苦悩
多分、そう遠くない未来に私は消えるだろう。
正確に言えば元の場所に戻り、元の日常に戻るだけ。
それは何もない無の世界。
いつまでもこのままではいられない。
私、市杵島 姫命はこう見えて名の知れた神様、弁財天なのだから。
私達神の世界にはルールがある。
特定の誰かの為に存在する神であってはいけない。
特定の誰かの願い事を優先してはいけない。
人前に姿を晒してはいけない。
人を好きになってはいけない。
「はぁ~。」
二階の部屋の窓から外の景色を眺め、ため息を一つ吐く。
私は神の世界のルールを全て破って今ここに存在している。
初めは本当に軽い気持ちと好奇心から。
人の世界に興味があった。
だからと言って神という身分に不満があった訳じゃない。
でも今は違う。
先日三十郎にこぼしてしまった胸の内。
たまたま目に入ったたい焼き一つでごまかしたが、軽々しく言っていい言葉ではなかったのは確かだ。
何故あんなにも激昂してしまったのだろうか?
多分それは私が人を羨んだからなんだと思う。
神である私が・・・だ、人々を幸せに導かなければならない存在の私がだ、人の世界を、人を心から羨んでしまったからだ。
名のある神の分際で、なんと愚かな事だろうか。
いつからこうなってしまったのだろう?
人の世界に足を踏み入れ、人を知っていく度に、神と言う名の使命感が薄れてきている気がする。
何故?
私はそれに心当たりがある。
多分それは私が三十郎を想ってしまったからなんだと思う。
三十郎は馬鹿だが、あの歳にしては珍しい位に心がとても純粋だ。誰かを思いやる心、優しい言葉。
三十郎が私以外の誰か違う女性と話をしていると腹が立つ。それも笑顔で親しそうにしていると、益々ムカムカしてくる。あの笑顔は私だけに向けられるものであって、その他の女性に向けるものではない。
アイツは私をナンパしたのだから、それ位常識だろう!?
そんな事を考えていた時に気が付いてしまったのだ。
何故私は三十郎ごときの事でこんなにも心乱されなくてはならないのか?
一つづつ紐解いてみて初めてその答えに辿り着いた。
三十郎の事を想うと、この胸が痛む。
私は右手を胸の前で強く握りしめた。それはまるで自身の胸の痛みをそれで表現し誤魔化すかのように。
もうそう長くこの世界に留まる事は出来ないだろう。
身体がそう長くは持ちそうにない。
三十郎を強く想えば想う程、身体も意識も消えてしまいそうな感覚に囚われる。
神と人が結ばれる。
その昔そんな例もあったみたいだが、神界に今のルールがある事から、多分それらは良い結果にはなかったらしい事が伺える。
今まで考えもしなかった事。いや、考える必要が無かった感情。
私は今、それに直面してる。
「これこそ人が抱く感情なんだろうか?なるほど、誰かに縋りつきたくもなるな。」
私は自身の両手で自分を強く抱きしめた。
「不安な気持ちを浄化して、導く存在である神。私は人ではない。人間の感情を理解しつつあるが、神である。こんな気持ちになってしまった私は、一体何に縋りついたらこの胸の内が晴れるのだろうか?」
このままここに留まっていてはいけない。
少しでも長くこの世界に留まる為に。そう、せめてこの気持ちに決着をつけるまでは、私は三十郎と距離を置かなければならない。
月曜日。
「じゃ、学校行ってくるから」
私は三十郎が学校に向かうその背中を玄関で見送る。
「うん。気をつけて。」
抱いてしまった感情を無理やり抑えて、見えなくなるまで手を振ると、私はここを出る決心をした。