あの夏の陽炎
今となってはもう見ることのない姿を陽炎の向こうに見た気がした。
濃緑輝く細い田舎道、降り注ぐ蝉時雨、肌を焦がすような灼熱の日差し、被った麦藁帽はもういつ買ったのかわからない。
杖をつきながら曲がった腰で陽炎の向こうを目指す。
映像を水で濁したような景色の向こうには若かりし頃の愛した人が手を振っている。
あの時の――夏の日差しよりも熱い恋をした日の姿そのままに。
すっかり年老いた。
陽炎の向こうの姿はもうどれくらい前のものだろう。
10や20ではきかない。60年か、70年は前の姿だろう。
長い黒髪を三つ編みにして、学生服姿の彼女は陽炎の中でもはっきりとほほ笑んでいるのが分かる。
白昼夢というには少し輪郭がはっきりしすぎている。
一瞬お迎えがきてしまったのかもしれないとは思うが、それでもいい。杖をつき今では筋肉も脂肪も落ちた足を必死に前に出す。
歩くだけで辛い。走ることなどもう出来はしない。
杖を掴む腕は皺だらけ、染みだらけ。
視力を失いつつある目は凝らしてみても、随分と見えなくなったものだった。
「あきらさん」
彼女が呼びかける。
記憶の片隅に眠っていた恋心と馴染んだ声が蘇る。
あぁ、あの時を思い出す。
あの熱い日々を。
「しずえちゃん」
もういないはずの名前を呼ぶ。
名前を呼ばれた彼女は陽炎の向こうにまだ揺らめき、かけられた声に優しく微笑んでくれる。
彼女に触れたくて。彼女の姿を死ぬ前に一目焼きつけたくて。
必死に足を前に前に動かす。年老いた体には灼熱の日差しも少しばかりの歩行でさえ身体をきしませ痛ませる。
それでも足は勝手に前へと進む。
目の前の幻を求めて足は痛みを含みながら、あの頃へ戻るように進んでいく。
どうして、あの時言えなかったんだろう。
しずえちゃんが息を引き取るときも、葬式になったときも。
言いたくても言えなかった言葉を思い出す。
「しずえちゃん……!」
すがるような呼びかけに若いままの彼女は微笑んでいる。
向日葵のような輝く笑顔で。夏の日差しよりも眩しい笑顔で。
陽炎の向こうに辿りついた足。手を伸ばせばもう目の前に彼女がいる。
「あきらさん」
「しずえちゃん」
彼女の頬に手を触れる。しわくちゃな手とは正反対のまだ張りのある若さ溢れる肌に。
カランと乾いた音を立てて、杖がアスファルトに転がった。
両手を伸ばして彼女を確かめる。
「しずえちゃん、僕はね、君に言いたいことがあったんだ」
あの時言えなかった言葉をやっと言える。
「しずえちゃん、僕はね……」