問題編③
目的の部屋へ着くと、境木はさっそく本棚の中身を吟味しようとしたのだが、その日はなんとなく誠二たちの様子が気になり、彼らが金を引き出すのを見届けてから、借りて行く物を選ぶことにした。
金庫は書斎机の向こう側の壁を背に、大きな窓の下に置かれていた。それなりのサイズがあり、一個人宅に置くにはかなり無骨な代物である。もう少し金庫の存在を隠すべきなのではとも思ったが、おそらく重量があり尚且つ丈夫なことから、空き巣が入ったとしても持ち出すのは困難であると考え、剥き出しの状態にしているのだろう。
梓がキーケースから取り外した小さな鍵を受け取ると、誠二は慣れた手付きで金庫のダイヤルを回した。金庫を開けるには暗証番号を入力した上で、専用の鍵を使う必要があった。
そして、ここが少々特殊な点なのだが、この暗証番号を知っているのは、忠雄の他に、誠二と由美であるのに対し、鍵や持っているのは忠雄と梓のみである。つまり、一家の大黒柱である忠雄を除き、暗証番号と鍵は別々の人間にしか入力できない、あるいは扱えないようになっているのだ。
万が一番号がわかってしまったら申し訳ないので、境木はなるべく誠二の手元は見ないようにしていた。もっとも、そんなことをせずとも、どのみち体の陰になってハッキリと見えることはなかっただろうが。
ほどなくして、金庫の扉が開いた。
──直後、一瞬だけ凍り付いた誠二が、頓狂な声を発する。
「……は? ないやんけ」
いったい、何がないと言うのか。
「どうかなさったんですか?」
梓が尋ねると、彼は座ったまま猪首を捻って振り返る──その顔は、酷く蒼褪めていた。
「か、金の入った容れ物が、消えとるんや!」
まさか。彼の言葉が本当であるかを確かめるべく、家政婦と甥は立ち上がった誠二と場所を入れ替えた。境木も彼らの背中越しに、一緒になって金庫の中を覗き込む。
果たせるかな、そこにはあるべき物か見当たらなかった。
それどころか、全く何も入っていない、完全に空っぽの状態で、鉄の箱は口を開けていた。
「ち、ちょっとどいてくれ、叔父さん」
甥は立ち上がった叔父と場所を入れ替えた。続いて境木と梓も彼の背中越しに、一緒になって金庫の中を覗き込む。
しかし何度見ても、金など影も形もない。
境木は梓たちがそうしたように、様々な角度から金庫の中を覗き回してみた。しかし、天井に何も張り付いていないことは一目瞭然だし、よくある手品のように鏡が仕掛けられているなどと言うことはなかった。それどころか、二重底のような細工の類いは、一切見当たらない。金庫の中身は、確かにそこから持ち出されていたのだ。
「嘘やろ、誰かが盗んだってことか⁉︎」
「でも、忠雄さん以外の人は、一人では金庫を開けられませんよね? ……かと言って、忠雄さんが誰にも話さんとお金を持ち出すとは、思えませんし」
「となると、後は……」
彰は自らの叔父に視線を向ける。
「叔父さん、嘘吐いとるんとちゃうか? ホンマはさっき自分で鍵を開けてから、素早く金をくすねて隠したんや」
「なわけあるか! 俺が鍵を受け取ってから、そんなことをする暇があったか? だいいち、お前らが近くにおったんや。どんなに早業やったとしても、金の入ったケースを隠したりしたら、すぐにバレてまうやろ!」
確かに、誠二が梓から鍵を受け取ってから、声を漏らすまでの間は、ごくわずかな時間だった。そこまでのことをする余裕があったとは思えない。
また、彼の手元は見えなかったとは言え、三人もの人間が近距離から見守っていたのだ。不審な動きがあれば、簡単にわかったはずであるが、境木の目にはそうした様子は認められなかった。梓たちも同様であったらしい。
しかし、それでも彰は納得していないようで、
「わからんで? 俺らが気付かんほどの早業やったんかも知れん」
「そんなに言うんやったら、金を隠しとるかどうか、確かめてみたらええ。なんならここで、服全部脱いでみせたろか?」
梓の目がある以上、さすがにそこまでするわけはない──と思ったのだが、誠二に対する彼の疑いは、予想以上に強かったらしい。
