1話
夜、メグルは行儀悪く机に突っ伏してラジオを聞いていた。銀色のポータブルラジオからはラジオDJのハキハキとした声が聞こえてくる。
「――続いてのお便りはラジオネーム『ぽんこつたぬき』さんから」
昨今ネットでも聞けるが、メグルはラジオ機で聞くのが好きだった。
すこし籠もって聞こえる音、ゆっくりとツマミを回してノイズの中から探し当てる選局、雨の日は少し聞こえが良くなること……それからタイムラグがないこと。
ネット配信では2分ほど遅れた放送になってしまうのがメグル的によろしくない。
「こんばんは。最近小学5年生の弟の様子がおかしいんです。コケた拍子に頭を打ってから急に大人びて余所余所しくなりなんだか別人のように感じます。私の気の所為でしょうか、と。……う~んこれはねえ『ぽんこつたぬき』さん!アレですよ、背伸びしたくなるお年頃ってやつ、ちょっと早い気もするけど!あとコケて恥ずかしいのは分かるけど落ち着けって弟さんに言っておいて下さい」
投稿された便りを読み、DJが反応する。
話題が広がればその投稿について誰かがリアルタイムで投稿する。このレスポンスの速さがラジオの魅力だとメグルは考える。
今だってこの『ぽんこつたぬき』さんの自分の境遇に似た投稿を聞いて自分もレスしたくなり……とこれは自分の投稿ではないか!
読まれた嬉しさでニヤけるが、ラジオDJのコメントは求めているものと随分違っていた。どう考えても、そんな背伸びしてどうこうではない。メグルの弟はもっと、すり替わったような――
「姉さん、僕はそろそろ寝るから。夜ふかししちゃ駄目だよ」
自室のノックとともに、扉の向こうから聞こえる弟の声。
およそ2週間前まではやんちゃな小学5年生とは思えないほど落ち着き払った、諭すような物言いだった。
「……わかってるっての」
投げやりに扉越しに返答すると、声の主はそのまま自室の隣の部屋、弟の部屋に入っていった。
キィ、バタン。隣室の扉が閉まる音を聞いて、メグルは息を吐いた。
弟の姿、弟の声。
見慣れたアイツは、誰……?
◆
事の起こりは2週間前に遡る。
メグルの弟・進太郎はまさにクソガキ然とした、外で遊ぶのが好きな活発な小学5年生であった。
学校でも放課後でも友人たちと遊び呆け、まともに勉強もせず疲れたらそのまま寝る。
両親も元気なのが良しという(ただし人に迷惑をかけないこと!)教育方針のため、大変のびのびと育っていた。姉のことを気恥ずかしいのか名前で呼び捨てるのは、メグルとしてはどうかと思っていたが。
ド平日。
弟の進太郎が人気のない路地裏で倒れているのを発見された。学校の帰りから何をしていたか目撃証言もなく、また乱暴されたり盗まれた形跡もないため寄り道をして転んだのではないか、と言う話だった。
ともかく、弟は病院にすぐさま搬送され、そのまま1週間ほど昏睡状態が続いた。そして突然目覚めたかと思うと、今度は原因不明の高熱を出しこれまた意識不明の昏睡状態が続く。流石にあの時は両親揃って憔悴しきっていた。
そして4日目、熱が下がったと思ったらガバっと起き上がり家族の顔をまじまじと見つめるやいなや、おいおいと泣き出した。両親もメグルも、釣られて泣いたのは恥ずかしいけれど温かい思い出になっている。
ただ、そこからおかしくなった。
いや。
きっとあの路地裏で倒れたときから。
あの時から変わってしまったんじゃないだろうかと、メグルは考えていた。
その日の晩、泣き疲れてまた眠っていた進太郎が起きてきて、リビングでくつろいでいた家族に向かって、彼は深々と頭を下げた。
『父さん、母さん、姉さん……ただいま』
まるで。何年も経て再開したかのような、悲痛な面持ちで。
それからは頭を打ったとは表現しきれないほど、人が変わったように穏やかで小学生らしさなど微塵も感じさせない様子になった。メグルは不審がったが、両親は何も言わず、変わらず接している。
まるで何事もなかったかのように過ごす家族の姿に、メグルの苛立ちと不安は募るばかりであった。
◆
大事を取って、進太郎は今日も家で休んでいる。登校は来週からということになっていた。
