解答編①
書斎に着くとまず、緋村は意外なことを、彼女に依頼した。
「倉持さん。あの金庫に、鍵をかけてみてください」
彼がそう言った瞬間、誰かが息を呑むのがわかった。意味不明な要望に戸惑う者が大半を占める中、確かにいたのだ。驚愕した人物──おそらく犯人が。
「は、はい、わかりました」
オズオズと頷いた彼女は、言われるがまま金庫へ近付き、しゃがんで扉を閉じた。万座の注目を背負いながら、キーケースから取り出した鍵を挿し込む。
「い、いきますね」
緊張した面持ちで言い、彼女はそれを捻る。
カチリッと言う音が、静まり返った室内に響いた。
「ちゃんと鍵はかけられましたか? 念の為確認してみてください」
再び指示に従うが、問題なく施錠されていることは明らかだった。鉄の扉は少しも動じない。
「……いや、そら閉まるやろ。金庫の鍵なんやから。こんなことさせて、何の意味があるんや?」
「それがあるんです。とても重大な意味が」
彰さんの問いに答えた緋村は、続いて一家の主の方を向く。
「ては、忠雄さん。今度は金庫を開けてくださいませんか?」
「あ、ああ……」
息子と同じことを言いたげであったが、彼も実験に協力してくれた。
倉持さんと場所を入れ替わり、自身の鍵を取り出して鍵穴に挿す。生唾を呑み込んだ後、彼は右手を回した。
──直後、予想だにしなかった出来事が起こる。
「は?」
忠雄さんが、奇妙な声を発した。
かと思うと、彼は茫然と自らの手元を見下ろしたまま、何故かフリーズしてしまう。
「ど、どないしたの? あなた」
妻の声に応じる代わりに、彼はこちらを振り返り、
「どう言うことや。どうして──鍵が開かへんのや……!」
その言葉の意味を、僕は瞬時に呑み込めなかった。いや、他の人たちも同様だっただろう。
鍵が開かないだなんて。そんなこと、あり得ないはずだ。
倉持さんの持つ鍵で施錠することができたにもかかわらず、忠雄さんの鍵では解錠できないだなんて。
「……思ったとおりだ」
そう呟いたのは、この実験を言い出した本人だった。
会心の笑みを浮かべる緋村に、一同は不気味そうな視線を向ける。その中には、怯えた眼差しも混ざっていたかも知れない。
「お二人とも、ありがとうございます。これで確信を得ることができました」
「まさか、今ので犯人がわかったって言うんか?」
呻くような声で尋ねる誠二さんをまっすぐに見返して、彼は「ええ」と首肯した。
正直なところ、僕にはまだ少しも理解できていなかった。たった今行われた実験の結果が、いったいこの事件の謎に何を齎すと言うのか。
「……教えてください。誰が犯人なのか。そして、どうやってお金を盗んだのかを」
誰もが二の句を継げずにいる中、境木が久々に口を開いた。
「もちろん、初めからそのつもりさ。──いいですか、みなさん。たった今の実験により、まず犯人の用いたトリックが判明しました。それを説明する前に、今一度おさらいさせてください。
この金庫を開けるには、暗証番号を入力した上で、専用の鍵を使う必要があった。そして、鍵を管理しているのは忠雄さんと倉持さんのみ。片や暗証番号を知っているのは、忠雄さんと誠二さん、それから由美さんの三人でした。つまり、平時であれば一人で金庫を開け閉めできる人間は、この中で忠雄さんだけ、と言うことになります」
そうだ。だからこそ、謎だったのだ。犯人が金を盗み出した方法が。
「しかし、たった今不思議なことが起こりましたね? 倉持さんの鍵を使って施錠ることのできた扉が、忠雄さんの物では解錠られなかった。これが何を示すのか。──簡単なことです。お二人の持っている鍵は、実は全く別の物だったんだ」
そんな馬鹿な。
二人の鍵のうちどちらかが、いつの間にかすり替えられていたとでも言うのか?