「言うたからな? 倉持さん、ちょっと外に出とってくれ。──それと、せっかくやから、ついでに婆ちゃんたちにこのことを報せて来てや」
「わ、わかりました」
すぐさま部屋を出て行きかけた彼女だったが、すぐに急ブレーキし、
「あ、そうや。誠二さん、一応鍵を返してもらえますか?」
「ああ、せやったな。すまんすまん」
鍵を受けった彼女は、どうしたわけかそれをジイッと見つめる。かと思うと、「ちょっと、すみません」と言い、境木たちの間に割って入るようにして金庫に近付くと、徐にその扉を閉じ、鍵を挿し込んだ。
梓がそれを捻ると、確かに施錠されたことを示す音が聞こえた。ついでに彼女は扉を引いたり押したりしていたが、やはりビクともしない。
「……倉持さん、もしかして俺が偽物を返したと思ったんか?」
「ごめんなさい、一応確認してみた方がええかなって」
気恥ずかしそうにえくぼを拵える彼女に、「取り敢えず、鍵開けといてくれ。親父が帰って来たら見せるから」
彰が指示をする。言われたとおりにした後、改めて彼女は書斎から退室した。
そして、彼女が廊下に消えると誠二は宣言どおり──呆れたことに本当に──服を脱いでみせた。さすがに肌着やトランクスまではそのままだったが、どのみちその下に何かを隠していれば、形が浮いてわかっただろう。
とにかく誠二はジャケットやトレーナー、ズボンなどを振ったり、ポケットの内側を見せたりしたが、多少埃や糸屑が出て来ただけだった。彰に言われ境木も服の中を改めるのを手伝ったのであるが、結果は変わらず。
次村家の金庫に保管されていた現金は、忽然と姿を消してしまったのだ。
その後一時間弱ほどで忠雄が帰宅し、一家の主に判断が委ねられることになる。すなわち、警察に届け出るか否か、だ。
すでに電話で事件のことを聞いていた忠雄は、コートを脱ぐこともせずにまっさきに書斎へやって来て、自ら金庫の中に何もないことを確かめる。それから彼は──用事があると言っていたにもかかわらず帰宅を許されなかった誠二を含めた──一同を見回すと、
「ちょっとここで待っとれよ」
唸るような低い声で言い、大股で書斎を出て行った。いったいどこへ向かったのか。その答えは、数分ほどで彼が戻って来た際に判明する。
「幸いなことに、通帳は無事やったわ」
苦虫を噛み潰したような表情で、彼は告げた。どうやら、通帳と現金は別々の場所で管理していたらしい。
「まさか、知らん間に泥棒に入られた、なんてことはないやろな」
「それはないと思うわ。私たちもさっき家の中を見て回ったけど、誰かが入って来たような形跡はどこにもなかったし、金庫にもおかしなところはなかったんやろ?」
由美の言うとおりだ。金庫の扉には、工具か何かで無理矢理こじ開けたり、何か仕掛けが施したりした形跡は、見受けられなかった。
「なら、金を盗んだんは、うちの人間の誰かってことになるな。外からの侵入者がなかった以上、お前らにしか犯行は不可能やったわけや」
「私たちを疑うてるん?」
「当たり前やろ! 特にお前ら三人には動機がある。日頃の行いを考えれば、疑われて当然やろが!」
忠雄は妻を一喝する。相当トサカに来ている様子だったが、それも無理からぬことか。次村家の人々は口を噤むしかなかった。
四角い顔を紅潮させた彼は、怒気の滲む声音で続ける。
「誰がやったのか知らんが、今ならまだ許してやる。正直に白状しろ! そしてさっさと俺の金を返せ!」
忠雄が声を荒げると、その息子はそっぽを向き、
「ほとんど婆ちゃんのやけどな」
「そんなことはどうだってええ。とにかく、この中に犯人がおるのはわかっとる。今すぐ警察に届け出ても構わんが、俺も身内の恥を晒すような真似はしたない。……そうやな、明日の夜まで待ってやろう。それまでに誰も名乗り出なかったら通報するからな。ええな?」
あまりの剣幕に、誰も異を唱えられる者はいなかった。
それから念の為、全員で書斎の中を隈なく探し回ったのだが、結果は空振りに終わる。境木は相伴に預かるのを辞退し──さすがにこの険悪な空気の中、食卓に加わる気にはなれなかった──、帰宅を許された誠二と共に、次村家を後にした。