両親は昼間働いていて不在なのもあり、メグルは気もそぞろに紙パックのジュースを飲んだ。いつもは昼食のお供に飲んでいるイチゴ牛乳を、今日はすぐに飲みきってしまう。
眉間にシワが寄り、今の自分は随分不機嫌そうな顔をしているだろう。ただでさえ客観的に見て可愛げのない顔をしているというのに。
横に座る友人がその顔を覗き込んでくる。
「どしたんメグル。まだ弟のこと悩んでんの?」
「……ん。いやあ…まあそうなんだけど……」
メグルは中学からの友人である彼女を信頼しており、一連の出来事――不信感を話していた。が、正直話半分面白半分で聞いているんだろうと踏んでいる。案の定、彼女はにひひと笑った。
「なんかさあ、そんなに悩んでんの見てると一度会ってみたいわ~。今度メグルんち連れてってよ?」
「面白がってるだけじゃん……」
「ごめんて。でもさあ、うじうじ悩むより直接聞くしかないでしょ。アンタ誰よって」
「そうなんだけど……」
結局もやもやを抱えたまま、メグルは帰宅した。
家に帰る足取りは重かったが、さりとて寄り道する気も起きず。時間的にまだ両親はどちらも帰ってきていないだろう。
「……ただいま」
いつもなら玄関に放り投げられているランドセルはなく。
代わりにやってきたのは――
「おかえりなさい。学校どうだった?」
ゆっくりと玄関まで出迎えた進太郎は、穏やかな笑みを浮かべている。薄暗い玄関に西日が差し込み、逆光が彼の姿を覆い隠す。
弟の姿で、まるで距離を縮めかねている部外者のような言動に、メグルは言いようのない感情が湧き上がるのを感じた。ローファーを乱雑に脱ぐ。
「……」
ジロっとねめつけ、直ぐに逸らす。言い返そうとも思ったが、それもまた霧散した。何を言っても、きっと諭すように、それでいて煮え切らない表情でこちらを見るだろう。この苛立ちをぶつけても無駄だ。
「――着替えるから」
弟の横を通り抜け、自室へ向かう。彼は笑みを崩さないまま、少しだけ俯いたように見えた。その所作すべてが気持ち悪い。
「……アンタはそんなんじゃないでしょ」
メグルはつぶやき、振り返らなかった。
部屋着に着替え、ベッドに腰掛ける。
メグルはずっとずっと考えていた。未だに、アレに対してどう接すればいいか解らないからだ。
「直接聞くしかない、か……」
とても怖い選択だが、しかしそれ以上に解決する方法はないように思えた。
ただ、ふざけているのか。それにしては長すぎる。
なら、そっくりな違う人間ではないか。あれはずっと一緒に暮らしてきた弟の姿だ。
もし、中身がまるで違う人になっているのだとしたら。ありえない。なんだそれ。
では、アレは一体何なんだ、誰なんだ。
隣室――弟の部屋との壁をじっと眺め、メグルは腹をくくった。
と同時、自室の扉がノックされた。
「姉さん、話がある」
◆
ベッドに腰掛け、部屋に入ってきた弟をねめつける。メグルは不安な気持ちを覆い隠すように、無意識に枕を抱いた。きっと、ここが正念場。
弟は扉の近くで静かに立ったままだ。逃げるつもりはないが、何となく居心地は悪かった。
見つめる視線から一度逸らすも、進太郎はメグルの目を真っ直ぐ見据える。
「姉さん、改めて。僕の話を聞いて欲しい」
「何?」
「僕が起きてからずっと家族を戸惑わせているのは分かっている。特に、姉さんには」
だから、何? いくらでも袖にするような回答が思いついたけれど、メグルは静かに話を促した。
「1週間。1週間僕は昏睡状態だったと父さんから聞いた」
そうつぶやいて、弟は目を閉じた。まるで、受け入れがたい事実を噛みしめるように。一つ息を吐いて、彼はまだ吐き出すように答えた。
「――僕にとっては15年。あの昏睡の中で15年も別の人生を歩んでいた」
しばらく。
つい力が入って潰れていた枕を取り落しそうになった。
「……はあ?」
「信じられないのも無理はないよ。僕だってあっちの世界で起きた時もこっちの世界で起きた時も信じられなかった。実感がわかなかった」
「あっち?こっちの世界?」
「僕はどうやらこちらの世界に帰還したらしい。随分久しぶりで戸惑ったけど、まさかたった1週間した経過してないとは思わなかった」
