東部国境にいる悪魔
ザヴァノアシアという国には悪魔がいる。
国の東部、国境を守る要所の一つであるここにも、漆黒の髪をし、血が染み込んだような色の目をしている悪魔が一人。
*
国の東部。国境の要の一つを預かるとは思えないほど喉かな景色を広げる土地に、周囲の家々より一際大きな家がある。
白い壁、青い屋根。美しい家の周りには、広い庭が広がる。
その庭に、土の茶でもなく草の緑でもない、青空のような色が一点──青い洋服を身につけた少女イウリアはいた。
よく晴れた本日、日傘をささなければ肌が焼けてしまう日射しが地上に降り注ぐ。
そのためイウリアは木陰におり、少々行儀が悪いが、地面には服をつけないようにしゃがみ込んでいる。
目の前には、小さな犬がいた。名をルメ。
二年前にこの家に来た。王都で王妃様が愛玩犬を飼い始めたことで、ドッと流行りが来た影響だったか。母が飼いたいと言ったのだ。
「ワンッ」
高い声で、犬が鳴いた。
「わん」
何となく、音だけ真似て返事してみる。
「ワンッ」
「わん」
「ワン──グルルルルル」
突如、愛犬が可愛らしい顔を恐ろしい形相にして、似合わない低いうなり声を出した。
実は、番犬でも猟犬でもないこの犬が唸るときは限られている。
だからイウリアはピンと勘づいた。
昨日からずっと見えなかった姿が帰って来た。
「イウリアー」
案の定、名前を呼ぶ声が聞こえた。
その声に、イウリアはぱっと顔を明るくし、明るい茶の髪を揺らして振り向いた。
……けれど、すぐに露骨に嫌な顔をせざるを得なくなる。
「アゼル、それ以上近づかないで」
立ち上がりかけの中腰で、イウリアは手を前に盾にしつつ、じりじりと後ろに下がっていく。ストップ、ストップだ。
「鏡で自分の姿を見てみるといいわ。すごく汚れているわよ──ちょっと、止まってって」
近づいてくる姿は止まらない。
それどころか、走って、腕を広げて、イウリアを囲って、
「!!」
受け止め切れず、しりもちをついた。
地味な痛さが、臀部を中心に走る。
しかし派手な痛さは無かったので、イウリアは別のことに眉を潜める。
下を見ると、イウリアの腰に腕を回して抱きついたまま、伏す姿。
黒い髪、白い肌、身につける服も黒い……が、今その白い肌にも黒い服にもべったりとついているものがある。
肌を見れば一目瞭然、色は赤、つんとした独特のにおいが嗅覚を刺す。イウリアは、このにおいは好きではなかった。ゆえに、眉を潜める。
「くさい」
「たかが血のにおいだろう?」
たかがって。
この悪魔の基準は、つくづくどこかずれている。こんなところに目を瞑れば、文句はないのに、こういうところに無頓着で困る。
たぶん、抱きつかれた時点でイウリアの服にも血が移ってしまっている。だって、アゼルの肌についている血はまだ乾いていないようだし……ああ、やっぱり。
抱きついてきている姿の下の、スカートの裾を引っ張ってみると、生地とは正反対の色がついていた。
ひどい。これ、今日初めて着たのに。
「……ひどい」
「何が」
「わたしの服にまで、血がついちゃった」
「そんなこと、今気にするなよ」
「気にするわよ」
「俺が一仕事終えたばっかりで、イウリアに昨日から会えずに、今やっと会えたのにか?」
むっとした声がして、アゼルが上を向いて、顔が見えるようになった。
赤い瞳と、目が合う。
「そういえば、何をしてきたの?」
「いつもの通り、魔法使い退治さ。最初の時点では魔法使いかどうかは不明だったが、ここは国境沿いだから、魔法使いの可能性が常にあるだろう? そこでいつものごとくご主人サマに頼まれてな」
「一緒に行ったお父さまは?」
「さあ? ご主人サマの視力のレベルで家が見えたら先に戻っても良いと言われたから、俺は少し先に戻ってきた。だから少ししたら来るんじゃないか?」
「そう」
父も帰って来たようだ。
出迎えに行きたいけれど、のし掛かってきている悪魔がいる。イウリアが退けるのは、難しいだろう。
それに、彼が仕事をしてきたのだろうから、無下に退けるのは忍びない。
「アゼル、怪我はしていない?」
「怪我?」
まさかこの血は、アゼルの血ではないとは思うものの、万が一ということがある。
尋ねたが、アゼルは首を捻っていた。
「イウリアはいつも変なことを聞く。俺が怪我なんてするはずないだろう?」
「そうだとは思うけど、心配だから。一応確認よ」
案の定、怪我はしていない。
ごそごそとポケットから苦労しつつハンカチを引っ張り出して、秀麗な造りをした顔を拭ってやる。言っても消しもしないからだ。
拭われるままのアゼルは、赤い瞳をぱちぱちと瞬いたが、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。
