賢者編・32『賢者と世界樹』
夜になった。
煌々と月明かりが照らしていたのは、森の中に建てられた複数の墓石だった。
墓標に刻まれた名前は三つ。
ひとつは『マイア』。
ひとつは『ルーカス』
そしてひとつは『カーリナ』。
「ヘルメス……本当にやるのじゃな?」
「やるよ」
墓の前で膝をついて祈っていたのはヘルメス。
うなずいた彼が懐から取り出したのは、一冊の本だった。
〝世界樹の扉〟
ヘルメスはこの本をそう呼んでいた。
本に書かれた文字は、俺にはまったく理解できなかった。
異国の言葉か、それとも古代の言語か、あるいは異世界の言葉なのか。認識を阻害されているようになぜか文字列を憶えることもできない、謎の言語で書かれた本だった。
その本を墓の前に置いて、ヘルメスが魔力を練ろうとした――その時だった。
「ヘルメス先生!」
森の中から少女が飛び出してくる。
まだ十代の若い少女だった。ブカブカのローブを着て、見るからに駆け出し魔術師といった風体だっが立派な杖を持っている。
どこかちぐはぐな雰囲気の魔術士だ。
「……キルか。どうしたんだい?」
キルと呼ばれた少女は肩で息をしていたが、呼吸を整えると慌てて言った。
「あの、先生たちに、どうしても会いたいという方が――」
「久しぶりねミレニア。それにマイアの弟子も」
キルの後ろから現れたのは、黒髪、黒目の日本人風の出で立ちの少女だった。
……俺が見間違えるはずもない。
ロズだった。
「お師様、どうしてここに!?」
「忠告をしに来たのよ」
ロズがミレニアから視線を外して、ヘルメスを真っすぐ見た。
「マイアの弟子。あなた、それを使う気なのね?」
「ええ」
「私が止めても?」
「……たとえ貴女と対立したとしても、僕はこれ以上指をくわえて見てるわけにはいかない」
「そう。本気なのね」
「無論です。僕の命などいくらでも賭けましょう。それで世界が少しでも良くなるならば」
睨み合うロズとヘルメス。
ミレニアは慌てて二人の間に立った。
「へ、ヘルメスにお師様、やめるのじゃ! ふたりが争う姿など妾は絶対にみとうない!」
「それは神秘王次第かな。このままじゃ亡くなったマイア様や理王、なによりカーリナが浮かばれない。そもそも神秘王、貴女は戦争を止めようともしなかった。貴女の助けさえあればマイア様や理王も死ぬことはなかったはずだ。それなのにいまさら出てきて僕らが納得するとでも?」
「マイアとルーカスのことは残念だったわ。でも、この戦争は人の営みの延長上で起こったことよ。虐殺でも起こらない限り、私が止める権利はないわ」
「人の命をなんだと思ってるんだ」
「だからこそ、よ。私が加わったらその陣営は必ず勝てるでしょうね。でも視点を変えれば、敵側は必ず負けるのよ。知り合いがいるからって私が敗戦国を選ぶことはしないわ。彼らの未来もね。だから手出ししないと決めているの」
「……だが、貴女なら無理やりにでも戦争を止めることはできるはずだ」
「私が力づくで全ての争いを止めたら、世界に平和が訪れる? 誰も死なない? 人々が成長すると? 私はそうは思わない」
「だったら、僕がこれを使うのも人の営みだ! 貴女に止める権利はない!」
「そうね。だから忠告なのよ」
ロズは、決意を露わにしたヘルメスを見つめる。
「本当に世界を背負う覚悟があるなら止めないわ。だけどマイアの弟子、あなたにその残酷な運命に耐えられるかしら」
「たとえどんな重責だろうが、背負ってみせますよ」
「……そう。じゃあもう止めないわ。私はあくまで世界の秩序を見守る者。この世界で物語を紡ぐのは、あなたたちだもの」
ロズはそう言ってから、ミレニアに向かってどこか悲しそうな顔で微笑んだ。
「ミレニア、あなたも納得しているのよね?」
「妾はヘルメスと共に歩むと決めたのじゃ……お師様、理解して下さい」
「……そう。なら残念だけど、たぶんさようならになるわね。元気でねミレニア」
「お、お師様……」
去って行くロズの背中を、ミレニアは追うことはできなかった。
しばらく呆然として、ロズが去って行った方角を眺めていた。
残ったのはヘルメス、ミレニア、そしてヘルメスの弟子の少女。
「あの……先生、わたしはどうしたら?」
「そうだね、キルにはカーリナの代わりに見届けて欲しいかな。ミレニアもそれでいいかい?」
「う、うむ」
「じゃあ二人とも近くに寄って。扉を開くよ」
今度こそ、ヘルメスが魔力を練った。
丁寧に、それでいて膨大な魔力を紡いでいく。おそらく一度で全ての魔力を使い果たすのではないだろうか。それくらい、魔力が溢れ出していた。
