悪魔は独占したがる
翌日、邸の一室には優雅な音色が流れていた。
「すごい、嘘みたいに踊れる。アゼルはすごくダンスが上手なのね」
「俺は中々に器用だからな」
ふふん、とアゼルは得意気に笑った。
自分で言うのかということは気にならないくらい、悪魔はダンスが上手だった。より詳しく言うに、リードの仕方がだろう。
でなければ、足を踏み始めると止まらないイウリアが一度も足を踏まないばかりか、こんなにくるくると踊れるはずはないのだ。
考える必要もなく、流れるように踊ることができる。
きっと、アゼルの誘導が上手いからだ。
「本当にすごいわ」
「もっと褒めてくれていいぞ」
イウリアは催促されるままに、嬉しそうに笑うアゼルを褒める。
「それに、一度も足を踏まなかったもの。わたし、足を踏んでしまうのが嫌だったの」
踏まないでおこうと思っても踏んでしまうと、とても悪い気になってしまう。
他のレッスンでは、自分の失敗で相手が物理的に被害を被ることなどないから、なおさらダンスのレッスンを避けがちになっていた。
それが今日、この快挙である。ゆったりとした音楽に乗りながら、緩く踊りながらの会話さえも出来ている。
「そもそも、イウリアに踏まれたくらいなら俺は痛くもないと思うぞ」
余裕の悪魔は褒められたからかとてもご機嫌で、よりイウリアを引き寄せる。それでもバランスを崩したりしない。
「でも、踏んでしまうこと自体褒められたものではないから……。当日、誘ってくれる殿方がアゼルくらいダンスが上手だったら、誰とでも踊れるかもしれないわ」
これまでのレッスン相手を思うと、イウリアが自然に踊れるくらいの技能を持っていることはたぶん普通ではない。
ダンスは呼吸を合わせ、相手を思いやることも大事だとか聞いたから、単に以前のレッスンの相手役をしてくれていた先生との相性が悪かったのかもしれないけれど……。
社交界デビューの日、ダンスに誘われて、その人がかなりの腕を持っていてくれれば、と考えてしまう。
と、イウリアをリードとしていたアゼルがぴたりと止まった。
当然、イウリアも止まる。
音楽はまだ続いている。
どうして急に止まったのだろう、と、イウリアはアゼルの様子を窺う。
悪魔は、さっきまでご機嫌な笑顔を浮かべていたのに、今は眉を寄せていた。
「アゼル?」
向き合うアゼルに呼びかけて、目の前で手でも振ってみようかと、取られている手をするりと抜こうとした。
しかし、添えるようにされていただけの手が、指を絡ませるように手を握った。
「練習は順調か?」
音楽だけが流れ続ける場に、声が通された。
直後、音楽が止められる。
「お父さま」
静かになった場に響く靴音がする方を見ると、父が歩いてくるところだった。
今日は部屋で執務をしているはずだから、一段落ついて様子を見に来たようだ。
「どうした、手こずっているのか?」
音楽が止まる前から止まっていたイウリアとアゼルに、近くにきた父は首を傾げた。
「いいえ。アゼルがとても上手だから、わたしがとてもダンスが上手になったみたいに感じるくらいよ」
「そうか。それなら趣向を変えて私と踊るか?」
「お父さまと?」
確かに、他の誰かとも踊っておくべきなのかもしれない。
父の誘いにイウリアは手を動かしかけた。けれど。
今度はぎゅう、と手を握られて、完全に阻まれた。もちろん、アゼルだ。
イウリアはアゼルの意図が読めず、そういえばさっきからどうしたのだとアゼルに視線を戻す。
「ご主人サマ」
イウリアが何か言うより先に、黙っていたアゼルが声を発したかと思うと、父の方を見ていた。
悪魔は、ゆっくりと首を傾げる。漆黒の髪がさらりと揺れる。
「イウリアが踊れるようになったら、多くの男と踊ることになるのか?」
「微妙に嫌な言い方をするな。まあ、誘いがあれば、いや、誘いはあるに決まっている。イウリアは最高に可愛いからな。当然誘いが殺到して…………」
父は少し黙りこんで、「……確かに」と、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で呟いた。
なに?
「ダンスは大事だ。貴族として必須技能の一つであるから、身につけることは当然として…………」
「お父さま?」
悪魔だけでなく、父の様子まで分からなくなってきた。二人ともどうしたの?
