8. 今も昔も1
ジルは残っていたシーツを裂いてロープ状にする。
「積もる話はあとでしようね。今はここから脱出しないと私もルーの身体も丸焦げだ」
ジルは広い背中でルイの身体を背負い、ずれ落ちないように固定した。
欄干に括りつけていたカーテンとシーツのロープを掴むと、壁を蹴って手際よく降りていく。
ルイは自分がどうすればいいのか分からず戸惑ったが、ジルと同じようにロープを使ってするすると降りた。
場所は屋敷の裏側で、数十メートル先へ進むと森が広がっている。
「昔みたいに風を操ることもできるけど、今はルーをこちらに留める呪術を発動してるから力が残ってないんだ。さて、まずは森へ行こう」
苦笑しながら言うジルは、ルイの身体を背負い直すと森の中へと走って行く。森の中に入ると、丁度後ろからは騒がしい声が聞こえてきた。
振り返れば町の方から火事に気がついた住人や消防隊が屋敷に駆けつけている。屋敷は激しく燃えてしまっていて、今から消火にあたっても二次被害を防ぐ程度だろう。
ルイは前を向き直ると、速度を緩めずに走り続けるジルの背中についていった。
ジルが漸く足を止めたのは森の中にある原っぱだった。名もなき小さな野花が咲き、真ん中には一本の大木が厳かに佇んでいる。ジルはその木陰に入ると紐を解いてルイの身体を労わるように優しく草の上に寝かせた。
人心地ついたのか大きく息を吐く彼を見て、ルイは質問を投げかけた。
「ジル。私には分からないことだらけだ。まず、なんで十年前に自分が男だと訂正してくれなかったんだ?」
「訂正と言われても。私は男の服を着ていたし、態度だって自分で言うのもなんだけど紳士的だったと思うよ。お風呂の時におばさんがルーに入るなって注意していたから、てっきり私が男だと分かっていると思ってた」
ルイは言葉を詰まらせる。
それもそうだ。ジルはいつも紳士的で優しかった。勝手に彼を女だと勘違いしたのは自分だとルイは納得しようとする。が、すぐに頭の中で次の疑問が湧いた。
「それなら、どうしてさっきまで女の姿をしていたんだい?」
「伯爵が迎えにきた日、ルーは私のことが嫌いと言った。だからジルではない姿になれば、男でなく女ならばルーは気負うことはないだろうし、ずっと側にいられると思った。だから女として生きられるように淑女の教養も身につけた」
ルイはジルの発言に絶句した。
確かにジルがジェーンとして、女としての所作は完璧だった。その上呪術師としての知識も学んでいたのだから一体どれほどの努力と苦労を重ねてきたのだろう。ルイには想像がつかない。
いずれにせよ、側にいるために女の姿になろうとするほど、ジルの心を歪めてしまったのは自分のせいだった。
(性別を偽って生きることに苦しんできたのに、それをジルに強要させてしまった)
自責の念に駆られたルイは眉根を寄せる。
「ごめん、ジル。私、ごめんなさい。ジルのお風呂について行ったら母さんに女の子だからって止められて。私はてっきり、君が女の子だという意味で捉えていたから……」
「うん。そうだったね。昨日話を聞いてやっと分かった。ルーは私のことを女だと勘違いしていた。……あの時のあれはね、おばさんなりの配慮だったんだよ」
「配慮?」
「おばさんがルーを男として偽らせていたのは厳しい上流階級の社会で生き抜くための手段。だけど本当のルーは女の子だし、当時の私は浮浪児で上流階級の社会と関わりはない。だからおばさんは咄嗟に君を女の子として扱った。でも、私は会ったときからルーが女の子だって気づいてた」
「えっ?」
ルイは聞き咎めた。
(そんなはずはない。男になるために必死に思考や振る舞いに気をつけてきた私が失態を犯すなんてあり得ない!)
胡乱な瞳で見れば、ジルは困った表情を浮かべて肩を竦める。
「だって、ルーは男にするには勿体ないくらいとっても可愛いから」
「は?」
答えになっていない答えに加え、可愛いなどと言う耳馴染みのない単語を聞かされてルイは面食らった。
ジルはその様子を見て楽しげに笑う。
「男の子の姿をしているのは何か事情があるんだって察してた。だけどね、君を男扱いなんてできなかった」
「どうして?」
「だって町へ行くと毎回女の子のドレスや可愛い小物を羨ましそうに眺めているんだもの。その姿が不憫で仕方なかった」
ルイの頬はたちまち真っ赤になった。密かに女の子たちを観察していたことがバレていてとは。今更ながらとても恥ずかしい。
「だから私は目一杯、女の子扱いしようと思ったんだ。なのにいつからか急に避けられて口も聞いてくれなくなって……とても悲しかった」
当時のことを振り返るジルはしゅんとする。その姿はまるで捨てられた子犬のように悲しげで、ルイは居たたまれない気持ちになった。
「あの時は本当にごめん。私はジルが女の子だと思っていたから。だから自分には変わった趣味があるんだとひどく悩んでた。どうしたらいいか分からなくて距離を置いたんだ」
「変わった趣味?」
「だってそうだろう? 女の子と認識していたジルをどうしようもなく好きになってしまったんだから。日に日に気持ちが抑えられなくて避けるしかなかった……て、あっ」
言い終わった後で慌てて口を噤んだが遅かった。
ジルは相好を崩し、これまでにないほど嬉しそうだ。
「ルー、私のことが好きなんだね」
「うっ」
「日を追うごとに、気持ちが抑えられなくなるくらい、私を好きになってくれたの?」
「っ~!!」
改めて本人から言葉にされると死ぬほど恥ずかしく、素直に首を縦に振れない。
ルイはくるりと背を向けて真っ赤になった顔を隠した。が、揶揄い混じりにジルに顔を覗き込まれてしまう。
昔も何かにつけてよく揶揄われたような気がする。それが何のことだったか思い出そうとしていると、彼の温かな両手に頬が包み込まれる。
(まただ)
ルイは彼の体温を感じながら思う。
「どうして私はジルに触れないのに、ジルからは私に触れられるんだい?」
「これはあなたの魂と身体が再び強い糸で結ばれようとしている証拠だよ。あなたがこちらに還りたいと思えば、それだけ糸は太く、強く、丈夫になり、私はあなたに触れられる。ねえ、ルー。私はあなたをルイゼにするために着々と手はずを整えてきたんだ。フェリントン伯爵の言いつけも守っているし、リンドグレーン子爵とも取引をした。あなたと一緒にいられるならどんな手段も厭わない。だから……」
――こっちへ還ってきて。
ジルは切望と懇願が入り交じった眼差しでルイを見つめた。