「イウリアに心配されるのは好きだ」
拭う手に頬を委ねるように、彼は顔を傾けた。
「それにしても、昨日から行っていて今日の昼までなんて、珍しいわね」
「それなんだ、聞いてくれよイウリア」
本当なら、昨日行って昨日の内か今朝早くには戻って来られる予定だったとアゼルは言った。
「じゃあ退治するかってときに、一報入って来たんだよ。どうも他にもう一塊、今日になれば魔法使いが合流するとかで、ご主人サマが『来るなら最大の人数を返り討ちにしてやった方がいい』ってわざわざ待つことになったんだ。おまけに、国境からこっちに来なければ言いがかりをつけられるから、最大限を叩くには、合流を待たなければいけないって」
「気がつかれると、後から来る方は引いてしまう可能性があるものね」
イウリアはそれでも良いと思うのだけれど、機会があるときに出来るだけ最大数を叩く方が、この先も考えると良いのだろうか。
「おまけにやっとだってときになると、あいつらがちょこまかする。これだから魔法使いは好かない」
小賢しくて、中途半端に力なんて持っているからと、アゼルは何やらぶつぶつ言っている。
「けっこう時間がかかったの?」
「そんなことはない。一分もかからなかった。だが、いくら子ども騙しな『魔法』でも、数が増えると子ども騙しなりにわずかな手間と時間が生じるものだから面倒なんだ。……どうせ敵わないんだから、抵抗なんて無駄なのに」
一分なんて、イウリアでさえ些細な時間だと思うのに、どうもなぜかアゼルは気にくわなかったらしい。
今やその表情は不満一色だ。
「あの犬はいいよな、愛玩用で。片や猟犬みたいに働かされている俺を労ってくれよ」
その犬はと言うと、いつの間にかちょっと遠くの方にいて、しっぽを脚の間にしまってぶるぶる震えている。
逃げないのではなく、本能で固まってしまっているようだ。
原因は、イウリアにくっついているアゼル。
犬だけでなく、猫だって鳥だって、この悪魔に生き物がなついたためしがない。悪魔だからだろうか。
しかし当の悪魔は、恐れる要素なんて見当たらない甘えるような様子で、イウリアに抱きついたまま。
「疲れた?」
「疲れてはいないが、出来るならずっとこうしていたい」
「血を落としたらいいわよ」
「このままでいいだろう?」
「嫌よ。……アゼル」
嫌だと言う前に、アゼルはぎゅうっと腕に力を込めて、イウリアの服に顔を埋めてしまった。
「もう」
時々子どもみたいになる悪魔だ。
そういうところもあって、あしらうことが出来なくて、好ましいのだろうけれど。
でもこのままは、嫌だ。
「イウリア、イウリア? ここにいるんだろう?」
「お父さま、ここよ。お帰りなさい」
「ああ、そこにいたのか。ただい──」
どうにか出来ないものかときょろきょろとしていると、現れたのは父であった。
イウリアを見つけた父は破顔して、ただいまと言いかけて、止まった。
その視線は、イウリア……の下の辺りに向けられていた。アゼルを見つけたのだ。
「お父さま、アゼルに水浴びするなり着替えるなりして血を落とすように言って」
見てこの姿、と訴えると、表情を引き締めた父が歩いてくる。
イウリアとは異なる金色の髪が、太陽の光により輝く。
娘に対するときは和らぐ目は、イウリアの元に突っ伏している悪魔を見下ろす今、青が冷たい印象になる。
「アゼル、昨日今日はご苦労だった。命令がある時以外はどこにいてもいいとは言ったが、汚れたままイウリアに抱きつくのは好ましくない。と言うか止めろ。汚すな。離れろ」
後半のこの畳み掛けようである。
しかし悪魔は顔も上げなかった。父がピクリと眉を動かした。ちょっと怒った。
「勝手に汚れたのはお前だ、アゼル」
「ご主人サマが無駄に時間を過ごさせたからじゃないか。イウリアのところに一度戻るのも許してくれずに、ただ待てと言った。俺だって苛々を発散したくなる」
「アゼル」
鋭めの呼びかけだった。
悪魔を見下ろす目は、本気。
「命令だ。その汚れた状態を何とかしろ」
「はいはい。承知した、ご主人サマ」
直後、イウリアにくっついている悪魔がぽんっと綺麗になった。
体中についていた血が消え、ついでにイウリアについてしまった赤もなくなった。
イウリアは見るたびにこれが魔法なのではと思うけれど、悪魔は魔法使いの魔法とは一緒にされたくないらしい。
とにかく、イウリアが何度か落としてと言った血は、父の言葉ですんなりなくなって、イウリアはちょっぴり解せない。
「最初からそうすればいいのに」
「小さなことは気にせず、構ってくれればいいじゃないか」
アゼルはやはり、ぎゅうとイウリアに抱きついた。これで文句はないのだろう?と言わんばかりに。
イウリアは、今度は何も言わずに、その美しくも無頓着な面のある悪魔がするままにした。




