悪魔は囁く
イウリアの目の前に、血が散った。大きく、大きく。イウリアの顔にもかかった。
同時に、目の前に迫っていたこわい姿が無くなった。
「イウリア、怪我はしていないか?」
「……アゼ、ル……?」
腕の中にいた犬が今度こそどこかに行ったけれど、イウリアは犬の姿を追わなかった。
入れ違いに現れた姿は、見慣れた姿だった。黒い髪、赤い瞳。白い肌が、瞳と同じ色で染められている。
見ている間に、アゼルが歩み寄ってきて、イウリアに触れる。
イウリアの頬を拭うようにすると、ぱっと視界に赤い何かが映り、濡れた感触が消える。アゼルの顔や首についていた赤も消えた。
「うん、怪我はないな」
「──アゼル」
「ん?」
イウリアは、アゼルにしがみつく。
アゼルは抱き締めてくれた。
「……アゼル……」
地面が目に入ると、芝生を浸す液体があった。
夢ではなかった。確かに悪魔が現れて──殺される、と感じたこともないことを感じたのも、現実だろうか。
そして、正しいのだろうか。
「もう大丈夫だ」
アゼルがいるのなら、もう大丈夫。
それだけを実感すると、イウリアの震えは収まり、徐々に恐怖も消えていく。
「……アゼル、来てくれてありがとう」
「当然だ」
心の底からお礼を言った。
訳が分からないけれど、両親が帰って来てから話そう。アゼルが帰って来たのなら、もう魔法使いの撃退は終わったのだろうから。
「お父さまたちも、もうすぐそこ?」
「いいや」
……いいや?
「ご主人サマはまだ国境近くにいるぞ」
「……どういうこと?」
「ご主人サマは心配になったんだろうな。俺が他の悪魔がこっちに来ているかもしれないと言うと、俺に、家にいるイウリアを守れと言った。それは正しかったというわけだ」
「他の、悪魔……?」
父はまだ出先。
アゼルだけ、命令で戻ってきた。
その二点はどうにか理解したけれど……。
「アゼルは、魔法使いを撃退しに行ったんでしょう?」
他の悪魔とは、どういうこと。
不安が生まれた。
どうか、気のせいであって。
「魔法使いと手を組んだ悪魔がいて、敵に悪魔がいたんだ」
「──そんなはず、ないわ」
口が勝手に否定した。
改めて言うとしても、否定しただろう。そんなはずがない。
魔法使いと悪魔が手を組む。それは、あり得ないことだった。悪魔は魔法使いを嫌っている。
契約があり得ないからこそ、この国は魔法使いたちの攻撃の手に落ちることがない。
だからさっきもイウリアは、契約している悪魔が敵ということはない、と一度安堵を覚えたのだ。
──そう、さっき。イウリアは悪魔が敵だと感じざるを得ない状況にあった。
「まさか」
あり得ない、と今度は声にならずに言うと、アゼルは緩く首を横に振った。
「俺たちは魔法使いを好いてはいないが、契約出来ないわけじゃないから、あり得はすることなんだ」
禁止事項があるわけではない、と。
では、さっきここに現れていた悪魔たちは魔法使いと契約した?
悪魔と契約した魔法使いが現れたとしたら、どうなるか。血の気が引いた。
「じゃあ、お父さま、は。アゼルをここに来させて、お父さまは……?」
「リリデアが来た後だったから、リリデアなら、数が多くても時間がかかっても魔法使いだけなら捌き切るだろう。──魔法使いだけなら、な」
魔法使いだけなら、問題ない。どれほどいようと人間。悪魔には敵わないのだ。
けれど、契約を交わした悪魔がいるという。
これまで、こちらに絶対的な安心を与えていた存在と同じ存在が敵にいるとなると、どうなる。
悪魔同士の戦い?
