、潰してあげる」
今度は足を大きく上げたエークス卿。同期した石を砕かれたら、人間の体などひとたまりもないだろう。
だが意識をローランに向けた彼女の背後に、小さな気配が急接近した。
「鬼想流――『蓮突き』!」
「っ!?」
ナギの剣閃が走った。
とっさに反応したエークス卿だったが、ペキンと小さな音を立てて砕けた『守護』の耳飾り。
その瞬間、俺たちを包んでいる光の膜が消失する。
ナギはそのまま腕輪も狙って太刀を翻したが、エークス卿は別次元に逃げて回避。
またそれなりに距離を取って再出現すると、ナギをこれでもかと言わんばかりの視線で睨んだ。
「ワタクシの神器を……この小娘ぇええっ!」
「はんっ! 強者から意識を逸らしたおまえが悪いです!」
エークス卿が戦いの素人だからできた隙。それを見逃すナギではない。
どれだけ神器の性能が凄かろうが亜神になろうが、エークス卿自身の思考回路が変わったわけではないのだ。
ナギは笑いながら挑発した。
「所詮、おまえは道具と存在格だけでイキってる老害ババアです」
「こ、殺す!」
ナギの毒舌に歯を剥き出しにするエークス卿。
正面から突貫してくるナギに手のひらを向けて、
「消えなさい!」
ナギがいる空間ごと、別次元に飛ばした。
飛ばされたナギはすぐさま空間の境目に向けて『神薙』を振るったようで――
「甘いです!」
俺たちの真上から、亜空間から脱出したナギが飛び出してきた。
だが、大聖堂の屋根とほぼ同じ高さ。
「そのまま落ちて死ね小娘!」
「セオリー! 頼むです!」
『御意!』
サーヤたちを回収していたセオリーが、とっさに翼を広げてナギを受け止める。
なんとか無事に着地できたが、その大きな隙を逃すエークス卿ではなかった。
「全員さっさと服従なさい!」
エークス卿が取り出したのはただの革のポーチ。
そのポーチをぎゅっと握りしめると、ナギ以外の俺たちは首を絞められているかのような感覚に陥った。
息が、できない……!
全員まとめて『均衡』の支配下に置き、さらに手に力を籠めるエークス卿。
すぐに『神薙』を俺たちに触れさせようとしたナギだったが、エークス卿はナイフを取り出してポーチに押し当てた。
「動くな小娘。動けば全員殺す」
「くっ……」
『均衡』があまりに厄介だ。ようやくセオリーの背に全員乗って、あとは脱出するだけだというのに……!
「まずはその刀を捨てて、跪きなさい」
「……わかったです」
太刀を地面に置いて、両手を頭に乗せて膝をついたナギ。
するとナギも『均衡』の影響下に置かれてしまったのか、とたんに首を抑えて苦しみ出した。
その様子を悦に浸った表情で眺めたエークス卿は、その手のナイフをヒラヒラと振りながら嗤った。
「ルルク……あなたには絶望を与えてあげましょう。仲間を全員、ひとりずつ殺してあげる。まずはそこの生意気な小娘から」
「くそ! やめろ!」
何かないか。
この状況を逆転できる、何か。
現状を打破する道具は手元にはない。スキルもステータスも封じられている。
頼れるとすれば俺にはない才能を持つ仲間たち。他力本願? 上等だ。俺たちは一人で戦ったりしない!
勇気と優しさに溢れるサーヤ。
知識と判断力に長けたミレニア。
竜種として強靭な肉体を持つセオリー。
そして、優れた目と弓の腕を持つ――
「カルマーリキ!」
「ちっ。忌々しい!」
ナイフを振りかぶる直前、飛来した矢を慌てて避けるエークス卿。
さすがに二度目の不意打ちは通じなかった。カルマーリキが即座に次の矢を引き絞ったが、
「もう遅い!」
エークス卿がふたたびナイフを握りしめ、勝利を確信した笑みを浮かべた。
万事休す?
いいや。俺たちにはまだ、頼れる魔術士がいるんだ。
「――『ダークプリズン』」
聖域の真上。
魔素が存在するギリギリの高さで空中に立っていたのは、最強の羊人族――エルニネール。
彼女が杖を空に向けて掲げて呪文を唱えたその瞬間。
聖地が、闇に包まれた。
真打登場。
聖域編もいよいよクライマックス!
ちなみに教皇の顔を隠したのはサーヤの判断です。
ルルクとミレニアを動揺させないため気を遣いました。




