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沙都子さんはサトルのがお上手

作者: 幸田願叶

 

 隣の席の沙都子(さとこ)さんはこの学校では知らない人はいないというほどの有名人だ。


 容姿端麗、成績優秀。文字通り才色兼備な女性。長く艶めく黒髪ときっちりと揃えられた前髪の下の大きな瞳、バランスの取れたプロポーションと、ささやかな胸が男子生徒たちを何人も虜にしている。これは断じて私見ではなく、共通認識なので女性の皆さんは罵倒しないでもらいたい。ちなみにスレンダー美女が好みなもので、胸が惜しいよなぁとか影で言っている奴らには聞くたびにヘッドロックをかましている。沙都子さんは決して貧乳ではない! ささやかなお胸の持ち主なんだよ! そこは間違えてはならないぞ!


 閑話休題。

 しかし沙都子さんの凄いところはモテるのにもかかわらず、女子生徒に嫌われていないことだ。

 人当たりが良く、誰にでも平等に接する沙都子さんは頼りになる同性として人気とくれば学校内の有名人になるのも無理はない。


 そしてそんな沙都子さんの隣に座るラッキーボーイである俺、岸崎俊(きしさきしゅん)は今日も今日とて沙都子さんの観察をしていた。


 いや、変態くさいとか何ほざいてんだこの野郎とか思う奴もいるかもしれないがちょっと待ってほしい。

 沙都子さんを観察することにもちゃんとした理由があるのだ。決して沙都子さんの顔に見惚れて話しが続かないとか、折角沙都子さんが話しかけてきてくれたのにその時に向けられた笑顔に思考が停止したとかそんなことはないのだ。ただ単に不思議に思ったことを調べるためにその対象を観察することなど普通のことだ。そう、授業中に先生に怒られて立たされても幼気な幼稚園児に不審者だと指をさされても決して、決して変態でも不審者でもないのだ。


 いやはや何故だか言い訳めいたことを言ってしまったがしかし。そう、観察する理由の話だった。

 沙都子さんを観察する理由はただ1つ、『沙都子さんはサトリではないか』という疑問の真相を確かめるためだ。あるいは彼女の秘密を暴くためといえる。


 おっと、勘違いしないでもらいたいが別に沙都子さんのことを本気で妖怪サトリだと思っているわけではない。この疑問はあくまで沙都子さんがサトルのが上手なものだから俺が勝手に考えていただけだ。日本妖怪の一種であるわけのわからない化け物と一緒になどできるはずもない。

 では、何故サトリではないかと考えたかというと『沙都子さんは覚るのが上手い』のだ。


 例えばある朝、登校してきた沙都子さんは俺の斜め前の席に座っていた女子生徒、江口に向かって開口一番言った。


「江口さん、もしかして体調が悪いですか」


 それに江口は驚きながらも肯定した。どうやら朝からなんだか頭が重くて体も怠かったらしい。けれどもその日は定期試験があったために我慢していたのだと説明した江口に沙都子さんは白くきめ細やかな手を彼女の額に当てて困ったように言った。


「凄い熱いですよ。保健室に行きましょう」


 それでも渋る江口にそれでも沙都子さんは首を横に振った。


「いいえ、確かに試験も学生にとっては大事ですがそれも江口さんの体に比べてしまえば優先順位は下がります。何事も体と心からですよ」


 優しく、慈しむかのように言う沙都子さんも最終的には保健室に行った。翌日、江口が季節外れのインフルエンザにかかったと先生の口から聞いた時は驚いたものだ。他のクラスメイトたちは江口の様子に気づかなかったし、本人も大したことないと思っていたからな。あのまま無理して試験を受けていたら江口本人も辛かっただろうし、周りにも影響したかもしれない。朝の時点で家に帰って良かったものだ。


 これくらいならば優しくて気の利く女の子だと褒められて終わりかもしれないが、『沙都子さんはサトリか』と思う所以はそうした覚ったような行動の多さにある。行動1つ1つは何気ない気配りのように思えても、後から考えるとなぜそう動いたのかが理解できないのだ。


 その中でもよくあるのが沙都子さんの天気予報だ。

 沙都子さんの天気予報を俺が初めて見たのは昼間よく晴れた日のことだった。ちょうど文化祭の準備期間中でクラス全員が遅くまで教室に残って作業をするという日が続いていた頃だ。