そんなの、想像したこともなかった。
「リリデアは、大丈夫? 大丈夫よね」
「どうだろうな。しばらくはもつだろうが、厳しいかもな」
「どうして」
「魔法使いと契約した中にリリデアより強い悪魔がいるからだ。リリデアじゃ、勝てないな」
一瞬、声を失った。
リリデアが勝てない。
それが意味するところは……父や母の無事に関わる。
「──アゼル、すぐに戻って」
ここにいる場合じゃない。
イウリアはすぐにそう言った。アゼルが戻れば、どうにかなる。きっと父や母を守ってくれる。
そう思って、言った。一秒でも早く、と。
けれど、アゼルは首を横に振った。横に。
否定、だ。
「ど、いうこと……?」
「俺も聞いてやりたいのは山々だが、イウリアは俺のご主人サマじゃない。ご主人サマは俺に家に戻り、イウリアを守るように言った。その命令がある以上、俺はここでお前を守る」
「そんな──」
そんなこと、しなくていい。
だって、もうイウリアは助けてもらった。だから父の元に戻って、父や母を。
「アゼル、お願い、お父さまのところに戻って」
願いを口にしても、また否定が返ってくる。
それでも繰り返し頼もうとして……声を、出せなかった。
アゼルはこの願いを聞いてくれない。
父が、アゼルに命令した。家に戻り、イウリアを守るように。
アゼルが父の元に戻るには、その命令を上書きする命令が必要で、命令出来るのは契約者である父だけだ。
その父はここにいない。もう呼び戻してもいいとイウリアが伝えることは出来ない。
どうすればいいのか分からなくて、目の前が真っ暗になる。
どうしよう。このままでは、両親が。このままでは。どうしよう。どうすれば。
どうすれば、両親を救える。守ることができる。分からない。嫌だ、どうすればいい。嫌だ。
──知らない間にカタカタと震えはじめたイウリアに、そっと提案する者がいた。
「一つ、方法がある」
悪魔だ。
イウリアが思いつく唯一の希望でありながら、どうにもできない希望。
「どんな方法……?」
両親を助ける方法。何だっていい。教えてほしい。
イウリアがすがり、しがみつくと、悪魔はイウリアの頬をゆっくりと撫でた。
「イウリアは、その方法を知っているはずだ」
さあ、考えてごらん。
悪魔は、直接答えることはせずに、優しく囁いた。
「俺を、動かす方法。俺に、命令出来る方法だ」
命令を受けてここにいる悪魔に命令し、戻ってもらう方法。
悪魔に命令が出来るのは、契約者のみ。
それは、よく知っていた。
「契約」
イウリアの口からその言葉が零れると、正解だと言うように、悪魔は目を細めた。
悪魔に命令するには、契約が絶対条件だ。
イウリアが契約すれば、言うことを聞いてくれる。そう、アゼルは言いたいのだろうか。
「でも、アゼルはもうお父さまと契約しているわ……」
アゼルは父の悪魔だ。
命令するには契約が必須だが、もう契約済み。そもそもすでに契約している悪魔に命令する方法なんて、ないのかもしれない。
では、他に考えられる方法といえば、
「でも、わたしは、悪魔を召喚する術を知らない……」
新たな悪魔を召喚し、両親の元へと駆けつけてもらうことは出来ない。
悪魔との取引をするために用いるものは二つ。まず召喚するための召喚陣と、取引材料にするための召喚者の魂だ。
しかし、召喚陣は国が厳重に管理しており、悪魔契約者にも口外は許されていない。
イウリアも存在は知ってはおれど、そこまで。見たことはない。
「他の悪魔なんて呼び出すな。呼び出さなくてもいい。お前の悪魔は、ここにいる」
「でも、アゼルは、」
「俺をそこらの並の悪魔と一緒にするな。複数に及ぶ契約が可能な力を持っている。俺は強いぞ、イウリア。命令があれば、今すぐ魔法使いも何もかも凪ぎ払えるくらいにな」
「ほんとう……?」
「俺を疑うのか?」
いいや、この悪魔を疑うなんてあり得ない。
今、イウリアは両親の危機を退けたい。そして、考えられる方法は、一つ。
新たな悪魔を呼び出す方法も知らないイウリアが取ることが出来る方法は、見知った悪魔の言を信じること。
それならば──
「アゼル」
「ん」
「わたしと、契約して」
言葉の続きを待つように、アゼルはイウリアを見つめていた。
「わたしの魂を、あげるから、お父さまと、お母さまを助けて!」
人間は自らの魂を取引の材料にし、悪魔と契約する。
一人ではどうすることもできない望みを声の限りに訴え、イウリアは対価を悪魔に差し出す。
懇願を耳にした悪魔は、一度、瞬きをした。
「──上出来だ」
噛み締めるような声音だった。
上の方にある顔が下りてきて、イウリアの額に額がくっつけられ、声が頭の中に直接響いてきたかとさえ錯覚した。
すごく、近くで見られて、赤い瞳に引きずり込まれそうな心地に陥っているからかもしれない。
「その望み、契約、受けよう」
間近でその赤い瞳に覗き込まれて、不意にパチッ、と白い光が弾けた。
不思議な光は、目を眩ませることもなく、やがて消えた。
「よし」
光が消えた視界には、満足そうに顔を離したアゼルがいる。
「契約、出来たの?」
「そうとも。契約成立だ、ご主人サマ」
アゼルは、恭しくイウリアの手を掬い上げた。
長身を屈めたことで、また顔が近くなる。イウリアが少し見上げて顔を合わせるアゼルは、極上の微笑みを浮かべた。
「俺の名はアゼル。これからはお前の悪魔でもある。──そしてお前の魂は、俺のものだ」
手の甲にキスをし、悪魔は一層笑んだ。




