悪魔の望み
アゼルと一日中会わないことはなくなった。けれど、やっぱりちょっと避けてしまっているし、相変わらず、まともに顔を合わせられない。
そんな状態で、気にかかっているところが確かめられているはずもなかった。
「仲直りできたようで何よりだわ」
「喧嘩していたわけじゃないわ」
本日もまた、母と向き合っていた。
「そう? それで、好きだって言えた?」
カップを取り落としそうになった。
「す、好きって」
「アゼルさんが好きでしょ? アゼルさんは好きだって言って下さっているでしょう? お返事はした?」
お返事は大切よ、と母はゆったりと紅茶を飲む。
……確かに、アゼルから好きだと言われたり、好きになってほしいとか言われていて、でも、イウリアは何も言えていない。好きだと分かっても、何も。
「お母さまは、わたしがアゼルのことを好きでいいの?」
「どういうこと?」
「だって、悪魔と人間が……そういう関係になることは、ないのでしょう?」
聞いたこともないし、見たこともないと言った。
前代未聞。イウリアがこの先結婚するとして、その相手は当たり前のように人間の男性だったはずだ。人間の、とつけるまでもなく、世の中的にも当然のこと。
しかし、今、イウリアに好きだと言い、イウリアが恋心を抱いているのは悪魔だ。
「何事にも先駆けというものはあるものよ」
「……どういうこと?」
「例えばね、人間と悪魔が互いに関わらなかった時代があったのよ。でも、契約という関係を結ぶようになった。そんな風に」
母はいつものように微笑み、何でもないように柔らかく言う。
「人間と悪魔の結婚も有りではない? 悪魔契約者の新しい形じゃないかしらと、私は考えているのよ」
そういうものだろうか。
あっさりとした言い方に、イウリアが見つめていると、母は「それで?」と質問を戻してきた。
返事はした? 好きって伝えた? と。
「言えないわ……」
「どうして?」
「恥ずかしいもの……」
「あら」
イウリアもどうにかしたいと思っているのだけれど、こればかりはどうにかしようとしてどうにかなるものではないようだった。
心臓の動きを制御なんて出来るだろうか。表情なら未だしも、顔が熱くなることも。
こんなにままならないことは初めてで、本当に、早急にどうにかしたい。
「お母さまは、お父さまのことが好きなのでしょう?」
「そうね。大好きよ」
「お父さまに言う?」
「言うわよ」
「……恥ずかしくなったりしない?」
「そうねぇ。でも、それより言われると嬉しいことを知っているし、伝えたいって思うもの。お父さまはね、恥ずかしがってそんなに言ってくれない人だから、もっと嬉しくなっちゃうのよ」
母は、そういうものらしい。
イウリアは色彩こそ母そっくりだけれど、そういうところは受け継がなかったのかもしれない。
「……わたしも、言われることは、嫌じゃないわ」
「そうでしょう?」
好きだから、好きだと言われるのは喜ばしいことなのだろう。
「……でも、お母さま。わたしが好きだって言っても、アゼルが遊びだったら、嫌」
未だに確かめることの出来ていない部分。
悪魔にとっては、相手が悪魔であっても恋愛は遊びに過ぎない。
それは、何だか、もやもやとする。
「そうね、私も嫌よ。それは、イウリアがアゼルさんの想いを見極めるか、信じるか、もしくは……確かめてしまうしかないわよ?」
最もであるが、すんなり出来たら、苦労しない。
母の部屋を出る際、母にリリデアを呼んでもらった。廊下に出て、話す。
「リリデアは、『カサンドラ』さんっていう悪魔を知っている?」
「カサンドラ様、ですか? はい」
先日現れた悪魔の内の片方、おそらく「カサンドラ」と呼ばれていた悪魔について尋ねると、リリデアは頷いた。
「先日いらしていたとか」
「知っているの?」
「後から耳にしました。何か、ありましたか」
「何かあったわけではないの。……ただ、あの方は、アゼルのことが好きなように見えたから」
「そうですね。カサンドラ様がアゼル様をお慕いしていることは周知のことです」
周知なのか。
先日の、隠す様子なくアゼルに想いを宿したかのような目と表情で接していた悪魔を思い出した。
少し、羨ましかった。母もそうだけれど、あんなに率直にいられること。
「……リリデアは、アゼルとは元々異界で知り合いだったの?」
「知り合いというほど気安い関係ではございませんが、お会いしたことがあったかという問いであれば、そうです」
悪魔にも社交界があるとアゼルが言っていたから、社交界で会ったりしていたのだろうか。
そもそも社交界があるということは、悪魔の中にも王様がいるように、貴族もいる?
