悪魔は悪魔
また、二日経った。
でもアゼルと久しぶりに会った日の翌日、アゼルに会いに行こうとは思っていたのだ。……行けなかったけれど。
そうして二日も経って、イウリアは、今日こそアゼルを探しはじめた。
「いない……」
父の執務室には、いなかった。
イウリアは一人廊下を歩く。
この前は、この廊下を歩いていたらアゼルがいた。だけれど、偶然なんてそう起こるものではない。
どこを探せばいいのだろう、と数日前に思っていたことを今も考える。
どうにか次に考えた場所は庭だった。
イウリアがアゼルとよく出ていたこともある。場所制限が難しいことから、庭は今回の制限から外れていて、イウリアが出ていない状態だ。
庭にいなかったら、本当にいよいよどうしよう。
イウリアは不安になりながらも、外に出て広い庭を歩く。そして、大きな木が大きな影を作る場所に行ってみた。
「……あ」
いた。
そよ風が吹く庭の一角、木がそびえ立つ場所にその姿があった。木の根本に座っている。
見えるのは後ろ姿だけ。立っていれば父と同じくらいの背の高さ。体格が似ているのか背の広さも同じくらいで、でも、受ける印象は違う。
髪色からも分かるけど、背だけでアゼルだと分かった。
まさか本当にいるとは思ってもみなくて、とっさに隠れてしまったイウリアは覗くような形でアゼルの様子を窺った。
しかし離れていてはたかが知れている。気がつく様子もないし……。
イウリアは、深く息を吐いて、自分を落ち着ける。大丈夫、大丈夫。
幾度か深呼吸して、歩きだした。
「アゼル」
あと数歩、という距離まで近づいて、そっと呼びかけた。
数秒の間が挟まり、のろのろと頭がもたげられた。
目が前に立っている姿を捉え、口が動き、イウリア、と呼ぶ声は、実際に音となって届いてはこなかった。
「この前は逃げてごめんなさい」
何か言われる前にと、イウリアは早口で謝った。
それからアゼルの様子を窺うと、アゼルはイウリアをじっと見ていたから、目が泳いでしまう。
「……今日もまた、どこかに行くのか」
「い、行かないわ」
「本当に?」
疑い深い声音に、一生懸命目を合わせて、深く頷いてみせる。
すると、悪魔は手を伸ばして……触れる直前、イウリアが無意識に避けてしまうより先に手が止まった。
「ご主人サマから、接触を禁じられてる」
辛そうな声音と、悲しそうな目だった。
届かせることの叶わなかった手は、力なく落ちた。
「……こんなことなら契約なんて止めてしまいたい」
「──そんなこと言わないで」
どうしてそんなことを言うのか。
イウリアはしゃがみこんで、項垂れるアゼルを覗き込んだ。
覇気のない赤い瞳は、膝に落とした手を見る。
「イウリアには触れられないし、好きになってもらえないし……今の俺が繋がりを欲するとするなら、イウリアとの繋がりが欲しい」
その言葉に、イウリアが何も言えない間に、瞳のみでなく同じく覇気のない声で悪魔は呟く。
「元々、俺達悪魔が人間と契約して、言うことを聞くなんていうことをしているのは、長い生の中の遊びに近い。俺だって、そうだ。……そうでなければ、こんなことしない。……今の状況は割に合わない……」
顔が上げられ、突如のことにまともに目が合ったイウリアは視線をずらしてしまった。
「どうして急に、俺から逃げる。避ける。見てくれない。──俺はこんなに、イウリアを愛しているのに」
だからだ。
その目に宿る感情と、言葉を受けて、イウリアは動揺せずにはいられない。
イウリアも、アゼルのことが好きかもしれないと自覚してからはもっと。
目が合う。目が向けられる。声を聞く、言葉を向けられる──どれか一つのみでも心臓は勝手に暴れるし、顔も熱くなる。
今も。
「それほど久しぶりに顔を見たはずではないのだが、大層様子が変わった。まるで生気がないから見失いかけたぞ、アゼル」
聞いたことのない声は、後ろから。
イウリアが振り向くと、庭に見知らぬ男が立っていた。
赤い髪、赤い瞳──悪魔だ。
しかし、この地にいるのは父と母の悪魔くらいのはず。他の悪魔が出入りできないわけではないが、一体、この悪魔は。
赤い髪を微風に揺らしながら、歩いてくる。
「お前か。……どうして、ここにいる。この国の都にいるはずだろう」
イウリアが背を向けた方にいるアゼルが、知り合いのような口ぶりをして応じた。
「シリルはそれほど私に用を言いつけることはないから、召喚に応じてみたが暇なものでな」
シリル、と出た名前は、同名でなければ第二王子の名前だ。彼は、悪魔契約者だという話をこの前聞かなかっただろうか。
つまり、この悪魔は殿下と契約している悪魔?
