知らない悪魔
翌日のことだった。
イウリアがまだアゼルに好きだと言えていなくて、アゼルへの対応に四苦八苦していたとき、アゼルが父に呼ばれて消えた。
その一分後。
「お父さま、出かけるの?」
会った父は、出かける格好をしていた。
「要請が来たから、少し行ってくる」
「国境?」
「また魔法使いだろうな。よくも懲りないものだ」
心配しなくてもいいと、父はイウリアの頭を撫で、アゼルを伴って出かけて行った。
さらに、一時間後。
イウリアが部屋にいると、母がやって来た。普段、家で過ごすときはスカートなのに、ズボンになっている。母がこういう格好をするときは……。
「イウリア、私も行ってくるわ」
「お母さまも?」
「リリデアが魔法使いの数がいつもより多いって」
おそらく隣国の魔法使いを撃退しに行った父。母も、行ってくるという。
「お父さまもお母さまも行くのって、珍しいわね」
国境の要所であり、結婚していることもあってこの地には悪魔契約者である父と母が二人いる。
けれど、普段はアゼルのみで事足りるようだから、父のみが出かけている状態のはずだ。
父が王都に行っている間に母が対処することもあるようだけれど、二人共というのは中々ない。
「そうね。そもそも、少しおかしいのよ。いつもなら、こんなに短い間隔で攻めてくるはずはないのに」
父とイウリアが王都に行く前に魔法使い退治があったとはいえ、一ヶ月ほど前でしかない。
国境の異なる要所では、毎日小競り合いが起きているところもあると言うが、少なくともここはそんな短い間隔では攻められない。
「とにかく、リリデアと行ってくるわね」
「大丈夫……?」
「大丈夫よ。念のためだから」
「そう……。気をつけてね」
「イウリアはきちんとお留守番しておくのよ?」
「お母さま、わたしは子どもじゃないのよ」
くすくすと笑って手を振って行った母を、部屋から出て見送る。
母は普段通り微笑んでいたから、イウリアは納得はしたけれど、少し不安だった。
父やアゼルは大丈夫だろうか……。
悪魔は魔法使いよりも強い。それゆえこの国は侵略されずに済んでいる。
だから、今回も大丈夫のはず。
母は、この地を守る役目を仰せつかっているから念のため行くだけで、父と帰って来るだろう。
「イウリア」
肩に、手を置かれた。
リリデアが現れていた。母は、もう廊下の先に行ってしまったようで見えない。
「イウリア、心配ありません」
「え?」
いきなりだったので、聞き返してしまった。
遅れて、イウリアが心配していると分かって言ってくれたのだと悟る。イウリアは、そうね、ありがとうと言おうとする。
「全ては丸く収められます」
「? ええ。リリデアも気をつけてね。ありがとう」
リリデアは一礼して、そのまま消えた。
イウリアは、一人になった。
正確には、邸には使用人たちがいるので全く一人ではない。
けれど、何だかとてもしん、としているように感じられた。
「大丈夫よね……」
小さな犬を撫でながら、呟くけれど、犬が安心する答えをくれることはない。
心配ない、心配ない。リリデアも心配ないと言ったではないか。
「ルメ、外に出ましょうか。最近、一緒に遊んでいないもの」
「ワンッ」
犬のお気に入りの玩具はどこだっただろう。使用人に聞けば分かるだろう。
イウリアは、小さな犬を抱いて部屋を出た。
廊下に、一人分の足音が響く。
窓から外を見ると、まだ昼なのに薄暗く見えた。
外に出てみて、原因はよく分かった。頭上に広がる空が、灰色の雲に覆われてしまっている。雨が降りそうだ。
「……お父さまたちが帰って来るまで、降らないといいけれど……」
空気も湿っている。
母が出てから、一時間は経った。父が出てからは二時間以上。
どの方向に、どれだけの距離行ったかは聞いていないから分からない。山の方を見て、イウリアは犬を抱き締めた。
「キャンッ」
「ご、ごめんなさい、ルメ」
強く抱き締め過ぎた、と思って謝った。
しかし、犬は──ぶるぶると震えていた。
「ルメ?」
寒いの?
