空軍士官学校の候補生②
昨夜の就寝は遅かったにもかかわらず、翌朝早くから訓練が始められた。最初の訓練は、候補生達を軍隊と言う組織に馴染ませ、兵士としての標準的な能力を獲得させることに主眼を置いたもので、体力や身体能力向上のための体育訓練、小銃を使っての射撃訓練、塹壕を掘る訓練、軍紀に関する課業などがみっちりと行われた。候補生達はそれらをこなしていくだけで精一杯の、まさに“息をつく暇もなく”一日が目まぐるしく過ぎて行った。
また、これらの訓練と同時に軍隊における習慣や所作を叩き込む『訓育指導』も行われた。これは先任教員が中心となって、一刻も早く軍隊生活に慣れるように様々な軍のしきたりを教えていくものである。
例えば、敬礼の仕方である。肘の上げ方や角度、指の伸ばし方など、思っている以上に決まり事が細かかった。なかなか上手く出来ないでいると、すぐに名指しで「そんなことで一人前の軍人になれるか!」と、耳をつんざく声で教員から怒鳴りつけられてしまうのだ。
次に挙げられるのは、意外と思われるかもしれないが『上官の敬称』である。歴史が古く、国民に馴染みが深い陸軍では、「〇〇少尉殿」とか「△△兵長殿」と言うように、職名に敬称を付けて呼ぶ習慣があった。この習慣は国民の生活の中にも浸透していた。例えば、自分の村の村長に対して「村長殿」と呼ぶようにだ。しかし、新設の空軍では、敢えて陸軍と差別化を図るため、職名をつけたら敬称は付けないと言う決まりになっていた。習慣を改めると言うことを、意外と人間は簡単にできない。間違えて敬称を付けてしまい、教員から怒鳴られる候補生が後を絶たなかった。
さらに軍隊では何事にも『五分前』の号令がかかるのだが、これが案外曲者である。例えば、『総員起し五分前』では、この号令がかかった時点では、あくまでも寝静まった状態でなければならないとされている。しかし、五分後の『総員起し』の号令がかかった瞬間に飛び起き、直ちに制服に着替え、さらに寝具の片付けを行った上で廊下に整列し、点呼に備えねばならないのである。五分前号令の時点で、本当に寝静まっていては、このように連続した動作をスムーズに行うことは到底不可能だと言える。よって、五分前号令の時点で覚醒し、『総員起し』までの間に、起床後の一連の動作をシミュレーションしておく必要があるのだ。要領の良い候補生が、制服を着た状態で寝たふりをすると言うズルを試みることがたまにあったが、何故だかそのようなズルは必ず教員にバレていた。要領が悪いとか動作が遅いとかの場合は、教員は怒鳴りつけるだけだったが、ズルをした場合はそれで済まされることは無く、頬に向かって思いっきりビンタがかまされた。
一方、シャルロッテは、何時まで経っても飛行機に乗れないことに苛立っていた。しかしここは軍隊である。逆らうことは許されない。そこで、彼女は溜まる鬱憤を晴らすため、皆が疲れてぐったりしている休息時間中にも走り込みを行ったり、筋トレを行ったりと、とにかく体を動かしまくっていた。体を酷使するとイライラが吹っ飛び、気分が爽快になるからだった。実はこのことが彼女の体をより頑強なものへと変え、後に彼女の操縦能力を向上させる一助となったのである。
そんな生活も二週間が過ぎ、候補生からはすっかり娑婆っ気が抜け、皆軍人らしくなっていた。この頃からいよいよ正式な新兵教育が開始された。まず、候補生達は十名ずつの分隊に分けられた。新兵教育が終了するまでは、この分隊単位での行動が主となるのである。では、新兵教育の一日とは一体どのようなものであっただろうか、具体的に見てみよう。
午前六時。起床後すぐに洗顔を済まし、部屋・廊下・共用スペースの清掃。続いて食堂にて朝食の準備にかかる。食卓番が烹炊所に食事を受け取りに出向き、他の者は食卓の準備に懸かる。食事を終えると午前八時の課業整列が行われる。課業整列とは、軍旗掲揚場にて全分隊が集合を終えた後、軍旗が掲揚され副直将校の達しが行われるものである。この時整列が完了した分隊から順に当直が号令台にいる副直将校に対して『集合完了』を報告する決まりなので、自ずと競争原理が働き、どの分隊も他に先んじて集合出来るよう頑張るようになる。このようにお互いが競争するよう誘導するのは軍隊における教育のセオリーなのだ。
午前九時からは分隊毎にその日のカリキュラムが開始される。カリキュラムは様々で、普通学・軍制・運用術・精神訓話・通信・陸戦・体操などである。普通学とは、主に数学と国語のことで陸軍の文官教授が授業を受け持っていた。なかなか優秀な教授で、シャルロッテにとっては中学時代の授業よりも判り易く面白かった。軍制とは、軍の組織や仕組みについての授業である。また、精神訓話とは、攻撃精神、敢闘精神、積極性、迅速性など軍人にとって必須の精神性を吹き込む為の教育のことで、これらの中の一つでも欠けた態度が見えると、徹底的にしごかれた。運用術とは、防毒訓練や縄の結索技術の取得など実践的な教育だった。通信とは、電鍵を使っての発信・受信の実習のことである。陸戦とは、陸軍で言うところの教練のことで、軍人養成教育の根幹を成すものだった。整列、行進、敬礼の姿勢など、軍人としての所作を徹底的にしごかれるものだった。体操とは、柔軟体操的な所作が多く取り入れられた内容だった。これらの課業が連日続けられた。
さて、午前中は九十分間の授業が二コマ、間に十分の休み時間を挟んで行われ、その後昼食になる。午後も午前中と同じく授業が二コマ行われ、四時からは別課が一コマ行われた。その後、午後六時から夕食。夕食後には『温習』があった。『温習』とは補充授業のことで、復習、通信術、精神訓話など日によって内容は様々だった。温習時間の終了間際には、毎日『反省録』という日記のようなものを書かされ、これを分隊士に提出して添削を受けていた。
温習の後が入浴。ゆっくりと一日の疲れを癒したいところだが、二百名が順に入らなければならないので時間的な余裕はなく、分刻みで入らなければならない忙しいものだった。
午後十時就寝。しかし、これで一日が終わった訳では無かった。就寝後、抜き打ちで巡検が行われたのである。巡検とは、各部屋の人員点呼・安全確認・整理整頓・清掃の状態などを確認するもので、何か一つでも至らぬことがあれば、全員廊下にて直立不動のまま副直将校から一時間にも及ぶ訓戒を聞かされる羽目になった。
このような新兵教育が一か月ほど続けられた。この間は日曜日の休日外出も認められなかった。早く軍隊生活に慣れさせるため、娑婆から隔離することがその目的だった。休みも無い連日の気を抜けない鍛錬の為、日を追うごとに候補生達には疲れが出て、座学では舟を漕ぐ者が増えて行った。が、勿論そんな時には教室の後ろに控えている補助教員に一喝され、飛び起きる破目になった。
この様な日課を重ねて、三月半ば、一般の学校で言うところの学年末考査にあたる総員査察が行われた。この試験に合格した者から航空隊の実技訓練が始められることになっていた。候補生達は皆、搭乗員に憧れて志願してきたのだ。にもかかわらず、飛行機の気配は何一つ無く、唯々教育の日々を過して来たため、合格すれば遂に飛行機に乗れると言う知らせに、皆歓喜して心が逸っていた。ちなみに、不合格の者は引き続き新兵教育が継続されることになっていた。