「『エクスムーブ』」
ヘルメスが呪文を唱えた瞬間、本から世界が飛び出してきた。
光が周囲を包み込むように広がっていく。森の中だったその場所が、まるで上書きされたように景色を塗り替えていく。
「……なんじゃ、これは」
「す、すごいです」
あっという間に三人の見ている景色は、満天の星空になっていた。
小さな砂浜だった。
波のない夜の海が、眩い星たちを反射しながら水平線までずうっと続いている。
暗い海と明るい星空に覆われた、小さな島の砂浜だった。
反対側まで歩いて数十歩ほどでたどり着くくらい、小さな陸地。
「やあ。よく来たね」
その島の中心に、ひとりの少年があぐらをかいて座っていた。
誰だろう。
少なくとも只者ではないのはわかるが、俺の目にはシャツとズボンを履いただけの平凡な少年にしか見えなかった。
顔にも声にも、まったくといって特徴がない少年だった。
だがヘルメスはすぐに膝を折って、頭を下げた。
「お初にお目にかかります。僕はヘルメスと申します」
「知ってるよ。我が子よ」
少年はくすりと笑った。
キルが戸惑いながらヘルメスの服の裾を掴んだ。
「せ、先生、この方は……?」
「創造神様だよ」
「ひょえっ!?」
変な声を出して、すぐさま地面に這いつくばるキル。
「ご、ごごごめんなさい! あの、わたしキルケイといいまして、あの、ヘルメス先生に、あの、ついてきて来ちゃいましてっ」
「知ってるよ、君も我が子なんだからね。もちろんそっちの我が子もね」
「ミレニアと申します。名乗り遅れたことをお詫び申し上げます」
しっかりと膝をついて、頭を下げたミレニア。
創造神と呼ばれた少年は気楽に言った。
「よく来たね。ここに人の身のまま来るなんて、並大抵の知識と力じゃ不可能なのにね。さすが賢者と呼ばれるだけはあるかな」
「恐縮です」
「さてさて、ヘルメスはこの場所のことを知りながら来たみたいだけど、そっちの君たちはどこまで知ってるんだい? ああ、そう固くならないでね。人の子と会話するのも久々だからさ、言葉が難しいとうまく理解できなくてね。普段通りに話しておくれ」
「……では、妾がお話いたしましょう」
震えるキルではまともに会話できないと判断して、ミレニアが口を開いた。
もちろん神位存在――しかも創造神を相手にして緊張しないなんてことはなかった。声は上ずっているし、震えているし、冷や汗もダラダラと流している。
それでも王族として育ってきた経験が、少なくとも態度だけは気丈に保たせていた。
「妾たちは〝ユグドール〟を使い、世界樹に願いを叶えてもらうために参りました。御身がいらっしゃることは聞き及んでおりませんでしたので、ご無礼をお許し願います」
「ああ、アレを使ったのか。ちなみに、ボクが創造神のどれかは知らない?」
「……はい」
ミレニアが素直にそう答えると、少年はヘルメスに視線を変えた。
「君は知ってるのかな? ボクが何を司る存在なのか」
「存じ上げておりません。しかし御身がどなたであろうと、その尊き威光に代わりはありません」
「あはは、面白いね。じゃあボクも教えないでおこう」
少年はニンマリと笑った。
たぶんヘルメスもミレニアも凄く気になっているだろう。だが、創造神相手に名を尋ねるなんて無礼を働くことはできなかった。
「それでヘルメス。君が世界樹を探し求めていた理由は、たしか母親の形見を探すためじゃなかったかな? それとも気が変わった?」
「はい。いまは世界から大きな争いを失くしたいと、ただそれだけを願っております」
「ふうん……大切な人を生き返らせたいとは思わない?」
「……思います。ですが、私欲で世界樹を使うなど、絶対にあってはならないことです。それにたとえ世界樹を使って生き返らせても、彼女たちは喜びません」
「真面目だね。でもそっか。君は心の底から戦争を失くしたいんだね」
「はい」
ヘルメスは一切の迷いなく頷いた。
少年はどこかつまらなさそうに言った。
「それだけか~。ミレニアとキルケイはどう? 君たちはここにいるから、事象にしろ記憶にしろ、世界樹の改変の影響を受けないんだけど、何か希望はないのかな?」
「妾は……ヘルメスの意に従うまでです」
「わ、わたしもです」
「欲がないね。まあいいか。じゃあヘルメス、その願いを世界樹に祈るんだ。口に出さなくてもいいよ。世界樹はしっかり読み取ってくれるから」
「かしこまりました。しかし不躾ながら質問させて頂いてもよろしいでしょうか」
「なんだい」
「世界樹はいずこに?」
