悪魔は恋を自覚する
屋敷に戻ると、出てくるなと言われていたアゼルが出てきた。
出てくるなり長く見てくるものだから、「どうしたの?」と聞いたけれど、「何でもない」と、全然何でもなさそうに見えない悪魔は口ではそう返してきた。
それでも翌日イウリアが屋敷にいる間に、アゼルはいつも通りになった。
その二日後、陛下からの呼び出しがかかった。父だけでなく、なぜか、イウリアにも。
「こういうことって普通なの?」
「いや、普通はないが……」
父も理由が分からないようだった。
こうなれば本日の街へ出てみる予定も消え、ひとまず城へ向かうと、一室に通された。
待つことしばらく。陛下と、先日イウリアの初ダンスの相手をしてくれた殿下が姿を現した。
父と一緒にイウリアが挨拶をし、促しにより座ると、早速陛下が話を始める。
「そなたの娘は、まだ婚約者はおらぬな」
「はい」
事実を認めた父だったが、一瞬後、まさかと聞こえてきそうな目をした。表情自体には出ていない。
「我が息子、シリルにも婚約者がおらぬ」
「存じて、おります」
「去年、そなたが立ち会い悪魔召喚を行ったことでこれも既知だろうが、シリルは悪魔契約者だ」
第二王子──この殿下は悪魔契約者なのか。
イウリアは思わず、殿下の方を見る。
「妻を迎えるのであれば、悪魔契約者の一族かそうではない貴族から、どちらからかと考えておったところだが、本人は独身がいいと言う。しかし、先日の姿を見てな」
「……父上、いえ、陛下。そういうつもりでダンスに誘ったわけではないと、何度も申し上げているはずですが」
殿下はため息混じりに、やれやれといった様子。
けれど陛下は「考えてみる余地はあるだろう」と言っている。
その陛下が、父を見た。イウリアもつられて見ると、父は若干強張った様子だった。近くにいなければ、分からないくらいにだけれど。
「そなたの娘ならば、ちょうど良かろう」
さっきから、娘と示されているところはイウリアのはず。
しかし明確には話の内容が掴めていなかったところで、今、はっきりと自分に関係があるとようやく感じた。
それはおそらく、陛下がいつの間にかイウリアの方を見ていたから。
「そなたの娘を、シリルの妻に」
妻?
内心ぽかん、とするイウリアはもちろん、父も動く気配が消え、静けさが生まれた。
しん、と。
妻、とはつまり、両親でいう母のこと。結婚した結果、男女の内、片方がそう言われることになる。
イウリアもいずれそうなるのだろうとは思っていたものの、……自分が、誰とと、陛下は仰っただろうか。
失礼か失礼でないかの間くらいの時間が流れて、──感覚的には数分経ったのではないかくらいの沈黙に思えた──隣の父が口を開く気配を感じた。
「駄目だ」
しかし、いざ聞こえた声は父のものではなかった。
同時に、その場に姿のなかった新たな存在を感じた。
それどころか、どこからともなく現れた腕が、背後からイウリアを抱き締めた。声はもちろん、この腕を知っている。
「アゼル」
と、割り込んだ声の主の名を呼んだ父。
悪魔が、イウリアの背後に現れていた。見上げると、悪魔は、真顔で、赤い瞳を鋭く前に向けている。
「イウリアを妻になんて、俺は許さない」
「アゼル、一体何を勝手に出て来て……。いや、それよりお前が口出しをすることではない」
父は、アゼルにこの場からの退場を命じようとしたのかもしれない。
けれど、
「ご主人サマ」
悪魔が契約者に目をやり、声を発する方が早かった。
「それは、許せない」
ぴんと空気が張り詰めたように感じられた。
アゼルの腕が、イウリアをよりぎゅっと抱き締めて離さない。まるで、渡さないようにでもするように。
「伯爵の娘は」
沈黙を破ったのは、殿下だった。
アゼルを見ていたイウリアが前方を見ると、殿下は緩く微笑んでいた。
「どうやら悪魔に気に入られる素質があるようだ。きっと将来悪魔契約者になれるでしょうね」
「恐縮です。とんだ失礼を」
「いやいや私も伯爵が呼ばれた段階で失礼だが、本当に彼女をダンスに誘ったのにそんな理由はなくてね。悪魔に水を刺してもらって、これ以上どんどん進んでいくことを助けてもらった気分だ」
陛下、と殿下は自分のペースを取り戻したと言わんばかりに、隣の陛下に話しはじめた。
「私のことを考えてくださっているのは重々承知で、大変嬉しいことですが、もう少し私の意見も聞いてくださいませんか。せっかく独身でも問題のない位置にいるので、本音で独身でもいいと思っているんですよ」
「そうか……」
陛下はどこか残念そうながら、殿下の意見を尊重することにしたようだった。
そんなやり取りを見守ることになっている側と言えば、イウリアは未だにアゼルに抱き締められたまま。