「鍵、見せてもらってええですか?」
倉持さんに言われ、彼は我に返ったらしい。引き抜いた鍵をみなに見えるように掌に乗せる。倉持さんも同じように自身の鍵を取り出してみせたが、一見して違いはなかった。
「あの、見たところ同じ鍵のように思えるんですけど」
「それはそうでしょう。二つとも、ある意味では同じ鍵なのですから」
「どう言うことですか?」
「その鍵は、どちらも見た目は変わらない。それもそのはずで、二つとも、このお宅で使われていた金庫と同じ型の金庫の鍵なんです」
わかりそうでわからないことを言う。毎度のことながら、彼の解答編は非常に焦れったい。
「それじゃあ犯人は──この金庫と同じ型の金庫の鍵を用意して、私の鍵とすり替えたって言うんか?」
「前半は当たりです。確かに犯人は鍵のすり替えを行いました。しかし、それは忠雄さんの鍵に対してではありません。忠雄さんの鍵は昨日の朝最後に金庫を閉めてから出勤して以降、帰宅されるまでの間、ずっと鞄に入っていました。これではすり替えようがない。
また、誠二さんが鍵を開けた時点で金庫の中身が消えていた以上、必然的に犯行が成されたのはそれより前の時点──忠雄さんがまだ会社にいた時というかことになります。よって、忠雄さんが帰宅してから鍵が入れ替わった、と言う可能性も否定される」
「となると……主人の持っている鍵の方が本物で、偽物なんは」
「私の鍵ですか⁉︎」
由美さんの言葉を、倉持さんが継いだ。
緋村はやはり静かに首肯する。
「そうとしか考えられません。そして、ここで忘れてはいけないのは、今行った実験の結果です。倉持さんの鍵は実は偽物。にもかかわらず、そこにある金庫を閉めることができました。さて、この事実からどのような答えが導き出されるのか。こんな大仰な言い回しをする必要もありません。すり替えられていたのは、鍵だけではなかった。犯人は、同時に金庫その物を入れ替えていたんです」
──まさか。俄かには信じられなかった。
しかし、たった今目の前で起きたことに説明を付けるには、確かにそう考えるより他ない。
「倉持さんの持っている鍵は、そこにある偽物の金庫の鍵。だからこそ、倉持さんの鍵で閉じることのできたその金庫は、本物であるはずの忠雄さんの鍵では、開けることができなかった。これが、犯人が金庫の中身を持ち去った方法です」
「金庫ごとお金を盗んだってこと⁉︎」
由美さんが驚愕の声を発する。
なんてシンプルな犯行だろうか。奇想天外なトリックなんて、用いられていなかったのだ。初めに《えんとつそうじ》で緋村が口にしたとおり、犯人は至って単純な──しかしながら盲点を突いた──方法で、金を盗み出したのである。
「書斎のドア枠にいつの間にか傷ができていた、とのことですが、おそらく犯人が金庫を運び入れた際に、誤ってぶつけてしまったのでしょう。高さからして、金庫の側面の下側が接触したのだと思います」
あの傷は、本当にトリックの痕跡だったのか。
驚きの余韻が冷めきらぬうちに、緋村は推理を進める。
「倉持さんの持っている鍵はそこにある偽物の金庫の鍵である。ここまではいいですね? では、必然的に犯人は『倉持さんの鍵をすり替えることができた人物』と言うことになります。それが可能だったのは、実はこの中でたった二人しかいない」
それは誰なのか──さして考えずとも、答えは明白だった。
「一人目は、当然鍵を管理していた倉持さん自身。そして、もう一人」
彼は家政婦に向けていた視線を、別の人物へと移す。
「事件が発覚した際、金庫を開けた誠二さんです。倉持さんから鍵を受け取ったあなたなら、その時密かに用意していた鍵とすり替えることができる」
名指しされた二人は、どちらも蒼褪めていた。まさか、あんな簡単な実験から、一気にここまで容疑者を絞ることができるなんて。おそらく、現在この場にいる人間の中でこの展開を予想できた者は、緋村以外にはいなかっただろう。
