26《2》聖女にお見舞い
イアンはサイドテーブルに皿とナイフとりんごを置くと、ベッドの横に置いてあるイスに座った。
そしてエレンの額へと、気遣わし気に手を伸ばし、ゆるやかになでた。
「体調はどうですか?」
「うん、もうずいぶんいい感じですよ」
「でも……泣いてませんでした? 目が少し赤い」
「ああ、これは……さっきまで少し嫌な夢を見てて……。イアン様を探してる夢、見てました」
エレンがそう言うと、イアンは優しく笑う。
「じゃあよかったです、今日お見舞いに来て」
「ふふ、本当に。……ねぇイアン様……キスして?」
熱のせいか、先ほどの夢のせいか……いつもなら口が裂けても言わないはずの甘いセリフが、エレンの口から自然とこぼれた。
エレンがそう甘えると、イアンはビシッと石化し……10秒くらいで復活したもののおもむろに視線をそらす。でも、エレンのお願いは聞き入れられて、枕元にイアンの体重が加わった。
イアンの体で光が遮られて薄暗くなる。
そして、エレンのおでこにそっとキスが降った。
唇じゃないんだ……とがっかりしたのはほんの一瞬。
おでこへのキスも充分過ぎるほど幸せだった。
エレンの頭の両サイドに置かれた腕や、視界を遮るイアンの体が近いことにもドキドキするし、イアンの体からはほんのりと男性用の香水の香りなんかもして、エレンはくらくらした。
そんなロマンチックなキスが終わって、イアンを見つめていると、イアンは困った顔をして笑う。
「……そんな可愛い顔しないでください。こんな場所で、そんな顔されたら……弱ってるエレンさんに、色んなことしたくなる……」
「色んなこと?」
「ええ……色んなこと……」
そんなことを言われると、エレンもいけない妄想をしてしまう。もしもイアンに『ベッドの中に来て』と誘ったらどうなるんだろうとか。
そうしたらイアンは、上着を脱いでネクタイをほどいて、エレンのベッドに入ってくるんだろうか。
もしもそうなったら、抱きしめられたいな……とエレンは思う。
優しく強く抱きしめられたい。
そうして2人で掛け布団にすっぽりと隠れて、ベッドを転がりながらキスをしたい。
頬とか目元とか鼻とか、顔中の色んなところに。
そうしたら……きっと2人は楽しく幸せに笑い合う。
そんなことをエレンが考えていると、イアンが悩ましげに息を吐いた。少し目に熱を帯びている。
「はあ……本当に、目の毒です。エレンさんの、熱に浮かされてる顔が色っぽくて。……まるで……キスをもっとと、ねだってるように見えます」
「え……! いやっあのっ違っ」
否、違わない。えええ、なんでバ、バレ……っ!?
さっきのいけない妄想が、ももももしかして表情に出てしまってたんだろうか。
一体全体どんな顔をしてたのかしらん……。
エレンは想像できないけど真っ赤になった。
いやああ死ぬうう! 恥ずか死ぬうう!
くっ! 殺せ!!
気分はすっかり追い詰められた女騎士だ。
エレンが赤くなり青くなり、はわっはわわっとなっていると、イアンは苦笑した。
どうやらさっきの妄想中の表情は、風邪のせいだと思ってくれたらしい。
「大丈夫、なにもしませんよ。今日のところは」
「今日、の、ところは……!?」
エレンは恐れおののいた。
な、なんというパワーワード……!
イアン様ってなんていうか、あれですよね。
倒置法の使い手ですよね。
彼ほどの使い手をエレンは今だかつて見たことがない。
エレンが尚も恐れおののいていると、イアンはあっさりと話題を変えた。
「そうそう、りんご食べますか? よかったらむきますよ」
「あ、はい、食べたいです。イアン様、りんごむけるんですか?」
「ふふ、任せてください。見よ、練習の成果を!」
イアンはそんな軽口をたたくと、ひょいっと投げたりんごを左手でパシンとつかみながら、くるんと右手のナイフを指先で1回転させた。
そうして膝の上に皿を置くと、その上でりんごの皮を慎重にゆるゆるとむいていく。
「おおー! すごいすごい上手っ!」
「ちょっと前まで、皮のほうが実がついてる状態だったんですよ」
「あはは、嘘つきー。今は私より断然上手いですよ。皮がすごく長く繋がってる……すごいです!」
「はは、努力がすごい報われました、今」
そんな会話でさっきまでの気まずさはすっかりと消え去った。エレンは、そんなイアンを好ましく思いながら見つめる。
イアンのこういうさりげない気遣いをすごいと思う。未熟な部分を隠さないところも。
必要と思えば、訓練場で兵士と混じって訓練するし、今回はお手伝いさんに教わりながらりんごをむく練習をしたのだろう。
りんごはたぶん、エレンの為に。
そうしてなんでもできるようになってしまう。
優しくて、自然で、努力家な人。
そうして、イアンがむいてくれて一緒に食べたりんごは、とてもおいしかった。
「そういえば、来週はマーリン様達と勉強会らしいですね」
「はい。イアン様も来れますか?」
「あー……いえ、その日はちょっと」
「……イアン様ってお休みの日、なにしてるんですか?」
そういえばイアンと会うのは平日ばかりで、休日はほとんど会えてないことに気づいたエレンである。
「んー、騎士団の手伝い……アルバイトですね」
「え……そうなんですか?」
「ええ、風魔法が必要な時とかに呼ばれています。
最近は隣国との境の村で土砂崩れがあったから……
来週からしばらく復興支援に行く予定です」
「じゃあ、しばらく会えませんか?」
「そうですね……今回はちょっと長くて……まあ……2週間くらい……?」
「ふーん……結構長いですね……」
なんとまあ、知らなかった。
でも言われてみれば、以前の魔獣退治の時に、イアンが門番から信頼されていたこととかと結び付く。
ふーん、2週間……ふーん。
しょぼーん。
「……ふふ」
「ん? え……なんで笑ってるんですか?」
エレンが人知れず凹んでいると、なぜかイアンが笑っている。
「いえ。お土産買ってきますね」
「……答えになってないんですけど」
「……可愛いな、と思っています」
「…………」
そして再び流れる甘い雰囲気。
カチーンと固まってしまったエレンの頬をイアンの手が触れて、なでる。でも、そのままそっと手が離れた。
「今日、顔を見れてよかったです。お大事に、エレンさん」
「……はい。りんごおいしかったです。お見舞いありがとうございます、イアン様」
いつものように微笑むイアンになんとか答える。エレンの心臓は体が揺れるくらい大きく鳴りまくる。
心臓にわっる! このままでは絶対早死にしてしまう。ひええまた熱上がったかもしれない聞くんじゃなかったああ……なーんてね嘘です聞いてよかった! 嬉しい楽しい幸せ! エレンは超元気になっている。
しかし絶賛風邪引き中で体調が悪いはずのエレンを気遣い、早々に帰ろうとするイアンの優しさを尊重して、笑顔で送り出す。
イアンはいつも通りだったから、今まで通りの毎日がこれからも続くんだと、なんの根拠もないのに、エレンは信じていた。




