悪魔の恋愛事情
あんな距離、いつも抱きつかれていた身からすれば身構えることはない距離。そう、むしろ、前の方が近かったばかりか、くっついていたのだ。
だから、イウリアが変に意識しなければ気にする必要もないこと──。
「あのひとがアゼルさんに命令を出し続けて、今日で三日目かしら。イウリア、三日間一度もアゼルさんに会ってすらいないの?」
「……お父さまが、命じられた場所以外には近づかないようにってアゼルに命じたもの」
命じられた場所以外にはと言えど、大雑把では言葉の隙を突かれる可能性があるため、父は何かアゼルに言いつける度、具体的に指定しているようだ。
そしてアゼルが行く場所には、決してイウリアの部屋の付近やイウリアが普段から行く頻度の高い場所は含まれないようにされている。
ゆえにイウリアは、三日前からアゼルと会うどころか姿を見かけてもいなくて、それはアゼルも同様のはずだった。
ときに今、イウリアが母といる場所はイウリアの部屋。時刻は、よく晴れた空に出た太陽が最も輝く昼頃。
丸いテーブルを挟んで、お茶をしていた。
細い指で繊細なカップを持ち上げた母は、お茶を一口飲んでから、口を開いた。
「アゼルさん、今朝会ったらとても怖い顔をしていたわよ」
「……怖い顔?」
「あら、少し語弊があるかしら。きっと、表情があまりなかったと言うべき?」
そうだわ、と母は言い表し方を見つけたらしい。手のひらを合わせた。
「あれは機嫌が悪い、だわ」
「アゼルが機嫌を損ねることは、よくあることでしょう?」
「そうかしらね」
そうだと思う。笑っていたと思えば、拗ねたり。
でも、母は首を傾げた。
「それにしても、イウリアがアゼルさんとそんなに会わないなんて初めてじゃない?」
「そう……? ……言われてみると……」
そうかもしれない。
国境沿いを任される父によって、アゼルに隣国の魔法使いを退治する命が下されても、一日二日で戻ってくる。他のどんな用事でもそう。
いつの間にか、三日も経っていた。会わなかったことのない期間だと指摘されると、何だか急に長く感じてきた。
「そんなにアゼルさんと顔を合わせたくないのかしら?」
「顔を合わせたくない、わけじゃ、ないけれど……」
けれど、と、付け加えてしまって声が萎む。
「けれど?」
そんなイウリアに、母はまたおっとりと首を傾げた。
「アゼルさんが言い出したことが原因?」
カップを包んでいたイウリアの手が、勝手にピクリと反応した。
「素敵ねぇ」
母は気がついてか、気がついていないのか頬に手をあて、にっこりと微笑んだ。
「見ていただけだけれど、とても熱烈。『愛してる』ですって。うふふ、いいわね。私も昔そうやって口説かれたことを思い出すわ。今も言ってくれるけれどね」
うふふ、うふふ、とのろけを挟みながら笑い声が止まらないようだ。
しかし、両親の仲が良いのはイウリアにとって当たり前のこと。
それにしても母はどこで見ていたのだろう。
ここ最近のことをどこかで見て、聞いていたような口振り……と、その『最近のこと』──アゼルの目と声、言葉を思い出してしまったイウリアは急激に顔が熱くなってきた。
「あら、イウリアはアゼルさんのことが好きだったのかしら」
「え、す、好きって、」
お母さま、何を言い始めるの。
甦った記憶から意識を逸らそうと、お茶を飲もうと思っていたため、持ち上げかけていたカップが受け皿とカチャカチャと音を立てた。
淑女にあるまじき行動で、とても慌てた自分に恥ずかしくなって、また顔が熱くなる。
「アゼルさんのことを言った途端に、可愛らしい顔が真っ赤よ。意識している証拠でしょう?」
「それは──」
意識している。
さっき、イウリアは思い出した記憶からさえも意識を逸らそうとしていた。と、言うことは、意識しているというのは間違いではないと分かる。
それに最近のアゼルの行動で、頬が熱くなったり心臓がどきどきするという、前にはなかったことが出てきた。まともに見ることもできないし……。