「ふん、それが噂の人間か?」
見知らぬ悪魔の目が、イウリアに向けられた。
「噂?」
「噂になっている。アゼル、お前が人間に求婚しているとな」
大方知れるような場所でそんな行動をしたんだろう、と赤い髪の悪魔は言い、探る目をした。
「あまり、見るなよ」
「何故だ」
「俺が不愉快だ」
「……なるほど」
本当に不愉快そうな声に言われ、イウリアを見ていた悪魔は素直に目を離した。
「事実かどうか、どういう意図なのかは私には何でも構わないことだが、一つ、忠告しに来た」
「何だ」
「カサンドラが消えた」
「あっちからか?」
悪魔の世界を異界と言い表すことが多いが、『あちら』『こちら』と異界と人間のいる世界を言い分ける者もいる。
だからたぶん、この『あっち』は悪魔の世界を示している……のだろうか。
「それで?」
イウリアには内容の示すところが分からない会話をする一方のアゼルが、心底どうでも良さそうに聞き返した。
「カサンドラはお前に固執している。元々お前があれを避けていたことと、短い期間だということもあってまさか『あちら』にいないとは気がついていなかったようだが……。『あちら』にまで広まった噂を考えるに、このタイミングで姿を消した理由は──」
「見つけましたわ!」
赤い髪の悪魔は静かに現れた。けれど、その悪魔はとても鮮やかに現れた。
アゼルと話していた男の悪魔の後ろ、長い髪を揺らし、地に足をつけた者がいた。
ふわりとした豊かな金髪と、印象的な大きな目。
宝石のように生き生きときらきらと輝くのは、表情全体がそうで、造り自体はお人形のような顔立ちをした美しい悪魔だった。
だが、中性的なリリデアと異なり、紛うことなく、女の悪魔。
立て続けに現れた見知らぬ悪魔に、本当に今日は一体どうしたのかと、イウリアは瞬くしかない。
そんな中でも、手の込んだドレスを身に纏う悪魔が艶やかで、視線を引き付けられる。
「わたくしの愛しい方」
女性の悪魔の目は、イウリアの方向に向いているが、イウリアとは目は合わなかった。
イウリアの後ろ──アゼルに向けられているらしい。
唄うような声も、同じくその方向へ。こちらがドキリとするような、声色だった。
いや、彼女の目と表情も見たからかもしれない。うっとりとしたような目と表情には、紛れもない熱が宿っていた。
アゼルが、イウリアに向けるそれに似ている気がした。
──彼女は。
「カサンドラ、俺はお前には会いたくないって言わなかったか。どうして俺の前に現れる」
対した声は、疲れたようなそっけないものだった。アゼルの声である。全く動揺も驚きもしていないようだ。
「わたくしはお会いしたいですわ」
「俺はお前が嫌いだ」
「わたくしはお慕い申し上げていますわ、愛しい方!」
弾む声で言う悪魔は、流れる動作でこちらに歩み、歩み、その進路にいたイウリアと若干ぶつかった。
「……何ですの?」
そこで、初めて、女の悪魔はイウリアを視界に入れた。
ただし、怪訝そうに。笑顔が陰る。
「人間。それもそうですわね、ここは人間界…………。……そう、わたくし、妙な噂を耳にしましたの」
ぽつり、と呟いた彼女はアゼルの方を見たのだろう。目が合わなくなった。
「愛しい貴方と中々会えない間に、貴方は人間界に向かっておられたことにも驚きましたけれど。人間に、求婚をしておられるという侮辱も甚だしい噂をお聞き致しましたわ」
さっきから傍観の体勢を取っている赤い悪魔が「ほらな」と、言った。
「ご安心下さいませ。わたくしにその噂を聞かせた者は消しておきました」
笑顔が戻っていた悪魔は、そのまま、ちらりとイウリアを見た。
