問題編⑥
書斎に着くと、僕はまず忠雄さんに挨拶をした。彼は弟と同じような視線をこちらに注いでから、やや疲れたような声で、
「わざわざすまないね。全く無関係な人まで巻き込んでもうて」
暗に部外者が人の家の問題に関わるなと言っているようにも思えたが、そうだとしても文句は言えまい。
「まあ、せっかく来てくれたんや。ぜひとも犯人を突き止めてくれ」
「あ、それじゃあさっそくお訊きしたいことがあるんですが……昨日の朝、最後に金庫を開けた後、鍵はずっと持っていたんですよね?」
「ああ。私の手で金庫を閉めた後、キーケースにしまってそのまま出勤したよ。仕事中もずっと鞄に入れてあって、由美から金がなくなったと連絡を受けた時に確認したんやが、いつの間にか消えとるなんてこともなかった」
であれば、忠雄さんの管理している鍵が犯行に使われた可能性は、あり得ないか。
ちなみに、念の為見せてもらったところ、キーケースは倉持さんの物と同じ物だった。鍵の管理を任せるにあたり、彼が彼女に与えたのだと言う。
続いて、僕は問題の金庫に目を向ける。話に聞いていたとおり個人宅に置くにはかなり大きく、頑丈そうだ。
「本格的な金庫ですね。やはり、それなりに値が張る物なのでしょうか?」
「まあ、割としたな。確か、十万くらいやったはずや。ネットで買うたんやけど、ちゃんとした会社のやし防犯性は申し分ないはずやった。それなのに、このザマや」
忌々しそうに、空っぽの鉄の箱を顎で指す。
「ちなみに、何て言う名前の会社なんですか?」
僕は一言断ってからスマートフォンを取り出し、彼に教えられた社名で検索してみた。するとすぐに目的のホームページが見付かる。商品の一覧の中に、同じ金庫があったが、たった今聞いたのと近い値段が表記されていた。
「近くで見てみても?」
許可を得てから、金庫やその周囲を観察する。話に聞いていたとおり、無理矢理こじ開けられたような形跡はなく、金庫には小さな傷一つ見当たらない。目視だけではなく直接中を触って確認してみたが、やはり異常はなさそうだ。
続いて金庫の下の床を覗き込む。しかし、こちらにも何もない。埃や砂のようなごくわずかなゴミが認められた程度だ。
「それより、どうだね? 私の家族にもすでに話を聴いて来たようやが、何かわかりそうかな?」
僕は立ち上がり、「いえ、まだ何とも……」
残念ながら、現時点では期待に応えられそうにない。
「そうか……。ま、こう言うのはプロに任ろってことやな。どの道、今日の夜には警察に届け出るつもりやったし。実の家族と言えど、人の金を盗んだんやから、法の裁きを受けて然るべきや」
「そう言えば、ずっと疑問だったんですけど、どうして家族のお金を纏めて管理しようとお考えになったのですか? その、聞くところによると、大半がサキエさんのお金だったそうですが……」
「あいつら、そんな話まで他所様にしとるのか。まったく、恥晒し共め」
ほとんど境木から聞いたようなものだが。
「そんなもの、他の者に管理を任せられないからに決まっとる。ほっとけばお袋の金を食い潰しかねん連中が、三人ほどおるからな。それに、何も無理矢理金を金を取り上げたわけやない。お袋かて、合意の上やった。まあ、このままやと由美や誠二たちに使い込まれてまうことが、お袋にもわかっとんたんやろ」
サキエさんも納得済みだったらしい。そう言えば、境木の話の中でも大して反対していなかったと、彰さんが口にしていたか。
「あいつらが金に困っとるのはわかっていたが、何もまるごと盗まんでもええのに」
「金庫の中には、やはりそれなりの金額がしまわれていたんですか?」
「ああ。具体的な額は答えかねるがな。一個人の家に置いとくような金やなかった、とだけ言っとくわ」
「そのことは、みなさんもご存知だったんですよね?」