 ふと、作業をしていた沙都子さんが手を止めて窓の外を見つめて言ったのだ。


「豪雨になりそうなので今日はこれくらいにした方が良さそうですね」と。


 けれども皆その日見た天気予報が快晴だったために「いや、まさかぁ」と言っていたところに轟く雷。

 近くに落ちた雷に驚いているとパチリと消える蛍光灯。

 停電だと騒ぐクラスメイトに沙都子さんは


「ね、言った通りでしょう?」


 とクスクス笑った。


 なかなかに絵面が怖いが、コテリと首を傾げながら笑う沙都子さんは可愛らしかった。スマホの光で照らされただけの状況でよく見えなかったのが悔やまれる程だ。


 だがこの後ちょくちょくと同じようなことがあったものだから、人間のことだけではなく天気までも覚るのかと俺は思った。

 沙都子さんは何を見ているのか、はたまた聞こえているのか。

 俺はわからなかったが、沙都子さんが他の人間とは少し違うのは観察していく中で理解した。


 ここまで聞いた皆さんは疑問に思うことだろう。お前、隣の席なのに観察しているだけかよと。


 まあそう言われても仕方がないほどに俺は入学してから約半年間沙都子さんと喋らなかった。ただ自分の席に座って沙都子さんの話を勝手に聞いていることはあったが。

 なにちょこっとだけ耳を傾けるだけだ。右耳に全神経を集中させるなんてそんな中年男性が隣に住む若い女性の生活音を盗み聞きするみたいなことはしない。そう、ただ机の上で手を組んでその上に顎を乗せ、前を見ていればいいだけだ。これなら沙都子さんの顔も見なくて済むし問題ない。前の席の木崎が「なにその無駄なキメ顔。美形のキメ顔なんて逆に怖いからやめてくんない?」とか言ってくることがあったが無視だ無視! 頭をぐりぐりするんじゃない! 右耳に集中できないでしょーが!


 だがしかし1度も沙都子さんと話したことがなかったわけではない。


 あれは忘れもしない入学式の日のことだ。式が終わり、それぞれのクラスに移動して自分の席に座った時、沙都子さんに話しかけられた。


 その時、俺の思考は停止した。視界に映った女神のせいで。

 正直言ってストライクもストライク。どストライクだった。何がだって? 言わせんな恥ずかしいだろ。


 だがそれも後から考えた時に気づいたことだ。この時はそこまで冷静になれていなかったのだ。だから頭で考えるよりも先にポロリと口から言葉が出てしまったのだ。


 友人である木崎に言わせれば今の俺もだいぶ頭が逝っちゃってるらしいが、俺は正常だ。正常な心でも美しい女神に見えるのだからやはり沙都子さんは凄い。


 けれどもやはり一言目にあれはなかった。

 俺は「はじめまして」と挨拶した沙都子さんにこう言ったのだ。


「天使か天女かはたまた女神か……」


 本当に思ったことを言っただけだが、初対面でこれはない。それは俺もわかるし、自分が言われたら引く。思いっきり、心の中でドン引くだろう。


 実際に俺は「私のアダムになって! ロミオでもいいわ!」と言われたことがある。それ結局離婚と死に至るが良いのかよ、と突っ込みたかったが丁重にお断りさせて頂いた。修羅場はノーセンキューなので。


「くっ、なんだあの新入生たちは!? データ収集不足だったか!」

「あそこだけ妙にキラキラしてるぞ。顔が! 途轍もなく良い! 眩しい、眩しすぎるぞ!」

「これは新入生の美男美女特集をくむべきでは?」

「ふむ、考える余地はあるな」

「待て、部長に連絡したら『許可してやる。好きにやれ。だがその可愛子ちゃんの写真を撮ってこい。これは部長命令だ』とのお達しだ」

「御意!」

「御意にござる」

「畏まり」


 などと廊下で言っていた新聞部の先輩たちのことなど沙都子さんに見惚れていた俺は目に入ってなかったのだが、翌月の学内新聞には『特集! 1年生美男美女ランキング』なるものが発刊されていた。勿論美女部門で一位に輝いたのは沙都子さんだ。