ヘルメスの言うとおり、空と島と海しかない世界だ。
どこにも木どころか植物すら生えていない。
少年は、笑いながら上を指さした。
「あれだよあれ」
「……星空、ですか」
「そうだよ。世界樹はね、全ての世界に根を伸ばしているんだ。人間のサイズじゃ到底認識できないよ。星に見えるあの光点は、ここに近いそれぞれの世界だよ。よく目を凝らしたら別の世界が見えるでしょ――って言っても、君たちじゃ見えないか」
「はい」
確かに、規模が違いすぎる。
この世界にも宇宙があり、星がいくつもあり、そんな広大な空間ですら世界樹にとってはほんの一部なのだ。
あらゆる世界の、あらゆる時代の、あらゆる出来事を記録しているという世界樹。
その姿を単なる樹だとは思わなかったが、宇宙のようなものだったとは。
「この場所なら空に祈うだけで願いは叶うよ。それが世界樹にもどうにもならない無茶なものじゃなければね。そうだ、流れ星でも降らせてあげよっか? 雰囲気出るでしょ」
「……流れ星、ですか」
「ああそっか。君たちの世界では流れ星に祈る習慣はないんだっけ。ごめんごめん。じゃあそのまま祈ってね。大丈夫、世界樹はすべてを見通しているからね。僕とは違って記憶力がいいんだよ」
そう冗談交じりで話す少年の横で、目を閉じたヘルメス。
変化が起こったのは、彼が手を組んだその瞬間だった。
空が歪んで、星が動いたように見えた。
「さて、これで新しい歴史が創られたわけだ」
「……戦争は無くなったんでしょうか?」
「そうなったはずだよ。あとは自分で戻って確認してね。ああそれと、君の望み通り戦争で失われた命は戻らないようにしたみたいだから、ちょっと変なことになってるだろうけど……まあ、それは代償ってことでがんばって」
不穏なことを言う少年だったが、ヘルメスもミレニアも問いただすようなことがきでるはずもなく、不安な顔で黙って頷いていた。
「じゃあ今回の願いはここまで。しばらく扉も開かないだろうから、君は二度とここに来ることはないね。話せて楽しかったよ」
「恐縮です。お会いできたことが何よりの幸福でした」
「妾も同じ気持ちでございます。創造神様、名誉ある時間を――」
「ああ、不老の君はもしかしたらまた会うかもね。ボクには未来は見えないけれど、どの世界にも〝扉〟は定期的に現れるからさ。それが君たちにとって、幸か不幸かはわからないけれどね」
少年は意地の悪そうな顔でそう言った。
ミレニアは目を見開いて、言葉を失っていた。
扉さえ開けば望むだけで世界を変えられる力、か。
ミレニアがユグドールを探していた理由がようやくわかった。悪しき者に渡さないよう、八百年間ずっと気を張っていたのだろう。
「じゃあ我が子たちよ。懸命に生きるんだよ」
少年がそう言うと、気づけば、三人は元の森の中に立っていた。
まるで全てが幻だったように。
ヘルメスはすぐに気持ちを切り替えていた。
「……ミレニア、キル。しばらく一番近くの拠点にいてくれ。僕は世界を見て回ってくる」
「は、はい」
キルはうなずいたが、ミレニアは首を横に振った。
「妾も連れて行っておくれ。創造神様が仰っていたことが本当なら、戦争は終わっても混乱が起こっているはずじゃ。それがどんなものかはわからぬが、ヘルメスひとりに押し付けられるものではない」
「でも、もしかしたら君の国にも悪い影響が出てるかもしれない。君に辛い思いはさせたくないんだ」
「いまさらじゃ。世界樹を頼った時点で妾にも覚悟ができておる。それにヘルメス、おぬし一人では心配なのじゃ。おぬしは確かに世界中から賢者として称賛され、多くの国に味方がおる……しかし今回ばかりはその立場がそのままという保証はない。世界がどう書き換わったのかまだわからんのじゃ」
「危険なのは承知だよ。だから君を一緒に連れて行くわけには――」
「妾を誰だと思っておる。おぬしより強い〝神秘術の賢者〟じゃぞ?」
ハッキリと言い切ったミレニア。
この時ばかりは、ヘルメスも苦笑するしかなかった。
「……そうだったね。何かあれば僕を助けてくれよ、ミレニア」
「もちろんじゃヘルメス」
こうして二人は世界を回った。
それは長い、とても長い旅になったのだった。
結論から言うと、創造神の言った通り当時起こっていたあらゆる戦争が、影も形もなくなっていた。
いままで争っていたのが嘘のように、国家や民族の対立は何かを忘れたかのように平穏なものになっていた。
世界は一見、とても平和になったように見えた。
だがミレニアたちはすぐに違和感に気づく。
争いの発端になった〝世界樹の扉〟の記憶が、世界の人々から消えていたのだ。