「やろうな。金を貸したり返してもらったりするうちに、察しは付いたやろ。まあ、婆さんだけは別やが」
「サキエさんには、金額を教えてなかったんですか?」
忠雄さんは当然のように首肯する。少し意外な気がした。金庫や通帳の中の金の大半は、サキエさんから預かった物だと聞いていたものだから。
「それは、どうして」
「詐欺対策や。ほら、最近アポ電って言うのが流行っとるやろ? 事前に電話をしてその家に金があるかどうか確認してから、後で詐欺を働いたり、強盗に押し入ったりするって言う、あれや。せやから、怪しげな電話がかかって来た時に、婆さんがウッカリ口を滑らさんよう、うちにどれだけの金があるんかは伝えてへんのや」
ちなみに、通帳の隠し場所も家族の誰にも伝えていないと言う。相当防犯意識が高かったようだが、それでも金は消えてしまった。だからこそ、余計にショックが大きいのだろう。「なのに、なんでこんなことになってしもたんやろなぁ」と、肩を落としてボヤく。
「境木くんも、すまんな。おかしなことに巻き込んでもうて。昨日も夕飯に誘ってたみたいやが、結局食べていけんかったやろ?」
「僕は気にしていないです。……それより、僕のことは疑わないのですか?」
「まあな。少なくとも、君が直接金庫から金を盗むんは不可能やしな。鍵も使えへんし、暗証番号も知らんかったわけやろ? やっぱり、犯人はうちの人間の中にいるんやと思うとる。犯行の機会があったのも、昨日の日中家にいた者だけやからな」
確かに、境木は事件が発覚する少し前に家を訪れたのだから、金を盗み出す機会はない。そもそも、境木がそんなことをする人間ではないことは、僕もよく知っていた。
「……ホンマを言うと、初めのうちは──店子とは言え──よう知らん学生を家に上げるのは、抵抗があったんや。けど、君が悪い人間でないことはすぐにわかったし、何より趣味が合う。疑うどころか、これかも婆さんの相手をしてもらいたいくらいや」
境木は思っていた以上に、次村家の人間の信頼を得ていたらしい。家族さえ信用していないと取れるほど金の管理を徹底していた割に、「趣味が合う」と言うだけで歓迎すると言うのも、おかしな話だが。
「もちろんです。僕もサキエさんとお話しするのは楽しいので」
彼がニコリともせずに──しかし、境木の場合心からの言葉なのだろう──そう答えた時、呼び鈴が鳴った。来客のようだ。
そんなことを考えつつ、再び気になったことを尋ねる。
「朝からずっとこの部屋にいらしたそうですけど、何か見つかりましたか?」
「いや。残念やが、特に何の痕跡も見当たらんな。まあ、強いて言えばアレか」
忠雄さんはドアの方を顎で指す。
「いつの間に付いたんか知らんけど、ドア枠のところに傷ができとったんや。何かをぶつけたみたいやったな」
「はあ、傷ですか……」
あまり事件とは関係のなさそうな情報である。落胆しつつも、念の為見ておくことにした。
ドア枠に近付いてみると、確かに左側、だいたい膝の高さくらいの位置に、何か固い物がぶつかったような傷跡が残っていた。もしこれが何らかのトリックを用いた痕跡だとして、それがいったいどのような物なのか──全く想像が付かない。
やはり気にするだけ無駄か。そう決め付けてそこから離れたところで、こちらに近付いて来る足音が聞こえて来る。
ほどなくして、戸口に倉持さんが現れた。
「ああ、やっぱりここにいらしたんですね。ちょうど今、お客様がお見えになったんですけど、どうも境木さんたちのお友達みたいで……
お友達? そう言われて思い当たるのは、たった一人だけだった。
僕と境木は顔を見合わせる。──あの皮肉屋がこの家に来ているのか? あれだけ面倒ごとにかかずらうのを嫌がっていたのに、どう言う風の吹き回しだ?