「それでは、犯人はお二人のうちどちらなのか……答えはすでに出ているに等しい」
「へえ、ホンマならすごいな。……聞かせてくれるか?」
彰さんは何故か挑むような眼差しを、素人探偵に向ける。緋村もそれを真っ向から受け止めた。
「もちろんです。──ところで誠二さん。若庭から、金庫を開ける際何か気になったことはなかったかと尋ねられた時、あなたはこう答えたそうですね?『いや、何も。いつもどおりやった』と」
「それがどうかしたんか?」
沈黙を続ける叔父に代わり、甥が尋ねた。
「これが証拠なんですよ。『いつもどおり』と言うことは、すなわち普段と同じようにダイヤルを回すことができたわけですよね? つまり、あの偽物の金庫には、本物と同じ暗証番号が設定されていたことになる。倉持さんが暗証番号を知らなかった以上、鍵をすり替える機会のあった二人のうち、これが可能だったのは、誠二さんだけ。つまり──あなたが金庫をすり替えた犯人と言うことです」
再び、関係者らの間に大きな衝撃が走る。
確かに、動かぬ証拠に違いない。誠二さんは何の反駁もせぬまま、万座の注目を浴びて俯いていた。
そんな彼に追い討ちをかけるが如く、
「もちろん、たとえ金庫の番号は違う物に設定されていた──あるいは初期設定のままだったとしても、誠二さんが犯人であることは揺るぎません。この場合、当然本物と同じ番号では金庫は開かないことになり、その時点で異変に気付いたはずです。しかし、誠二さんは『いつもどおり』だったと仰った。あなたが犯人でなければ、こんな発言は出て来ないでしょう」
決定的だ。金庫が入れ替わっていたことが発覚した時点で、勝敗は決していた。
「一つ訊いてもええか? 叔父さんが鍵を密かに入れ替えとったって言うけど、じゃあ本物の鍵はどこにしまってたんや? あの後すぐに、叔父さんが金を盗んでへんか、パン一になってもろて確認したけど、上着やズボンのポケットの中からは何も出て来んかったで? まさか、あの短時間でトランクスの中に放り込んだ、なんて言うんやないやろうな?」
「ええ。そんなコントのような真似をする必要はありません。ところで、みなさんはテレビか何かでコインが消えるマジックをご覧になったことはありますか? あれはパームと呼ばれる技術を使って、閉じた指の中にコッソリとコインをキープすることで、あたかも消えてしまったかのように見せかけているんです。──誠二さんがしたのは、これです。誠二さんは鍵を受け取った際、それを手の中に隠しつつ、偽物の鍵を使って金庫を開けた。もちろん、倉持さんに返却したのがその鍵です。そして、服を脱いで何も持っていないことを確認している間も、本物の鍵は手で握って隠していたのでしょう」
金庫の鍵は小さい物だから、さりげなく手で握って隠すことは十分可能だろう。それこそ、コインのように。
「犯行が成された時間は、言うまでもなく倉持さんがスーパーへ買い物に行っている間です。昨日はたまたまお茶請けを切らしていることに気付いた彼女が自分から出かけて行きましたが、そう言った用事がなければ、何かお使いを頼むなどして追い払うつもりだったのでしょう」
「なるほど、こいつが犯人やと言うことはよくわかった」腕組みをした忠雄さんは、自らの弟の姿を眇める。「しかし、この金庫は一人で運べるほど軽い物やない。それなのにすり替えられたってことは……もしかしなくても、共犯者がおるってことにならんか?」
そうだ。重要なことを失念していた。金庫は二人がかりでなければ運ぶことはできない。つまり、犯人はもう一人いるはずなのだ。
「仰るとおりです。では、その共犯者は誰なのか。該当する人間は、みなさんの中でたった一人しかいません」
「誰なんや? それは」
「結論から言います。もう一人の犯人は」
射抜くようなその視線の先にいたのは、彼だった。
「彰さんですね?」