それまでは誰もが知っていた世界樹の扉のこと。そして世界樹に関する記録までもが、全て不自然に消えていた。ぽっかりと穴が空いたように、情報が突然消えているのだ。
もちろん世界樹そのものの存在は、伝承や物語などで誰もが知っている。だが世界樹の正しい情報だけが、忽然と消えてしまったのだ。
各国の王族など世界樹へのアクセス方法を知っている者は、とくに記憶の改竄が大きかった。その中にはヘルメスやミレニアのことを忘れている者もいた。
そして戦争の記憶もまた、人々のなかから消えていた。
戦争で死んだ者たちの記憶も、記録も、全て消えてしまっていたのだ。
国を何度も救った英雄も。
人々から称賛されていた騎士も。
そして時には大国の王族すらも。
戦場で死んだ者たちはみんな、居なかったものになっていた。
彼らの記憶が残っていたのは、記憶の改竄を受けなかったミレニアたち三人だけだった。
ヘルメスはその事実を知った時、強く自分を責めた。
確かに世界は平和になった。新しく死ぬものは、大きく減った。
だけど。
「僕は、彼らの過去まで殺してしまった……!」
そしてしばらくして、ミレニアとヘルメスは知ることになる。
存在を消された者たちが生んだ子や、彼らが作った物などは消えなかったが、確実な影響が出ていた。
出自の不明な人間が増え、製作者が不明な物が溢れ、大きな混乱が訪れていた。
その騒動は予想以上に大きく、治安が乱れた国も多かった。新たな争いが生まれた地域もあった。大きな戦を無理やり止めたことで、各地で新たな争いの火種が生まれていた。
ミレニアとヘルメスは世界中を巡り、混乱を治めようとした。
だがあまりにも大きな時代のうねりに、たった二人で立ち向かうのは無理があった。
やがて彼らは自分たちだけでは不可能だと判断して冒険者ギルドを設立。
こうして組織として、世界の人々を助けることになったのだった。
それからヘルメスは死ぬまで自分を大罪人だと責めていた。
多くの命を助けるために、世界を混乱に陥れた罪人なのだと。
彼はのちにミレニアと結婚するも、ミレニアを穢したくない、大罪人の血は残したくないとミレニアの純潔を生涯守り抜いた。
ミレニアもまた、元から子が成せない体であることをヘルメスに伝えることはなかった。ミレニアが守りたかったのはヘルメスの名誉であり、誇りであり、そして清廉潔白なまでの実直な心だったからだ。
女としてヘルメスを慰めるのではなく、妻としてヘルメスを支え続けたのだ。
そしてヘルメスの死後、弟子だったキルが『三人の賢者と世界樹』を書き上げた。
それは世界樹の影響を受けていないキルだからこそ残せた真実の物語だった。しかし歴史が改編された世界では、空想の物語として受け入れられた。
その物語はキルの死後、ミレニアの手に渡った。
ミレニアはヘルメスの墓に彼が生きた証を供えたのだった。
冒険者ギルドの総帥となったミレニアは、それから長い人生を歩きはじめた。
結果的にヘルメスは自分を責めたが、願ったことに間違いはなかったとミレニアは確信していた。
だからこそたった一人で彼が残した組織を背負い、育て、いまでは冒険者ギルドはいかなる国家にも属さない世界最大の組織になっている。
「……これで少しは、ヘルメスの望んだ未来に近づけたのじゃろうか」
人々を守る存在であること。
ミレニアは八百年間、賢者の〝願い〟であり続けたのだった。
――これが、俺が視たミレニアの記憶の一部始終だった。
あとがきTips~ヘルメスと本来の歴史~
〇ヘルメス
魔術の賢者。
氷属性以外の魔術と、多くの極級魔術を使いこなした魔術の天才。
使えた極級魔術は『転移』『収納』『全探査』『陸殿』『虹光砲』『黒炎』『真空』『極夜』がある。ちなみに禁術指定制度を中央魔術学会が作ったのは、ヘルメスの多彩な魔術の継承を危険視したから。もっともヘルメスはキルケイに対して、自分の魔術を教えることはなかった。
ヘルメスの師匠は〝魔王マイア〟。二代前の魔王。
マイアは、先代の魔王(魔族)と人族のあいだに生まれた混血の娘。平和主義者だったため先代魔王の父親とはそりが合わず、人間領でつつましく暮らしている時に幼いヘルメスと出会い、魔術を教えた。
世界の改変後、ヘルメスは冒険者ギルドの初代総帥となりギルド設立の十年後にミレニアと婚姻を結ぶ。その後は組織として世界の混乱や秩序を守っていたが、老いてまともに動けなくなった後、自らの肉体を灰すら残したくないとの思いから、死ぬ間際に火山の中に転移して消滅した。




