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56. 自転車の前カゴ


「今日はどこへ行く?」

「そやなぁ……どこがええかなぁ」

 僕らは今、もちまるのお気に入りのバーガーショップで、朝食を食べている。早朝で、客もほとんどいない。

 

 今日は、普通に、モーニングセットのシンプルなバーガーだ。

「キングサイズなんとかじゃなくてええの?」僕が訊くと、

「うん。あれは十分堪能した。……ありがとな」

「そうか。……ポテト、もう少しどう?」

 僕は、自分のセットについていたポテトを、彼の前に差し出す。

「ん。ありがと」

 彼のまるいほっぺたが、嬉しそうにむくむく動く。

 かわいい。

 もうこんな姿を見ることも、なくなってしまうのか。

 そう思うと、僕の目の前の景色が、涙でじわっと揺れる。

 湿っぽくしないこと。そう心に決めていたのに、ついつい、僕の涙腺はゆるんでしまいがちだ。

 もちまるは、おそらく気づいていると思う。でも、気づかないフリで、いつもと同じ、のんびりした表情で笑っている。

 そういえば、点目と、シンプルな線で描かれた眉と口。誰かの落書きのような、ニコちゃんマークのようなカオにも、すっかりなじんだよな。

 彼は、初めて出会った頃のように、わざわざ僕と同じくらいのサイズになって、ひとを威嚇するようなこともなく、最近では、いつもポケットサイズか、膝に乗るくらいの小さな子どものサイズでいることが多い。(時々、萌の注文で、大きなクッションサイズになっていることもあるが)


「なあ、今日は、どうする? どこか行きたいところはある?」

 今日は、週末で、予備校の授業は休みだ。夜まで、まだまだ時間はある。

「ん~。そやな。この辺、見て回りたいな」

「よっしゃ。どこがええかなあ。自転車やし、結構広い範囲に動けるで。それとも、自転車置いて、歩きの方がいい?」

「自転車がええ。オレ、前カゴに乗る」

「了解」

 朝食を終えて店を出ると、僕は、前カゴにマフラーを敷いて、その上にもちまるを乗せた。

 もし、彼の姿が見える人がいても、ぬいぐるみを載せているだけに見えるだろう。 

「オレ、ここに乗ってみたかったんや」

 もちまるは、自転車の前カゴの縁につかまって立ち、あたりをきょろきょろ見回している。


「よ~し、ほんじゃ、しゅっぱ~つ」

 もちまるの合図で、僕は、ペダルを踏む。

 今日は、穏やかな晴天で、風もほとんどない。空気は冷たいけれど、心地いい。

「乗り心地は?」

「ええで」

 いつのまにか、もちまるは、前カゴにフィットする形になり、どっしり座って、頭をカゴから出している。

「景色がよう見える。なんか新鮮な気持ちや」

「ごめんな。いつも僕の都合で、ポケットの中ばかりで過ごさせて」

「いや、ポケットの中はポケットの中で、居心地はええねんで」

「それならええけど」

 どこへ行くという、はっきりした目的地はないままに、もちまるの言うままに、右や左に道を進む。

「寒くないか?」

「大丈夫やて。大吾、おまえ、オレが妖怪やっていうこと、忘れてるやろ」

「あ。そうか。そやな」

 いつのまにか、僕の頭の中では、もちまるは、あの日夢の中で見た小さな男の子のイメージになってしまって、寒くはないか、眠くはないか、お腹が空いてはいないか、ついつい弟を気遣うような言動になってしまう。


 しばらくあちこち走り回って、いつも天体観測をする河川敷にやってきた。自転車を止めて対岸を眺める。

「ここの景色、好きやな」

 もちまるが、川の向こう岸を見渡しながら言う。

「向こうに見える、あの山がええな」

「二上山やな」

「うん。もし、いつか生まれ変わって、ここに来ることがあったら、きっとあの山のこと、懐かしい、って思うやろな」

「うつそみのひとなるわれやあすよりはふたかみやまをいろせとわがみむ」

 僕の頭に、ふっと万葉集のある歌が浮かび、思わず口ずさむ。

「オオクノヒメミコか」もちまるが言う。

「よう覚えてるな」

「おまえのポケットの中で、どんだけオレ授業聞いてたと思うねん。“門前の小僧”とかいうやつやな」

「……確かにな。もう半年以上も一緒に高校の授業受けてたんやもんな」

「万葉集っていう歌集にのっている歌やろ」

「そうそう」


“この世の人である私は、明日からは二上山を、わが弟と思うことにしよう” 

 弟である大津皇子が謀反の疑いをかけられて処刑され、後に二上山に葬られることになって、姉である大伯皇女が詠んだ歌だ。

「それにしても、よう覚えてたね」

「大津皇子って、文武両道の、えらいイケメンで、性格もよくて、誰からも愛されるような人だったらしいって、古文の先生が、何かめっちゃ気合い入れて話しとったから、よう覚えてるねん」

「ふふ。そうか」 

 ちょっと笑ってしまう。古文の吉野先生は、とにかく、まるで、会ったことがあるみたいに、自分の好きな歴史上の人物について、様々な資料の記述を元に、熱っぽく語る人なのだ。みんな圧倒されながらも、ついついつられて一生懸命話を聞くことになる。それで、僕も、さっきの歌が、すっと口をついて出たというわけだ。


「オレな、次、人間に生まれ変われたら、きっと学校に通って、いっぱい勉強したいな」

「うん」

「おまえと一緒に学校に通えて、すごい楽しかった。おかげで、いっぱい勉強したいことできたんや」

「そうか。よかった」

 もちまるが、前カゴから振り向いて、にっと笑って言った。

「それで、いつか……大吾、おまえに会いに来る」

「うん。きっとな。……待ってるで」

 

 しばらく2人で、川面と向こう岸を眺めていると、もちまるが元気よく言った。

「よし。休憩終わり! 出発~!」

 もちまるが、白い拳を空に突き上げる。

「よし。じゃあ、行くか。ここからも、ナビ頼むで」

「おう。ちょっと遠く行ってもええか」

「もちろん!」

 今日は一日、もちまるにつきあうつもりだ。

「じゃあ、ひとまず、この道を真っ直ぐ、南方向へ行こう」

「了解!」

 僕は、河川敷のサイクリングロードを、もちまるの言うままに、まっすぐ南へ向けて自転車を走らせる。



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