考え込むような様子になっている父が、顔を上げる。
「イウリア、父の側にいれば踊らずに済むかもしれない」
何か言い出した。
「お父さま、何を言っているの」
「ダンスが苦手なら、踊らないという手が……」
「そうならないために練習しているんでしょう? お父さまだって、身につけるべきだと思っているから練習相手をアゼルにしたんじゃないの?」
「それは、そうなんだが……その、いざよく考えてみると……」
父は時折歯切れの悪い口調になる。
イウリアは要領を得ない会話に「もう」となる。
「大体、踊らずに済む状況になったら、練習した意味がなくなっちゃう」
上手く踊れるかという不安はあるが、練習したのに踊る機会がないというのももやもやする話だ。
それに、踊らずに済む状況がどのようにして作られるのかは分からないが、誘われないという事態は社交界デビューとしては最悪の事態と言えるはず。
「練習しなければいい」
とんちんかんなことを言い始めた父だ、と思っていたら、それを越える言葉が近くから発された。
「アゼルまで何を言い出すの」
練習しなければいいなんて言った、一番近くにいるアゼル。
びっくりしてイウリアが見上げると、アゼルは何だかよく分からない顔をしていて、きゅう、とイウリアの手を握る。
「だって、俺は、すごく嫌だ」
悪魔は納得いかなさそうに、そんなことを言った。
そうは言えども、練習が続くことには変わりない。
ダンスが出来ないレディなんてあってはならないのだ。
しかしあの日から、なぜだか拗ねた悪魔はダンスの相手をしたがらなくなった。父も命令しない。
「嫌なものは嫌だ」
悪魔は、この話題になるとやっぱり眉を寄せて言った。
「イウリアは俺のご主人サマじゃない。俺はこの件に関してはもう協力しないぞ」
最初はあんなに相手をしてくれたのにどうして。
ふいっと顔を逸らした悪魔に戸惑ってしまう。
この悪魔は気紛れだ。だけれど、これまで父の命令に重ならない限りイウリアの願いをはね除けたことはなかった。
むしろ迎い入れてくれていたし、願いをきいてくれないときもこんなに素っ気なかったことはなかった。
だから、イウリアは戸惑う。
「アゼル、わたし、何かしてしまった?」
アゼルの赤い瞳が、イウリアに向けられた。「何のことだ?」と返される。
「わたしの練習相手をしたくないのは、わたしが何かしてしまったからじゃないの? やっぱり、ダンスが下手すぎたとか……」
イウリアはこれまでになく、くるくると踊れていたのだけれど、アゼルの方は大変だったりしたのだろうか。
「違う。そんなことはない。──イウリア、そんな顔するな」
アゼルが焦ったように首を横に振った。
「だけど」
「俺が嫌なのは、イウリアのダンスの相手をすること自体じゃない。ダンスの練習をした結果にあることが、嫌なんだ」
「結果……? わたしが社交界デビューで踊ること?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてと言われても、嫌だと思うものは嫌だ」
返答が最初に戻ってきてしまった。
どうやら、練習の相手自体が嫌なわけではないと分かった。しかし、結局嫌な理由は分からず終い。
これでは解決にならないではないか。
「イウリア」
そこに、母が現れた。
「ダンスの練習はどうしたのかしら?」
怠けているのではないけれど、と、イウリアは事の詳細を母に話した。
話を聞き終えた母はうーん、と首を捻った。
「アゼルさんは、イウリアの相手はしたくないということですのね?」
「究極に言うとな」
「元々、アゼルさんにしてもらわなければならないことではないことでもありますし……そうねぇ。以前の先生にまたお願いしようかしら」
イウリアがレッスンを避けるにつれて、呼ばなくなった先生のことだろう。
「イウリア、今度は逃げちゃ駄目よ?」
「分かっているわ」
ちょっと苦手なのだが、ダンスの相性がどうのなんて社交界の場で選り好みはしていられないだろう。
イウリアはしっかりと頷いた。
「前はあんなに逃げていたのにか?」
側で、アゼルが予想外のことを聞いたような反応をしていた。
「もう逃げてはいられないもの」
「嫌なことからは逃げてもいいと思うぞ」
「しなくてはならないことだもの」
言うと、アゼルは黙り込んだ。
ここでもやっぱり、何か納得がいかないようで。
「それなら俺が、練習相手になる」
上げた顔は笑わないまま、悪魔は前言撤回してきたのであった。
一体何がどうなっているのやら。
イウリアは母と首を傾げ合った。