聖域編・12『ある毒娘の初めての夜』
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生ぬるい風が吹く夜中のことだった。
聖都サイン。
その中央街の寝静まった住宅街に、ひっそりと動く影がひとつあった。
黒い服を身に纏い顔半分を覆面で隠した彼女は、小さな屋敷の敷地へ足を踏み入れる。
屋敷の間取り、寝室の位置は把握している。気配察知スキルで就寝中の標的を確認した彼女は、鍵が壊れている裏口から静かに侵入した。
現在、この屋敷には高名な冒険者が滞在しているらしい。決して見つかるなと言われていたため、彼女はいつも以上に慎重に廊下を進んだ。
……冒険者か。
自由の旗の下、他人を助ける人々。
まるで自分とは正反対だった。暗殺者ギルドでの生き方しか知らない彼女は、かすかに胸の奥がチクリと疼いた。
でも、そんな甘い人生を送る相手に負けるとは思わなかった。彼女は常に命がけで生きてきた。他の生き方は知らないけれど、冒険者なんかに負けるとは思わない。自分を殺せるとすれば、暗殺者だ――そう思っていた。
そういえば少し前、謎の暗殺者にアジトが襲撃されたことがあった。そのとき本部にいた幹部は根こそぎ殺されてしまったらしいが、彼女がいればまた結果は違っていたかもしれない。
もしかしたら相討ちにできたかもしれないのだ。
〝毒娘ビスカンナ〟。
彼女はそう呼ばれ、ギルド内でも忌避されていた十五歳の少女だった。
指先ひとつであらゆる相手を殺してきた。
彼女が触れるだけで、標的は猛毒に侵されて死ぬ。彼女は毒消しやキュアポーションでも簡単に解毒できない、自然界には存在しえない程の毒素を体に宿していた。彼女の唾ひとつ、体液一滴が武器となる。
狙われたら最後、二度と安心して眠れなくなる――そう言われるほどの凄腕の暗殺者だという自覚はあった。
だから一人暮らしの枢機卿の暗殺くらい、なんということはない。
そう思っていた。
音もなく標的の部屋に侵入した彼女は、ベッドの上で寝息をたてる標的を見定める。
あとはただ触れるだけ。それだけで彼の仕事は完了する――はずだった。
「月が綺麗ですね」
「っ!?」
油断していたつもりはない。
だが、瞬きもせぬ間に目の前に少年が立っていた。
驚いて声を上げなかっただけでも、彼女は褒められるべきだろう。
月明かりがカーテンの隙間から差し込む部屋の中、真紅の目を輝かせた五歳ほどの少年は、のんびりとした口調で語り掛けてきた。
「確かに散歩するには良い夜だとは思います。でも散歩コースは選んだ方が良いと思いますよ、お嬢さん」
何だ、この少年は。
どう見ても五歳程度にしか見えない。だがその風格はただ者ではないことを感じさせた。
逃亡か迎撃か、かすかな迷いが彼女の足を止めていた。
しかし幼い頃からの〝毒娘〟としての経験が、すぐにやるべきことを導き出す。目的はベッドで寝ている標的の暗殺だ。それ以外の障害はすべて排除するだけ。
一歩踏み出した彼女の前で、少年は手をかざした。
彼女が警戒した瞬間、その手にグラスがふたつ出現する。
「せっかくの月夜なんですから、危険なことはやめて一杯いかがですか? まあ中身はジュースですが、あなたのような可憐な女性には、血よりもよほど似合いますよ」
「……」
確かにグラスの中身はただの果実水のように見える。
この状況で、本気で暗殺をやめるように忠告しているのだろうか。暗殺者相手に?