様、とリリデアがアゼルを呼んでいるのは、そういった身分の関係で……。
とか言うのは、今は考えないことにした。それより聞きたいことがあったから、それを先にする。
「アゼルは、今まで悪魔と結婚したり、したことはないの?」
「私が知る限りではないかと」
「……そう、なの」
ちょっと安心に似た感覚が生まれた。
単に、先日の悪魔のこともあり、悪魔の女性と恋愛関係に至ることはなかったのだろうかと気になって。
あれば、それは遊びだったのだろうかと探ってみるはずなのに、安心した。
「イウリア」
呼んだのは、イウリアが急に色々なことを聞いてごめんなさいと謝ろうとしたリリデアではなかった。
アゼルの声だった。
アゼルは歩く場所の制限から解放され、今は、以前のようにどこででも会う可能性がある。
振り向いたときには、そこにいた。
「俺とはまともに顔も合わせてくれないのに、リリデアとは話すのか?」
「それは──」
視界の端で、一礼したリリデアが消えた。お礼も何も言い損ねたが、それどころではない。
指が、顎に触れ──かけた直前に止まる。接触禁止は、イウリアがまだ無理だと思って、父に頼めなかったのである。
「そろそろ接触禁止は解いてほしい」
切なげな声に、心臓がきゅう、となる。もう、アゼルと会うたび感じたことのない感覚ばかりが襲ってくる。
これまでなら、何とも言えなくなるところ、イウリアは拳を握った。
まずは、避けるような行動を止めてみなければ。イウリアも勇気を出さなければ。
「分かったわ……」
消え入りそうな声で言ったら、寂しそうな顔をしていた悪魔はぽかんとした。
「本当か?」
「うん」
直後、早速指が触れて、ピクリと震える。
「ご主人サマに、イウリアが許すならって言われていたんだ」
アゼルは、嬉しそうに笑っていた。
こんなことだけで、そんなに笑顔になるの?
少し前とはあまりに正反対の様子で、嬉しそうにするから、イウリアは気恥ずかしくなる。
「久しぶりに触れられた気がする」
微笑む悪魔は、囁く小ささで言い、イウリアの頬に触れ、首を辿り、自然な流れで抱き締めた。
急に全体的な距離がゼロになったイウリアは、目を丸くする。瞬間的には理解が及ばなかったのである。
「イウリアだ」
頭の上で声が響いた。
「イウリアの感触、イウリアの温度、イウリアの匂いがする」
そんなことを言うのなら、それはイウリアにとっても同じ。
アゼルの体に包まれている感じがするし、温度を感じるし、においがする。
「アゼル、少しだけ、離れて……」
「嫌だ」
打ち始めた心臓が壊れそうなくらいだったから、耐えきれず言ったのに、腕は離される気配がない。と言うか、口で拒否された。
「アゼル──」
「イウリア、俺のものになってくれ」
見上げて訴えようとした声を、遮られた。
いや、イウリアが止めてしまった方が先だったかもしれない。
真上から、見下ろす瞳と目が合った。漆黒の髪が、額に触れた。
「俺だけを見て、俺だけに触れさせて、俺だけのものになってくれ。俺も、イウリアだけのものになる。イウリアの望むことなら何でも叶える。だから」
イウリアが避けていた時間に言えなかったことを全て言うようにして、アゼルは懇願した。
「なあ、いいだろう?」
あまりに熱く見つめられて、その言葉全てが言葉通りに聞こえた。悪魔だとか、遊びかもしれないという認識の違い、想いの違いがあるかもしれないと思っていたことが頭の隅に行ってしまう。
アゼルがそう言ってくれるなら、イウリアは返事しなければ。そして、その返答は決まっているから。
イウリアは、熱に浮かされたように唇を、薄く開く。
「アゼル、わたしね、」
「うん?」
柔らかく、先を促される。
「わたし、」
アゼルのことが、好きなの。
そう、言おうとしたときだった。
パリンッ、と音がして、驚きに、反射的に全身が跳ねた。
一体、何──?
見ると、少し離れたところの窓ガラスが割れて、廊下にガラスが飛び散っていた。
「なに……?」
急に割れた。
しかし、石や、何かぶつかったとかいう要因らしきものは見当たらない。
誰かが割ったのだろうか。でも、誰が。
「……覗き見とは趣味が悪いな」
廊下に散らばっていたガラスの破片が浮いた。破片はそのまま、まっすぐ窓に戻り、瞬く間に綺麗な窓に戻る。
「これでよし」
割れた窓を直したと思われるアゼルが、イウリアに向き直る。
そして、何事もなかったかのように笑み、イウリアの顔を自分の方に向けさせた。
「話の続きをしよう」
「続き……?」
そう言われて、さっき、自分が何を言おうとしていたのか思い出した。
好き、と。
思い出して、羞恥が湧いてきた。どんどんどんどん生まれてきて、律儀に待つように見つめられていることを感じると、
「や、やっぱり、何でもない!」
言えなかった。
勢いよく俯くと、「また俺を見てくれない」と拗ねた声音が聞こえた気がするけれど、今顔を上げるわけにはいかない。
絶対真っ赤だ。
頑なに下を向いたままになっていると、ぎゅうっと強く抱き締められた。
「あ、アゼル?」
「今まで触らせてくれなかった分、思う存分抱き締めさせてもらうからな」
そんな理屈があってたまるだろうか。
けれど、イウリアはもう顔を見られないようにとするのが精一杯で、抱き締められるのが嫌なはずもないから、ひたすらどきどきする心臓を抱えながら抱き締められていた。
「これだけじゃ、足りない……」
イウリアを抱き締める悪魔は、呟いた。