 俺は3部ほど新聞のコピーをもらい部屋に保管している。沙都子さんのページしか見ていないので他の人のところの記事は目を通しすらしていない。そのためよくわからないが他のクラスの連中が廊下から覗いてたりしたので随分と盛り上がっていたらしい。

 まあ沙都子さんを眺める男子たちが何故だか俺に厳しい視線を寄越してきたのが鬱陶しくはあったが。どうせ沙都子さんの隣の席であるこのラッキーボーイを羨んでいたのだろう。


 だが面倒くさがりの担任のせいで変わることのなかった席で学校生活を送って約半年。俺はできればもう少し離れていたいなと思うことが多くなっていた。

 だから初めての席替えの時にまた沙都子さんの隣を引き当てた時には驚愕したし、変わって欲しいと言ってきた男にそのくじを譲ってしまった。


 けれども交換した席の隣には沙都子さんの姿があった。

 なんでやねん、と俺が疑問に思っていると沙都子さんは俺に向かって微笑んだ。眩しくて目が潰れそうになったが男の意地でなんとか耐えた。がしかしそれも長くは続かなかった。


「黒板が見えないと坂口さんがおっしゃってたので、くじを交換したんですよ」

「……ああ、坂口は背が小さいからな」


 おそらく前に座る奴の背で黒板が見えなかったのだろう。今、坂口は俺と同じ列の最前列に座っている。

 成る程、と理解した俺に沙都子さんはまだ話を切り上げないらしい。視線が俺から離れない。もう既にこの時点で大分やばかったのだが、女神相手に無視するわけにもいくまい。


「……何だ?」

「岸崎くんは私が隣で嫌ですか?」


 いえ、全く。ただ自分の心臓が破裂するのを必死になってどうにかするのが疲れるだけで沙都子さんが隣の席であることに不満などない。

 そう、心の中で思うがそれだけだ。

 働かない俺の表情筋はその時も仕事を放棄した。

 いつもこうなのだ。内面ではそれなりに愉快な男なのにそれが外に出ないから他人にはどこかよそよそしくされるし、自分の印象が悪いこともわかっている。


 けれどもこれはもうどうしようもできないのだ。どんなに心が動かされようと俺の表情は他人に見えない。

 それが自分のことを見てくれないように感じて、誰も本当の自分を知らないのだと自棄になった頃もあった。それも性格的に長くは続かず、すぐに開き直ったのだが。

 そうでなければ今頃俺は学校に通わずに家に引きこもっていただろうし、人間不信になっていてもおかしくなかった。その点ではこの性格で良かったと言えるのかもしれない。時々内と外とのギャップに自分自身が疲れることがあるが仕方がない。

 それ程までに俺の表情は動かないのだ。


 そんな風に俺が1人シリアス風なモノローグを心の中で繰り広げている内に教室は何故か騒めいていた。


「ふむふむ、席替えしても隣同士とは1の3の美男美女コンビは仲が良いですな」

「然り然り。これはあれですかね? 席替え特集でもくみますか? 」

「そうですな。見出しは『気になるあの子の隣の席になりたい! ドキドキ初めての席替え』とかどうですか?」

「よいかと」

「早速部長に連絡したのですが、『男はいらん。沙都子ちゃんだけにしろ』とのお達しです」

「それはいくら部長でも聞けないですね。我が1の3の美形コンビは2人揃うからこそより絵になるし、良いネタになるのです。むしろ覚王地(かくおうち)氏の隣の席争奪戦に敗北した者たちにインタビューするのはどうか」

「それは名案」

「然り」

「然り然り。ではそのように」


 おいいいいい!? 何言ってんだこいつら!

 っていうか無駄にメガネ光らせた奴らだと思ったら新聞部の奴らじゃねぇかよ。しかもそれなりに声大きいもんだから新聞部のやつ曰く敗北した男子たちに追撃与えてんぞ。「くっ、この想いをあの子は知らなくていい! 知っても困らせちまうからな……」「お前っ……!」とかなんか茶番劇繰り広げてるけどテメエら新聞部にいいようにおもちゃにされるのがわかっとらんのか。


 そして約半年ですっかり新聞部に染まっているクラスメイトたちだが――――

 ……うん、触れないでおこう。奇人変人の集まりだと揶揄される新聞部部員のあの無駄に統率された団結力と謎の返事は触れてもいいことがない。突っ込んだが最後、新聞部の深淵を覗くことになる。それは絶対にしてはならないと知られている。この学校での常識である。もう1年にもそんな愚かなことをする奴はいない。

