聖域編・0『とある聖女の空想』
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聖域編スタートです。
この世界には、聖地と呼ばれる場所かいくつかある。
例えば竜王が居城〝ドラヘンシュタイン城〟を構えている、シュタイン山もそのひとつ。
竜王を崇拝する竜公国の民たちは、彼の棲む地を聖地と呼んでいる。
しかしこと宗教となると、最も有名なのはハリーウッド聖教国にある〝はじまりの丘〟だろう。
そこはこの世界を管理する創造神キアヌスが初めて足を降ろした地だと言われている。
それゆえ〝はじまりの丘〟は聖キアヌス教会によって厳しく管理されていて、一般人は立ち入ることはできない。
いわゆる聖キアヌス教会の総本山であり、聖堂には教皇と聖女が暮らしている。
丘の頂上に建っている聖堂は、いつも静寂に包まれている。
聖地に立ち入れるのは教会でもほんのごく一部の人間だけだ。ここだけは、派閥の諍いや権力闘争などとはまったくの無縁だった。
聖女は、その聖堂上階にある自室の窓から丘の下――聖都を眺めていた。
「……暇ですわ」
聖女は退屈だった。
彼女が聖女と呼ばれるようになったのは十五年前。純粋に子供時代を享受していた六歳の頃だった。
ごく普通の平民の少女だった彼女のもとに、突然教会の聖騎士と司教がやってきて〝今日から君が聖女だ〟と言い出した。敬虔な聖教徒だった両親は恐れおののき、少女はこの聖堂に連れて来られた。
それ以来、ずっと聖女として生活をしていた。
暮らしは以前より、はるかに裕福になった。
望めば好きな物を食べられるし、お金には困らない。両親に贅沢だってさせてやれるし、警護はつくけど月に数回遊びにも行ける。
職務に忙しいということはなく、聖女としての力には自信があった。
それに信徒たちからの恋慕のような憧憬を浴びるのも、悪い気分ではなかった。
まるで物語のお姫様になったみたいだ。
……最初は、そう思っていた。
だけどその贅沢な環境は、ほんの数年で飽きた。
街の喧騒も聞こえない部屋で、許可されたことだけをして過ごす毎日。予定にない行動はできず、食事のメニューすら一か月先まで決まっている。
それがたまらなく退屈だった。
想像以上のことが起こらない生活がこれほどつまらないものだとは思わなかった。聖女としての立ち振る舞いを勉強をしていた最初のほうが、まだ退屈せずに済んだ。
「ひ~ま~で~す~わ~」
わたくしは聖女。二十一歳独身。
床でバタバタ手足を振り回しても、誰にも咎められない女。
聖女は大きくため息をついた。
……なにもやることがない。
午前にやるべき予定は全て終わらせてしまったので、本当に暇だった。
どうせ誰も入って来ないし、全裸になって踊ってみようか――そう思った時、扉がノックされた。
「聖女様、お届け物です。ご所望の書物が届きました」
扉を開くと、専属の侍女が本を抱えていた。
「検閲済みですのでお受け取り下さい。夕刻には取りに参ります」
「あら、ありがとう」
本を受け取った聖女は、上品な微笑みを浮かべながら扉を閉める。
この部屋に彼女の私物はほとんどない。
ここが〝聖女の部屋〟であって、彼女の部屋ではないのだ。生活に不要な私物は夜になると回収されてしまう決まりがあった。
だからこそ、この本が何よりも彼女にとって尊いのだ。
「えへへ」
まずは表紙を見てにやける。
「ふへへへ」
次に内表紙を確認してにやける。
「ぶへへへへ」
さらに鼻を膨らませる。
彼女は窓を閉めてベッドに飛び乗ると、すぐに本に夢中になった。
時間も忘れて読み進める。
その本はいま大陸東部で人気の吟遊詩人がよく歌っている詩を、大手の版元が本にしたものだった。
とある冒険者の活躍を描いた英雄譚。
タイトルは主人公の二つ名そのままに――
『神秘の子』
それは、この時代ではとても珍しい神秘術を操る少年冒険者の話だった。
彼の活躍は聖女の耳にも届いていた。
史上最速でSランクになった冒険者パーティ【王の未来】。そのリーダーのルルクという少年の話だ。
彼はわずか十三歳でストアニアダンジョンの攻略筆頭者になり、魔族の集団から街を救い、竜姫を仲間にして、魔族領で上位魔族すら倒してみせた。さらには竜王と互角に戦えて、どこにだって転移できる。極めつけは魔物十万体をたった一撃で屠ってみせたのだ。
まさに存在の格が違う。
そんな少年に、憧れるなというほうが無理があった。
厳しく管理された生活を送っていた聖女は、その自由奔放な冒険者の物語を求めた。
吟遊詩人を呼ぶことはできないから、本を取り寄せた。かなり渋られたけどこの本が読めないなら仕事をサボると脅したらなんとか許可が出た。
彼の噂話は市民に直接聞けないから、情報屋を雇おうとした。これは無理だった。
冒険者にはなれないから、ただ妄想を始めた。
自分も彼の仲間だったらどんなに楽しいだろう。
「いつかお会いしてみたいですわ……」
本をぎゅっと抱きしめて、想像を膨らませる。
それが難しいことはわかっている。
聖教国は神秘術士をやけに嫌っているから、決して彼のことを認めないだろう。
彼の師であったという伝説の王位存在――神秘王のことすら、触らぬ神になんとやらという態度で、いままで議題にすることもなかった。
彼を大々的に歓迎することはないだろう。
だけどもし彼が熱心な信者なら、この聖地を一目見にくることがあるかもしれない。
その時、聖女がたまたま外出した帰りで、うっかり出くわした……なんてことがあれば。
そして目が合った瞬間、お互いに惹かれ合って、心と心が通じ合うのだ。
だけどわたくしは聖女。誰かと恋仲になどなれはしない。それが神秘術士ならなおさらだ。
ふたりの間には大きな障害がある。だけど障害が大きければ大きいほど、恋は燃え上がっていくのだ……。
「でへ、でへへへ」
妄想に、涎が垂れる聖女だった。
おっとダメだダメ。こんなことで貴重な時間を使っている場合じゃない。
彼が自由の象徴たる冒険者であるなら、ただ漫然と過ごしていては少しも彼に近づけない。
見習える部分は見習わないと。
聖女は扉が施錠されていることを確認し、鼻息をフスンと吐き出してうなずいた。
自由とはなにか。
それは、やりたいことをやることだ。
壁に囲まれた狭い自由だけれど、それでも聖女はその自由を満喫することした。
「わたくしも、いつかきっとあなた様と共に……」
聖女は会ったこともない少年の顔を思い浮かべながら全裸になる。
生まれたままのその状態でベッドに寝そべり夜まで本を読むのだった。
なんと快適で、自堕落で、甘美な行為だろうか。
聖女は久々に楽しい心地になれたのだった。
……ちなみに翌日、風邪を引いた。
新ヒロイン?の聖女様です。
人物詳細は後ほど公開します。