見られて、笑顔は戻ったのではなかったと知る。先ほど、現れたときとは全く違う笑い方だ。
「人間が噂の原因であれば、わたくしが殺しておきますわ」
目は、先ほどの熱など嘘だったかのように冷えきっていた。
「わたくしがお会い出来ないのに、人間が側にいるばかりか、下らない噂が出てしまうなんて、嘆かわしいことですから」
怖い、と感じた。
この悪魔、こわい。
イウリアは、表情を強張らせた。
悪魔が怖いと感じたことは、なかった。イウリアはこの前王都に行くまでこの領地にいたし、他の悪魔契約者が父や母の元に訪れたとしても、他の悪魔の姿は見ず、アゼルとリリデアしか見たことがなかった。
その両方の悪魔を怖いと思うはずはなく、先程現れた赤い髪の悪魔は接したとは言えない。従って怖いかどうか以前の問題だったのだ。
しかし、この悪魔はイウリアに敵意を向けていると感じざるを得ない。
「カサンドラ」
ふっと、背後にいる彼の気配が近くなった。
ぎこちなく見ると、アゼルが立ち上がり、女の悪魔を睨んでいた。秀麗な顔立ちが険しい。
「俺がここにいて、よくそんなことが言えたな。イウリアを殺す? そんなことをさせるはずがない」
「なぜですか? まさか、その人間は契約者ですか? ああ、愛しい方、そもそも貴方が人間と契約するということこそ、相応しくないのです」
「何をするかどこにいるかなんて、俺が決めることだ。相応しいかどうかお前に判断されたくはない。大体、イウリアは、俺の──」
言葉途中、アゼルは黙り込んだ。
不自然なタイミングに、女の悪魔は首を傾げ、イウリアも見つめる。
当のアゼルは黙り、黙り、黙り、そして、にいぃ、と唇を歪め、笑った。
気のせいかもしれない。
瞬きしたあとには、そんな表情は消えていた。
「カサンドラ」
呼びかける声は、心なしか刺がなくなった気がした。表情も、穏やかさが漂っている気さえする。
「分かっているだろうが、俺は、人間と契約している」
「はい」
「そして、『この人間』は契約者ではなく、その人間の子どもだ。俺の契約者の最も大切にしているものであり、俺の守るべきものということにもなる。だから、当然、この場でお前に手出しはさせない」
アゼルがそう言うと、イウリアには何が何だか分からないが、女の悪魔が悲痛な表情になった。
「そうだったのですね!」
「たぶんそうだ」
「哀れな愛しい方! だから契約とは貴方に相応しくないことなのですわ! 酷い噂も流れてしまって……すぐに解放して差し上げます!」
「そうか」
「はい! 必ず! ──では短い時間でしたが、貴方のために、わたくし、ここで失礼致します」
優雅に礼をした悪魔は、頭を下げたまま、忽然と消えた。
その後、残ったのは当然、知らない悪魔を含めた三名。
赤い髪の悪魔は、涼しげにしていたはずの顔をしかめていた。
「おい、アゼル。カサンドラは面倒だ。なぜ煽る。いつものように素っ気なくしなければ、後がしつこいぞ」
「そうかもな。それよりお前も帰ったらどうだ? 用は済んだだろう?」
「……」
名も知らぬ赤い悪魔は、何とも言えない表情をして、ふっと消えた。
そして、庭にはイウリアと、アゼルだけに戻った。
目まぐるしい中に巻き込まれた気分だったイウリアは、まだ状況が処理できないまま、とりあえずアゼルを見上げた。
「アゼル」
「ん?」
「何だったの?」
アゼルは、しゃがみこんでいるイウリアに手を差し伸べようとして、触れられないことに気がついてか悲しそうに手を引っ込めた。
それから、他に誰もいない庭を見て、口を開く。
「俺は、お前が欲しくて、欲しくて、堪らないんだ、イウリア。その俺が今最も欲する繋がりは、お前との繋がりだ」