 触らぬ神に祟りなし、である。


 とかなんとか考えていた俺は気づいていなかったのだ。沙都子さんがじっと俺の顔を見つめていることに。

 そして数秒それを続けた後に俺に向かって満面の笑みを携えて言ったのだ。


「私も岸崎くんの隣になれて嬉しいです」


 一瞬、いや何分かは再び俺の思考は停止していたと思う。それ程までに驚いたし、なぜ俺が嬉しがっているとわかったのか。表情は動かないはずなのに。動いていないはずなのに。


 俺の気持ちを覚ってくれたのも嬉しかったが、それよりも――――


「私もって、言ってたよな……?」




 それからだ。俺が沙都子さんとよく話すようになって、実際に『沙都子さん』と呼ぶようになったのは。




 ――――そして俺たちが付き合うことになるまでそう時間はかからなかった。




 正直、会話するようになるまでの方が時間がかかってしまった。でも表情の動かない俺と、覚る沙都子さんは相性が良かったらしい。けれども恋人ととして一緒に過ごす時間が増えてくると俺の内にあった疑問はむくむくと膨れていくばかりだった。



『なんで俺の気持ちがわかるんだろう』

『無表情のまま言った笑えない冗談に笑ってくれるのはどうして?』

『じっと俺の顔を見つめるのには理由があるのだろうか』



 とうとう抑えられなくなった俺は直接沙都子さんに問いかけた。


「沙都子さんは人の心が読めるの?」


 突然の質問に、沙都子さんは驚いた様子もなく答えを口にした。


「それは秘密、です」


 口に指を当ててシーッとする沙都子さんは究極的に可愛かったが俺は悶える心を押し付けて更に問う。


「恋人にも秘密?」

「女は誰しも秘密の1つや2つは持っているものですよ、岸崎くん。好きな相手だからこそ秘密にしたいものです。女心というものは」


 そう言う沙都子さんの表情はいつもと変わらないように見えたがその声はなんだか元気が無くて少しだけ辛そうだった。俺は自分の感情を表すのは下手だが気持ちが理解できないわけでも共感できないわけでもない。寧ろこれまでずっと聞いてきた沙都子さんの声の表情を読み取るくらいできるのだ。


「そっか、わかった」

「……詳しく聞かないのね」

「うん。だって沙都子さんにどんな秘密があっても、俺が沙都子さんのことを大好きだってことは変わらないから」



 その俺の言葉に沙都子さんは驚いたように目を見開

いた。



 沙都子さんのその表情を見たのはそれが初めてだった。いつもならば俺の感情を覚っていた沙都子さんが驚いている。

 その事実に俺は心臓がきゅうっと締め付けられた気がした。



 沙都子さんの笑顔が好きだ。けれどもそれ以外の、例えばさっきのような驚いた顔や、怒った顔、泣いた顔を見たいというのは俺のわがままだろうか。でも彼女の感情を外に引き出せたら。もし、引き出したのが俺だったらどれだけ幸せなんだろうか。そんなことを思う。



「だから、俺からは聞かない。沙都子さんが話したくなったらちゃんと聞くけどね」

「……本当に真っ直ぐな人ね」

「俺が? まさかそんなはずはないよ。俺は表情筋が死滅しているけど、自分の欲に素直なだけで君が言うような真っ直ぐな男じゃないよ。だって口では聞かないって言ってるのに君のことをもっと知りたいし、全部を見せて欲しいとも思ってるんだから」

「随分と熱烈な告白ね」



 俺の告白に沙都子さんはころころと鈴が鳴るように笑う。



 それを見て俺は沙都子さんの膝に頭を乗せて空を見上げた。からりと晴れた雲ひとつない青空のキャンバスに彩る桃色。ヒラリヒラリと俺たちに降り注ぐそれは沙都子さんと出会ってから1年がもうすぐ経つということを示している。


 1年前はまさか沙都子さんが俺の彼女になるだなんて思いもしなかった。ただ彼女の姿を見ているだけでなんだか心が温かくなって、けれどもそれ以上に彼女のことを知りたいという欲が大きくなって。胸を掻き毟るほどに締め付けられた心を外に出せない自分に耐えられなくなって、沙都子さんのことを見れなくなってしまった時期もあった。