「ちょ、ちょっと待って。待って、何言ってんのアンタ」
枕を膝の上に起き、メグルは目の前でおかしなことを言い続ける弟をじっと見た。
姿は弟の姿のまま。だが、中身に違和感しかなかった。さっきの言葉がその答えだとでも言うのか。
「15年っていや意味わからんし。変な夢見たってこと?」
「違う、違うんだよ姉さん。僕は本当に別の世界で15年暮らした。あの日変な世界に迷い込んで……そこで多分25歳まで」
「だから急に余所余所しくなって姉を見下すようになりましたって? そんなの信じろって? バカなの」
「……無茶苦茶な事を言っているのは分かる。分かってもらえないとも思ってる」
「――だから! その遠慮した言い方は何なんだよ!」
ぼす、と音を立てて弟の顔面に当たった枕が床に落下した。つい投げてしまった枕が無くなり、メグルはそこでやっと自分が緊張して手汗をかいていることに気付いた。どうでもいいことばかり気がつく。
「1週間昏睡して、今度は高熱出して……そしたら大人になってました? 意味分かんない。私を騙して何が楽しいの」
「………」
弟は顔にぶつけられた枕を見つめ、次いでメグルの顔を見た。
なぜそんな顔をするんだろう、とメグルはまた苛立つ。
「答えてよ!」
「……信じられないだろうけど本当のことなんだよ姉さん。
僕の中身、精神はもう元の……小学5年生の進太郎じゃない」
小学5年生の、ほんの2週間前も小学5年生だった姿のまま。目の前の弟は、進太郎は全くおかしなことしか言わなくなってしまった。あの熱が原因だろうか。あの昏睡が原因だろうか。解らない。
解らないが、決定的に変わってしまったことだけは、ストンと理解できた。
だって。
「――って呼ばないでよ」
ポロポロと涙が溢れて頬を伝う。メグルは、自分が何故泣いているのかも分からなかった。
「姉さん?」
「姉さん姉さんってなんなの……私の知ってる弟は、シンタロは」
私の知っている弟はガサツで煩くて、姉のことなど呼び捨てにする。
「姉さんって呼ばないでよ……生意気にメグルって呼べよぉ……」
「……ごめん」
それでも彼は、姉さん、と続けた。やはり、彼はもう別人になってしまったのだ。姿だけしか同じところがない。
メグルは顔を覆って静かに泣いた。ぼんやりと昏い茜色の部屋には鳴き声だけが響く。二人の間に二度と埋まらない空隙が出来たことをメグルは実感した。歩み寄りは、きっともう無い。
その時だった。
『――シン様〜!』
場にそぐわない声が聞こえて、メグルはつい顔を上げて机の上のラジオを見る。点いていない。
『シン様!シン様〜!』
また聞こえて、メグルは泣くのも忘れて辺りを見回した。甲高い声、それでいて誰かを恋焦がれるような音色。
――というかシン様って?
ふと正面に立ち尽くしていた進太郎に目をやり、仰天した。目覚めてから張り付いたような柔和な笑みを浮かべるだけだったアイツは、目を見開いて驚いていた。そしてすごくすごく嬉しそうであった。
「まさかイザナギか…!?」
イザナギ?誰?
進太郎が呟くと同時、突如部屋が突風と光で荒れ狂った。
「な、何が起こって――!?」
「姉さん!伏せて――!」
2週間近く臥せっていたからか思うように身体を動かせないのだろう、進太郎はその場でしゃがみ込んだ。
「――!」メグルはとっさに進太郎に覆い被さった。固く守るように。
時間にして数十秒。
一際大きな風と光が吹くと、部屋の中央には見知らぬ少女が立っていた。部屋に生まれた風の名残りで彼女の長い髪はふわっと靡く。メグルは進太郎を抱きしめたまま呆然と彼女を眺めた。
プリント用紙や服が散乱する中、一糸まとわぬ姿の少女は、意志の強い瞳でコチラを見据えた。
「イザナギ、来たのか……」
腕の中の進太郎が少女に声を掛ける。知り合い…らしい。
名前を呼ばれた少女は一瞬だけ涙を堪えるように顔をしかめると、すぐさま花綻ぶような笑顔を見せた。そのあまりにも綺麗な笑顔と共に少女は
「お久しぶりです、シン様。私も逢いたかったですわ」
そう、応えた。