何が何だかと、とりあえず、陛下と殿下のやり取りを聞いていた。
そうすると、話を終えた殿下がすっきりしたような様子で、ゆったりと椅子に座り直してこちらを見る。
「それにしても、助かったとはいえ、まさか悪魔がこんなことに横やりを入れるとは」
イウリアを──いや、イウリアとアゼルを見た殿下はふっと笑って、言う。
「まるで恋をしているようだな」
まさに冗談を飛ばした声音だった。
この場を和ませようとしたのだろうか。
しかし、話の途中で横やりを入れてしまった悪魔を持つ側の父は、さすがに「まさか」と乾いた笑い声を上げるしかなかったようだった。
「悪魔がとはいえ、誠に失礼を。──アゼル、とりあえず今はこの場から──」
「そうか」
アゼルが、ぽつんと、呟いた。
目は殿下を凝視し、次いでイウリアを見下ろした。それからの表情の変化に、イウリアは目を奪われた。
「なるほど、そうだったのか。確かに、確かに、そうだ」
この場に出てきてからずっと真顔だったアゼルは、瞬く間に蕩けるような笑顔に変わった。
何かに納得したような言葉と共に、目に映したイウリアに手を伸ばし、触れる。イウリアの頬を滑り、顎に手をかけて、上から覗き込んでくる。
「人間をそんな対象にするとは、思いもよらなかったから、気がつかなかった」
「アゼル……?」
いつもと違うと感じる笑顔に、戸惑いを感じる自分に戸惑い、イウリアは小さく呼ぶしか出来なかった。
赤い瞳が、何か分からない感情を乗せて、イウリアを深く、見つめているから。
「ああ、イウリア」
声に温度を感じるはずなんてないのに、熱いと感じる声がイウリアの名を大切そうに紡ぎ、
続けて、届けるように、囁くように、言葉を紡ぐ。
「俺は、お前に恋をしていたんだ」
恋。
イウリアは、目を見張った。
誰かが「え」と言った。
「道理で大切なはずだ。壊したくなくて、傷つかないようにしたくて、触れたくて。お前の望むことを叶えてやりたくなる」
頬を滑る手。イウリアはピクリと微かに震える。
「イウリア、お前は俺のことは好きか?」
「……え」
顔を傾けたアゼルの問いに、戸惑う声が漏れる。
「好き……?」
「そうだ。俺は、イウリアのことが好きだ。例えば、そう、伴侶にしたいという意味で好きで、愛している」
恋。伴侶。愛している。
知ってはいれども、自分に向けられるには不馴れすぎる言葉の数々に、さっきよりももっと、零れんばかりに目を見開いてしまう。
「イウリアは?」
──俺のことは好きか?
と、また尋ねられて、イウリアは慌てる。無意識から慌ててしまって、口を開いてみるが、言葉が覚束ない。
「す、好きよ。好き、だけれど……たぶん、そういう……好きではなくて」
「イウリアの好きはどういう好きなんだ?」
恋だとか、伴侶だとか、たぶん、そういうのではなくて。
そう言えば、尋ね返される。
「……アゼルは、アゼルの、その好きは、」
「お前を愛している。なあイウリア、俺の伴侶になってくれ。そういう意味での好きだぞ。ああ、そうだったんだ、すっきりした気分だ」
なぜだか大層気分が良さそうなのは、最近の様子を思えばいいことだが、イウリアの方はどんどん戸惑いを強くしていく。
「イウリア、今すぐ俺と同じ『好き』になってくれ」
「──それは」
「俺は、お前の『好き』が欲しい」
繊細に頬を辿る指が、イウリアの唇に触れようと──
「アゼル!」
はっとしたような声が、割って入った。
直後、体を引っ張られ、イウリアは横に傾く。アゼルの腕の中から、するりと抜ける。
「命令だ! 離れろ!」
気がつけば、父の腕の中にいた。
勢いよく声で割り込んだ父は、庇うようにイウリアを抱き締めていた。
一方、前方に見えることとなったアゼルは、腕の中のものを取り上げられてむっとした顔をした。
命令がされたからか、近づこうとはしなかった。それが歯痒いような表情も混じる。
「どういうつもりだ、アゼル」
「どういうつもりも、そこにいたのなら聞いていただろう? 俺はイウリアが好きだ」
「──それは、いや、そんなことはあり得ない」
「あり得ない? どうして。悪魔には感情はないとでも思っているのか?」
「そういうわけではないが、悪魔と、人間は異なる。互いにそう認識しているはずだ。……イウリアは、人間だ」
「でも悪魔にも好きなものだってあるし、嫌いなものだってある。伴侶となることもあるから、恋だの愛だのという感情もあれば、欲しいものだって、ある。今、俺が好きになったのがイウリアだという話だ」
父の腕の中にいるイウリアは、ふと横手が目に入った。
陛下と殿下は、呆気に取られた表情をしていた。
イウリアもまだ何が何だか分からなくて、視線を戻す。
すると、近づけないアゼルがこちらに向ける目と合って、ゆるりと微笑まれた。