それが席替えの頃のことなのだが、あの時沙都子さんがくじを交換しなければ今のような関係にはなっていなかっただろうし、彼女の柔らかい太ももを堪能することもなかっただろう。



 そんなことを思っていたらペチリと顔を叩かれた。

 どうやら覚ったらしい。



「ごめん。つい気持ちよくて」

「はぁ、そうやって開き直れるのはあなたの長所でもありますがほどほどにして下さいね」

「ああ、わかった。でも気持ちがいいのは本当だぞ」

「はいはい」



 触れた手をそのままスライドさせて沙都子さんは俺の頭を撫でる。気持ちいい。



「どれだけ私のことが好きなんですか」

「言っただろう? 君の全てが知りたいって」

「……なら、続けなければですね」

「ん? 何のことだ」



 沙都子さんの手に自分の手を重ねながら彼女を見上げる。



「観察を、ですよ。入学した時から見ていたでしょう、岸崎くん」

「……ばれてーら」

「当たり前です」



 そりゃそうだ。俺の心がわかるならばそれくらい沙都子さんにとっては朝飯前だろう。



「気持ち悪かったか?」

「驚きはしましたが……それでも嫌いにはなれませんでした。寧ろ段々と興味を惹かれていきました」



 だって、あなた本当に私のことが好きなんですもの。特に顔が、と言う沙都子さんはとても楽しそうに見える。



「うん否定はしない。そっか……ならまだ観察を続けようかな」

「ええ、是非そうして下さい。そしていつの日か私の秘密を暴いて下さい」

「え」



 その言葉に俺は体を起こそうとするが沙都子さんはそれを押しとどめる。



「暴かれるのならば、あなたがいいわ」



 そう言った沙都子さんは今までで一番美しく、そして女の顔をしていた。



 一方で俺は沸沸と心の奥底からわきあがる感情をどこへやって良いのかがわからなかった。

 それをどうにか処理しようとムズムズと口を動かしていると沙都子さんが俺の顔に両手で触れる。



「……あなたの笑顔はきっと素敵でしょうね」

「見せられなくてごめんね」

「これはあなたのせいではないわ……いえ、こんなにも美しいあなたの顔が原因とは言えるかもね」

「それってどういう――――」



 意味深な言葉に俺は口を開いたがそれもすぐに沙都子さんの指で閉じられる。



「今は、言えないの。でもきっと、絶対に私はあなたの笑顔を、泣き顔を、怒った顔を見てやるわ。何年かかっても」



 長期戦になりそうだけどね、と眉を下げ言う沙都子さんに俺はニヤリと笑ってみせた。心の中で。

 きっと彼女は覚ってくれるだろうから。



「なら俺も沙都子さんの秘密を暴いてみせるよ。長期戦覚悟でね」

「……期待しているわ」



 今にも泣きそうな、不安そうな、けれどもどこかで嬉しく思っているような。そんな顔をしている沙都子さんの後頭部にそっと手を添えると、彼女の顔が近づいてくる。



 ――――どうか彼女の秘密を暴く日が来ますように。


 ――――願わくば、その時彼女が笑ってくれるといい。


 ――――そして俺も一緒に笑えたのならばどんなに幸福だろうか。



 口に柔らかい感触を感じながら俺はそんなことを思った。



 沙都子さんの秘密とは何か。俺の表情が死んでいるのは何故なのか。



 まだ知らないことばかりだ。

 けれどもこの温かさを俺はもう手放せないのだ。

 どうしようもなくこの女のことが愛おしい。



「私もよ」



 そう呟く沙都子さんに俺の心臓が勢いよく跳ねる。



 ああ、ああ、なんてことだろう。何と言っていいのかわからない。この感情を言葉にできない。

 ああでも――――



「沙都子さんは俺の心を覚るのが上手だね」



 やはり無表情なままに言った俺の言葉に、沙都子さんは嬉しそうに笑った。



 ――――だから今日も俺は沙都子さんを観察する。彼女の秘密を暴くために。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が読みやすく、最後までスムーズに読めました。何か不思議な感じのラブストーリーですが、読後感はとても良かったです。
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