そんなバカなことはあり得ない。きっと油断を誘うためだろう。
とはいえ、これは好機だ。
彼女はそのグラスを掴むフリをして少年の指に触れようとした。少しでも触れることができれば少年は死ぬはずだ。
触れさえすれば、指先だけでも触れさえ――
「美しい花には毒がある。それくらいは承知してますよ」
「っ!?」
あと数センチ。
指が届く直前、少年の見透かしたような声が聞こえた。
ついびくりとして止まってしまう。
視線を上げて少年を見る。
彼は真っすぐな赤い瞳で、憐れむように彼女を見つめていた。
「でも俺は、そんな寂しそうな目で誰かに触れようとするあなたが、その体を本心から喜んでいるとは思いません。死神すら殺せるような危険な体を、スズランのように可憐なあなたが望んで手にしたとは思えません」
「……」
「もしかして、あなたは、触れたその先を知りたいんじゃないですか?」
「……その、先……?」
少年の言葉が、彼女の心に深く刺さった。
捨てられた赤ん坊の自分を拾ってくれた養父は、暗殺者だった。
赤子の体に完全な毒耐性があることを知った養父は、幼い彼女の体に毒を入れ続けた。それから彼女は体内で毒を育ててきた。いままで飲んだ毒の数は千種類を超え、毒の症状は無効化できたが、毒素で溢れた体は健康とは程遠かった。高熱がで続け、痛みは治まらず、生死の境を彷徨う幼少期を過ごしていた。それが彼女にとって普通の生き方であり、養父の娘として当然の義務だと思っていた。
七歳になる頃には暗殺者ギルドの一員として働き始めた。子どもの自分を警戒する人はいなかった。言われるがままに言われた相手に触れると、みんな死んだ。
触れ、死に、触れ、死に、触れ、死に、触れ……そして、ふと気づいた。
自分以外の子どもは、みんな親や友達と触れ合って笑っていることに。
わたしは普通じゃないんだ。
そう自覚してから、どうしても気になってしまった。
誰かに触れるとき、みんな笑顔になっている。その理由を、その意味を知りたかった。
そして幼い少女は我慢ができなかった。
たった一度だけ。
自分を育ててくれた養父に、触れてしまったのだ。
だがその最初の一度は、最後の一度だった。
養父は死んだ。
それはもう満足そうに笑って、毒に侵されて死んだ。
彼女には理解できなかった。
触れることの幸福も、養父が笑って死んだ意味も。
だからその記憶は深く心の底にしまっておいた。もう二度と、間違いは冒さないように。
この体にできるのは誰かを殺すことだけ。
それが〝毒娘ビスカンナ〟として背負った宿命で――
「いいですよ、触れても」
「……え?」
少年は、そんな彼女に微笑みかけていた。
「俺の手に触れてみてください」
「……それは……」
「大丈夫です。あなたが背負ったその業は、俺には届きませんから」
「でも……」
今までも何人か、そう言って失敗した人がいた。
だがどんな解毒薬も役に立たなかった。自然界に存在する猛毒を優に凌ぐ彼女の毒は、いくつもの複雑で緻密な毒素で確実に相手を死に至らしめるものだった。
「可憐なレディ。あなたを止めるためならば、俺はその困難を軽く超えてみせましょう」
そう言って、少年はさらっと少女の手を握った。
つい息を呑む。
殺してしまっても良いはずなのに、なぜかとっさに手を振りほどこうとしてしまった。
そんな彼女の動揺を、少年はしっかりと手を握ったまま、軽く笑い飛ばした。
「ほらね」
「……なん、で?」
少年は平気だった。
即効性、遅効性、溶解性、依存性、ありとあらゆる性質を持つ彼女の毒素に触れても、少年はまったく意に介した様子はない。
信じられなかった。
「本当に……大丈夫……?」
「ええ。このとおり」
小さな両手で、少女の手を包む少年。
暖かかった。
体温に触れることなんて初めてだった。誰かのぬくもりを感じたことなんて、いままで一度もなかった。触れることが許されるということが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
「う、うあ……」
少女の両目から、涙が溢れていた。
触れても良い。
ただそれだけのことなのに、それすら叶わなかった少女は嗚咽を漏らし、少年の手をぎゅっと握り返していた。
もう、暗殺のことなんて頭にはなかった。
このぬくもりを離したくない。
少女はただそれだけを願って、泣き続けた。
□ □ □ □ □
暗殺者が送り込まれたことに気づいたのは深夜だった。
サーベルと別れて部屋に戻り、サーヤとセオリーに挟まれて就寝していると、〝警戒〟をプログラムさせた準精霊に起こされて目が覚めた。
襲撃してきたのは一人の暗殺者の少女。まだ成人したばかりの若さで、恐るべきスキルを持っていた。
【『極毒』
>等級ナシのユニークスキル。毒を無効化し、体内にストックする。
>ストックした毒素は取り込んだ毒のあらゆる性質を複合する。触れた物をすべて汚染する、無慈悲な死神。 】
凄まじいスキルだ。毒無効でもなければ対処できない相手だろう。
だが同時に、少しテンションが上がっていた。
毒の娘。
古代インドの有名な暗殺者の一説に、薄めた毒を取り込み続け、自分自身が毒となって標的を殺す女暗殺者の伝説がある。そのインドの伝承そのものを体現している子だったのだ。
返り討ちにするのは簡単だ。
けど、俺の物語オタクのどうしようもない部分が疼いてしまった。
そうと決まれば早かった。
