悪魔はひたすら求愛する
イウリアは父と領地に帰った。
他の貴族や、貴族の中でも城仕えの悪魔契約者はまだ王都で過ごすようだ。
結局街には満足に行けなかったが、また機会があると信じよう。
と言うより、そんなことを気にかけるよりも大きなことが身近に起こっていたため、ほとんど忘れていたのである。
「イウリア」
優しい声が、囁くようにイウリアを呼んだ。
寝起きのぼんやりした目が捉えた、秀麗な顔。瞳の赤い色はぼんやりとした中でも鮮やかで……。
イウリアと目が合ったことで、柔らかく、赤い瞳が細められた。
「おはよう」
「おは、よう……?」
ああ、朝なのか。
うっすらと時間帯を理解しつつ、たどたどしく挨拶を返した。
クッションに顔を擦り付けるようにして動かすと、髪が流れ落ちてきた。長い指が、イウリアの髪を避け、ついでに頬を撫でていく…………。
「アゼル……!?」
イウリアは勢いよく起き上がった。
起きた場所は、自室の寝室だった。格好は寝間着。紛うことなく、さっきまで寝ていたという証拠で、今起きたばかり。
けれど、ベッドの側にはアゼルがいる。
「いつから、そこにいたの」
「んー、さっきから? イウリアは寝顔も可愛いな」
悪魔はのんきに微笑んだ。
「──出ていって!」
ちょうど手に触れたクッションを投げつけてやったけれど、難なく受け止められてしまって、結局父が来たことによってアゼルは部屋から回収された。
「……もう」
そこまで強く言うつもりはなかったのに、あんな調子になってしまった。
原因は薄々分かっていて、イウリアはのろのろとベッドから降りた。
昼頃になり、小さな犬を抱えて廊下を歩いていると、突然犬が腕の中を飛び出してしまった。
原因は限られているため、イウリアも瞬時に緊張に似た感覚が体に巡り、辺りをきょろきょろとする。
が、見た先にいたのは母の悪魔だった。
一本に編んだ濃い灰色の髪を背中に垂らす姿は、姿勢がよいことも相まって後ろ姿だけで凛としている。
「リリデア、リボンが外れかけているわ」
逃げた犬の方へ行こうとしたが、見かけた姿に珍しく綻びた部分を見つけて、思わず声をかけた。
「イウリア、おはようございます。……本当ですね。これは、気がつきませんでした」
振り向いた悪魔は後方から髪を前に持ってきて、編んだ髪をまとめるリボンがほどけかけている様を目にしたようだ。
その悪魔、リリデアの顔立ちは、男とも女とも判断し難い造りだった。
アゼルは秀麗な顔立ちながら、性別的に男性だとはっきり分かるが、母と契約している悪魔は中性的な様子だった。
服装はスカートではなくズボンだが、体つきは細身で、どちらにでも捉えられそう。
髪型も性別をうやむやにする雰囲気作りに一役買っているのかもしれない。
「不足のある姿で主の元に行くところでした」
どうも母の元へ行くところだったらしい。手に、何か包みを持っている。
彼なのか彼女なのか分からないが、リリデアはそんなに頻繁に姿を現すことはない。
そもそも、悪魔とはそういうものだそうだ。
仕事がない限りはどこにいるのか分からず、必要以上に姿は現さない。
そう聞くと、アゼルとは毎日朝昼夜と会い、ときに長く一緒に過ごしているときもあるので、ちょっとずれが生じることになる。
性格によるのだろうかとイウリアは思っていたのだけれど……。
「わたしが直してあげる」
「恐縮です」
手を伸ばせば、リリデアは素直に少し頭を傾けてくれた。
幸いにも髪は乱れておらず、艶やかなリボンを慎重に結び直す。
「俺も髪を伸ばせば、そういうこと、してくれるか?」
「!」
耳元で聞こえた声に、ビクッと体が跳ねた。
「アゼル」
びっくりして跳ねた心臓を、宥める。
視界の端に、リリデアがアゼルに一礼する姿が映った気がした。
イウリアはと言えば、アゼルがいつぞやのように汚れているのではないのに反射的に距離を開けた。
「アゼル、お父さまに、わたしから離れるように言われていたでしょう……!」
「あれはあのとき限りのものだろう。……ご主人サマは意地悪だ。イウリアの元へ行けないように雑用を俺にさせる」
父は元々、せっかく契約したのだからとどんどんこき使う性格ではあった。
しかし悪魔は今はそれが不満なよう。
今朝イウリアから離れるよう言われたアゼルは、今父がいないことを良いことに、一歩距離を詰めてくる。雑用とやらは済ませたのだろうか。
「イウリア」
あの日以来、アゼルはそれまで聞いたことのなかった声音でイウリアを呼ぶ。
「まだ怒ってるのか?」
「今朝のこと、なら、怒っているというか……」
「昔はイウリアの方こそ部屋に俺を引っ張って行ったのに。そのときご主人サマにそれは駄目だって禁止されてただけで、今は禁止された覚えはないぞ」
それは勝手な期限の解釈だ。そうしなくなったから言わなくなっただけで、いいと言ってはいないはず。
それに、幼い頃と今を一緒にしないでほしい。
「イウリアが怒ってるなら謝る。もうしない。だから、俺の方を見てくれ」
そう言われて、視線がうろうろしていたことを自覚した。無意識だった。
とはいえ、自覚したからと言って改めて前に目を定めると……。
「イウリア」
見ただけで変化した甘い笑顔、もっと甘い声。
合った視線はどことなく熱くて、あの日からアゼルがずっとこうで、イウリアは落ち着かない。
顔が温度を上げていく感覚がじわじわとイウリアを侵食していく。だって、アゼルが。
「可愛い顔をする。そんな顔をしていると食べたくなる」
食べたくなるってなに。
近づくばかりの距離は別に近すぎるものではない。これまでは、近すぎた距離ではなかったはずだった。
はず、だったのだ。
「あぜ、アゼル、わたしに触るの禁止!」
手で、触れられそうになった顔を庇い、みっともなく噛みながら制止を要求した。
それなのに。
「イウリアは俺のご主人サマじゃないから、禁止は効かないぞ」
悪魔は微かに笑い声をあげ、両手でイウリアの頬を包み込んだ。
「イウリア、まだ俺のことを愛してくれないのか?」
まっすぐ向けられる視線を正面から受けたイウリアは、目を逸らしてしまう。
そうすると、目を合わせたがるようにわずかに顔を上げさせられた。
「お父さま助けて……!!」
とうとうイウリアは限界を迎えた。
娘の必死の助けを求める声に、父は悪魔のようにどこからともなく駆けつけてみせてくれた。
父がアゼルに何事か言っている傍ら、父の後ろに隠れたイウリアは熱い頬を押さえた。
──ああ、困った。
まだ続く大きな鼓動を抱え、戸惑っていた。
だって、アゼルなのに。