「……そ、それは、だって、アゼルがあんなこと言うんだもの。わたし、アゼルのことをそんな風に思ったことないのに……」
悪魔は悪魔。人間は人間。
悪魔が当たり前にいる環境で育ったとしても、イウリアだってそんな認識をしていたのだろう。
男性女性という性別があっても、無意識から悪魔だから人間とは異なる認識の枠に入れられていたようだ。
けれど、あのような率直な言葉を囁かれたら。あの声、目を向けられてしまったら。
悪魔と人間という線引き無しに、イウリアを異性と認識しているという態度の数々を示されたら、イウリアだって意識してしまうのは無理もないことだ……と、思う。
「お母さまは、どう思う?」
「何が?」
「悪魔が人間に、その……好きだなんて、あるの?」
「そうねぇ……。物語にはなっているわね」
悪魔という人間とは異なる存在が知られるこの国には、普通の人間同士の模様を描いた物語だけではなく、悪魔が絡んだ物語があるという。
イウリア自身は読んだことはないが、人間と悪魔が恋に落ちる物語もあるのだとか。現実にはないことだからこそ生まれる類いのお話。
「実際の契約者からしてみると、実際には聞いたことも見たこともない、そういったことは考えたこともない話ね」
人間は人間。悪魔は、悪魔。
異界に住む悪魔は、人間とは違う。魔法使いに対抗できるどころか、一掃する力を持ち、寿命にも違いがあるとか何とか。
とにかく、大まかな姿の類似性以外に人間と悪魔には似た点がなく、総合して人間とは異なる存在だと認識している。
実際の恋愛だとか結婚だとか、互いに考える以前に、一線が引かれている存在同士なのだ。
「リリデアさんはどう?」
母が話を振ると、たった今まで部屋の中にいなかった、母と契約している悪魔が現れた。
「悪魔と人間の恋、についてでしょうか」
「ええ」
「悪魔側の情報でも聞いたことがありません」
話は把握していたリリデアは、続いてこう付け加えもする。
「根本的に、私達は不変の存在であるのに対して、人間の一生は一瞬。少しでも共に過ごす相手としては対象外なのでしょう。私自身、考えたこともないことです。それに、悪魔の生きている間にも恋や愛はありますが……」
「ありますが?」
「そもそも、それさえ遊びの一種ですし──」
「遊び?」
一度目の聞き返しは母。二度目はイウリアだった。
引っ掛かった箇所があって聞き返すと、リリデアは「はい」と何でもないように頷く。
「長い時間の中の趣味に近いものがあります。まず、人間のように一生添い遂げることはありませんね」
初めて聞く情報に、イウリアは衝撃を受けていた。
別に、自分は人間だからそんなに考える必要はないのに、胸にわだかまりが生まれて戸惑う。
そんな風にイウリアがよく分からない心地をもて余していることは知らず、リリデアが呟く。
「先日お見かけしたアゼル様のような──熱心さと言うべきでしょうか。熱心さもありません。元々アゼル様のあのような姿……いえ、話がずれてしまいました」
「遊びは困るわねぇ」
母の言葉が耳に入ってきて、イウリアは目を上げた。
「遊び、なの?」
悪魔にとって恋愛が遊びで、愛の言葉を囁くことも遊びなら、アゼルの様子も……、と考えはじめていたところだった。
母は、娘の表情に、困ったように頬に手を添える。
「それは分からないわ。同じことをしている人が多いから、全員そうしているように見えることもあるでしょうし。ねえ、リリデアさん、悪魔の中にも例外がいるのではないですか?」
「……そういえば……、私共の王は長らく同じお妃様を愛しておられるようです」
「あら、素敵。長らくって人間の長らくよりもっと長いのでしょう?」
「人間の寿命よりも長く、ですから、おそらくは」
「あらあら。イウリア、ほら、例外もいらっしゃるみたいよ」
「でも、それは悪魔同士のことでしょう……?」
「アゼルさんはイウリアに好きだと仰っているのでしょう?」
おっとりと笑った母はそう言ったけれど、イウリアは今度は心に重いものが加わって、どうしていいかより分からなくなってしまった。