痛かったのなら、力が緩んだ瞬間に腕の中を飛び出して行っただろう。けれど、愛犬はイウリアにしがみつくように、爪を立てている。
この、可哀想なくらいに震え、短いしっぽを脚の間にしまっている様子を見たことがある。
アゼルが現れる直前、イウリアに近づくと察して先にイウリアから離れていく犬。
まさか。
「アゼル?」
アゼルが帰って来たのだろうか。
どこからともなく現れる悪魔を探すため、イウリアは周囲を見渡す。右、左、後ろ──何かの気配を感じて、上を見て、見つけた。
宙に、二つ。人間ではない姿が立ち、イウリアを見下ろしていた。
アゼルではなかった。
──悪魔だ。
しかし、知らない顔。この前見た知らない悪魔とも違う。
「あれか?」
「もらったイメージとは合致……するようなしないような。そもそも指定された場所もここで合ってるのか?」
「さあ?」
二対の目が確かにイウリアを捉え、無意識にイウリアはビクリと震える。
表情が強張る。
彼らの目が、決して友好的なものには見えず、それどころか『物』でも見るような目だと感じた。
「まあ、この土地の人間を殺す『許可』は『契約者』から出させたから、最終的に全部殺せばどれかがそうだろ」
「そうだな」
契約者、という身近な言葉が聞こえた。
ということは、彼らは、誰かと契約している悪魔。
……では、敵ではない、だろう。
悪魔たちから聞こえる会話の一部を拾って、イウリアはほんの少しの安堵を感じた。
どうして敵だと思ったのだろう。目付き以外に……今、イウリアの側には犬しかいないから、警戒してしまっているのだろうか。
だから今、こんなに居心地が悪いのだろうか。
「しかしなんでまたこんなこと、しなけりゃならないのか」
面倒そうに、悪魔たちが地に降りてきた。
イウリアは無意識に一歩下がる。
この悪魔たちは、何をしに来たのだろう。彼らの契約者からの用件を、父か母に伝えに来たのだろうか。それとも、アゼルかリリデアに会いに来たのだろうか。
一人で、見知らぬ悪魔に出会うのが初めてで、イウリアは困惑する。
その間にも、イウリアに何か言うでもなく、雑談をしながら悪魔たちは近づいてくる。
「単に人間を殺すだけって、全く面白みないよな。しかも今回もらえる魂は魔法使いと来た。いらないっての」
「カサンドラ様が仰るんだから、それなりに面白いことがあるってことかもしれないぞ」
「いやいや、カサンドラ様、とうとう狂いはじめたって耳に挟んだぜ。最新情報」
「アゼル様が人間界に行っていらっしゃらないからじゃないか?」
「カサンドラ様、相当だからなぁ。だからって、遊びで魔法使いと契約させられたら堪ったもんじゃない。たかが遊びだとしても割に合わない胸糞さだ」
「だが、どのみち、カサンドラ様に逆らえる身分でもなし」
カサンドラ、という名前がイウリアの思考に引っかかった。
名前から誰だと思い出すより先、目の前の悪魔たちに重なる姿が見えた気がした。
女の、悪魔。
初めて怖いと感じた悪魔だった。だから、思い出すのだろうか。
そうだ──こわい、だ。
困惑などという、生ぬるい感覚ではなかった。彼らの目と合ってから、知らないうちに生じていたのは恐怖だ。
契約者という身近な言葉で感じた微かな安堵が、何の効果もなくなる恐怖。いつからか、犬だけでなく、イウリアも震えていた。
足は、動かせなかった。
「とりあえず、一人目いってみるか」
彼らは、一体何者だ。
悪魔だ。
契約者がいる、悪魔だ。
ではなぜこの悪魔たちは、イウリアを刈り取ろうとしている。なぜ。この国の悪魔契約者、悪魔は味方のはずなのに──。
状況を理解出来ないイウリアの前に、悪魔が手を振り上げた。その鋭い爪一つで、イウリアの喉を裂こうとしているように、爪が肌に、触れる。
血が、広く飛び散った。