ちょうど月が綺麗な夜だから、説得するのにちょうどいい。
「うう、ううう……」
――というわけで、無事に説得成功。
幼い頃からこのスキルがあったせいで、初めて誰かに触れたんだろう。俺の手を握っているだけなのに、涙が止まらないようだった。
俺は膝をついて祈るように泣き続ける彼女の頭を撫でながら、
「まずはあなたの名前をお聞かせ願えますか?」
「……イスカンナ」
「イスカンナさんですか。良い名前ですね。その名はどなたが?」
「……死んだ、父代わりのひと」
そこから彼女は、ぽつぽつと身の上を話してくれた。
親に捨てられ、毒の娘として改造され、暗殺者ギルドで生きてきた。ろくな友達もおらず、ただ言われるがまま暗殺の仕事をしては、一人で暮らしていたんだとか。
サハスも起きて真剣に耳を傾けていた。どんな体であろうとも、サハスにとっては孤独な彼女に何もしてあげられなかったことが悔しかったようで、親身になって聞いていた。
ひととおり話したイスカンナは、何かが吹っ切れたかのように、サハスにも泣いて謝っていた。
「ごめんなさい……もう、しません」
「よいのです。あなたのような若い娘がぬくもりも知らずに育っている……そんなことに気づけず、ただのうのうと教義を垂れる神父のなんと愚かなことでしょう。ここにあなたと出会えたことを、神に感謝いたします」
「わ、わたしも……神に感謝します」
サハスは天を仰ぎ、祈りを捧げていた。
イスカンナも一緒に祈っていた。
よし、もう暗殺しようとはしていないな。
俺の目的は達成したが……うーん、どうしよう。
イスカンナを暗殺者ギルドに返すのはもってのほかだが、俺が面倒を見るのもまた違った話になってくる。そもそも足抜けした暗殺者をギルドが放っておくとは思わない。イスカンナの話を聞く限り、この国から出たことはないらしいし、逃亡も難しいだろう。
「イスカンナさんは、これからどうしたいですか?」
「わたし? わたし……誰かの役に立ちたい」
吹っ切れたものの、不安そうに言うイスカンナ。
確かに俺以外に触れられないのはなかなか困難な体質だ。ふつうには生きられないだろう。
そう思っていたら、サハスが「そういえば」と手を打った。
机の引き出しを開けて、中から錠の付いた箱を取り出す。
首から提げていたペンダントから鍵を取り出すと、錠を開いて取り出したのは指輪だった。
「イスカンナ殿、よければこれをどうぞ」
「……これ、なに?」
「聖キアヌス教会に太古から存在する〝八つの象徴〟のひとつです。じつは枢機卿という席は、教皇様よりこの象徴をひとつ預かるという意味があるのです。〝象徴〟は歴史の中でいくつか紛失しておりますが、いまいる五人の枢機卿はそれぞれ象徴のうちひとつを必ず所持しています。私が預かっているのは『慈愛の象徴』。この指輪をつけている限り、他者に傷を負わせることができなくなります」
かなり重要そうなアイテムだ。
だが、俺の『神秘之瞳』ではミスリル製ということしか鑑定できなかった。
サハスの口ぶりからすると術式が刻まれているだろうが、かなり高度な隠蔽術がかかっているようだ。
教会の超重要アイテムだから当然か。
「え……それを、わたしに……?」
「ええ。象徴はあくまで形として意味があります。もしその力を失っても価値は変わりません。それゆえ使用する権限は一任されておりますので、ご安心を。それに私の枢機卿としての立場は、もしかするとあなたに愛を教えるためにあったのかもしれません。ぜひ着けてごらんなさい」
イスカンナは恐る恐る指輪を箱から取り出して、人差し指に嵌めた。
「あっ」
「啓示がありましたか。では、私の手に触れてみてください」
「……は、はい」
震える手で、差し出されたサハスの手をそっと触るイスカンナ。
サハスはにっこりと笑ったまま、
「……平気です」
「っ!」
口元を押さえて、また涙を浮かべるイスカンナだった。
サハスはその様子を満足そうに眺めて、
「よかったです。けど、あなたがいままで犯した罪は消えたりはしません。その自覚はありますか?」
「は、はい……」
「よろしい。では枢機卿たる私が、キアヌス神の名のもとに、あなたに償いを命じます。よろしいですね」
「はい」
「神々の赦しがあるまで、世間様に精一杯ご奉公なさい。困っている人を助け、無垢な魂には愛を以って接しなさい。そのためにも、これからは私の屋敷に住むことを許可しましょう。……もしあなたに不埒な輩が手を出そうとしてきたら、私も黙ってはいません。これでも昔は教会一番の魔術士として名を馳せていましたからね。あなたを守る手伝いくらいにはなるでしょう。この家のことを手伝って頂ければ、幾ばくかの給金も渡しましょう」
「……はい、はい……っ!」
「では、これから頼みましたよ。イスカンナさん」
サハスの言葉に、嗚咽を漏らしながらうなずくイスカンナだった。
こうしてサハスの屋敷に保護された、元暗殺者メイドが誕生したのだった。
あとがきTips~〝八つの象徴〟~
教会に太古から存在する八つの神器。
それぞれ創造神が作ったとも言われており、教会の権威の象徴として定められている。
教皇が持っている『創造』をはじめ、『均衡』『慈愛』『啓示』『安寧』『不変』『守護』『知恵』の八つ。
長い歴史の間に紛失したものもあり、現存する象徴の数だけ『教皇+枢機卿』がいる。すべて集めると神に等しい権威として扱われるため、分散して所持しているという。