「彼は、今どちらに?」
「えっと、取り敢えず客間にお連れしましたけど……」
ひとまず僕たちもそちらへ向かうことにした。もしかしたら、あいつならこの事件の謎を解くことができるかも知れないと言う、期待を抱いて。
※
客間の前まで来ると、案の定中から緋村の声が聞こえた。何やら談笑しているらしい。意外と打ち解けるのが早いなと妙な感心を抱きつつ、倉持さんが開けた襖から中へ入った。
「よお」
胡座を掻いたまま、こちらを振り返った緋村が片手を挙げる。室内にいたのは彼とサキエさんのみだった。
「よお、じゃないだろ。散々文句を言っていたクセに、結局来たのか? と言うか、よく家の場所がわかったな」
「境木の下宿の道向こうにある大きな家なんて、間違えようがないだろ。表札も出ていたしな。──そんなことより、首尾はどうだ? こちらのお宅の人たちに、色々話を聴いたんだろ?」
「上々──とは言い難いかな」
「いいから、取り敢えず聞かせてみろよ」
言われるがままに、僕はこれまでの事情聴取で得た証言を、メモを参考に可能な限り正確に伝えた。その間、境木は僕の説明を捕捉する役を務めてくれ、サキエさんと倉持さんは物珍しげに僕たちのやり取りを見守っていた。
「なるほどね。だいたい知りたいことはわかったよ。そろそろ聴き込みにも慣れて来たんじゃないか?」
「そんな暢気なこと言ってる場合か。犯人はおろか、金庫の中身を盗んだトリックさえ、見当も付かないのに」
「そうか? 推理に必要な材料は、粗方出揃っているように思うけどな」
「なに? それじゃあ、君はもう真相がわかったって言うのか?」
「まあ、これじゃねえかなって想像していることはある。ただ、残念なことに決定的な証拠はない。あと少しで、完成するはずなんだが……」
ついさっき着いたばかりだと言うのに、もうそんな段階にまで到達しているのか。いや、トリックに関しては、初めに《えんとつそうじ》で話を聞いた段階で、思い付いていたらしい節がある。そちらこそ、安楽椅子探偵がずいぶんと板に付いて来たではないか。
「なんだか、刑事ドラマでも観てるみたいですね。緋村さんなんか、まんま敏腕刑事のよう」
サキエさんが無邪気な感想を述べる。最初に聴き込みをした時にも感じたのだが、少々緊張感がなさすぎるのでは?
「よくご覧になられるのですか?」
「ええ。ロクに趣味もないので、最近はテレビを観ることと、境木さんに相手してもらうことだけが楽しみで。境木さん、色んな話を聞かせてくれはるんですよ。大学での出来事やら被災地にボランティアへ行った時の体験とか。テレビで観とるだけやとわからんことを教えてもらえて、とってもためになりました。特に、今年は大忙しやったみたいですね」
二〇一八年は災害が頻発した年だった。六月の大阪北部地震に始まり、平成三十年七月豪雨──俗に言う西日本豪雨──に北海道胆振東部地震、そして度重なる台風の接近及び上陸。平成最後の一年は、間違いなく天災の年だったと言えよう。
「私も、もう少し若くて体が丈夫なら、誰かの助けになれたのかも知れませんが……生憎もうヨボヨボですからね。できることは、限られとるみたいです」
幽かに笑ってみせる彼女の姿を、緋村も同じように薄く笑みを浮かべながら──しかし無機的な眼差しを向け、観察していた。こんなやり取りに何の意味があるのだろう? 僕にはわからない。
「雑談も結構だけど、事件の話を聴かなくていいのか? あと少しで推理が完成しそうなんだろ?」
たまらず緋村にせっつく。
「ああ。幾つか欠けたピースを見付けることができればな」
気取った言い回しをしている余裕があるのなら、早く捜査を始めろよ。そんな風に呆れていると、そこで何やら家の中が騒がしいことに気付いた。
玄関のある方から、忠雄さんたちと思われる男性の声と、女性の声が聞こえて来る。何かあったのだろうか?
そう思っていると、今度は慌ただしくこちらに向かって来る足音がし、直後、振り向いた先の襖が開かれた。
そこに現れたのは、血相を変えた彰さんだった。
「……おい、意外な展開やで」
新たに増えた青年の姿をを一瞥しつつ、彼は出し抜けにそう言った。
「どうかされたんですか?」
倉持さんが、恐々と尋ねる。
「戻って来たんや──金が」