居酒屋バーテンのお気に入り。
読んでくださってありがとうございます。
兄弟の、そんな一面も、あったりするのです。
ベタベタすると怒る。
では、どうやってあの兄と深い関係になっていったと言うのだろう?日本には特殊な儀礼でもあるのだろうか。
残念ながら、侯爵は日本という遠い島国の慣習についてなにも知らなかった。
・・・そう言えば、屋敷で再会したときも、ハグ一つ、キス一つしていなかった。
セイラの方は駆け寄ってすぐにもその腕に抱きしめようとする挙動が見えたが、彼女の方は立ち上がっただけで動かなかった。
どうもよくわからない。気が強そうで、こちらの言う事などまったく意に介さないように見えたのに、ユーフューズことテオが頼んだことにはあっさりと首肯した。自分が由良の語学学校にこっそり変装して編入した事を黙っていてくれ、と頼んだことには簡単にOKをくれたのだ。セイラの女ならば、そんなことは有り得ない筈だった。逐一報告をするだろう。そして、あっというまに侯爵家にバレてやめさせられてしまうに違いない。
編入してから一週間経つが、変わらず学生生活を続けていられるのは、彼女がセイラに黙っていてくれるからだろう。
初めての学校生活を満喫するユーフューズを守ってくれるとさえ言っていた。自分が彼女に何をしたのかを覚えていれば、由良は自分のいう事を聞く義理など無いし、ましてや守る理由など微塵も無いのだ。それなのに、どうしてあんなことを言うのだろうか。
一緒にサッカーやテニスに興じるときの彼女はとても楽しそうだ。スポーツをするのには言語は余り必要ない。最低限だけわかればいいのだ。だからかも知れないが、語学が完璧には程遠い由良に取って対等でいられるスポーツは特に意味があるのかもしれない。
実際のところは、由良は純粋に運動が好きなだけなのだが。
また、彼女の唯一無二の理解者であるセイラは、スポーツに造詣が深く理解もあるが、相手はしてくれないのだ。テニスもサッカーも、全くと言っていいほど一緒にプレイしてはくれない。彼と一緒に出来たらどんなに楽しいだろうと想像はしても、セイラが由良とともにグラウンドに出てくれることは無いのだ。だから学校の友人と一緒にスポーツに興じることがとても嬉しい。
「ランチタイムに時々遅れてくることがあるよね?どうして?」
閉店作業をしている由良にセイラが尋ねた。
「・・・ごめんなさい。遅れたのは反省してる。もう遅刻しないようにするから。」
「僕はどうしてって聞いているんだよ。」
咎めているのではなく、理由を尋ねているのだと、重ねて言うと、仕方なく、という様子で彼女は白状した。
「お昼休みに、友達とサッカーとかバスケとかやってるの。そのせいで。」
「ああ、成程ね。それは楽しいだろうね、時間も忘れてしまうか。」
皮肉ではなくそう言ったセイラに他意はなくても、言われた方は青くなった。
そうでなくても、ここのところ侯爵家のことで彼は神経過敏になっていて、怖いのに。
「ごめんなさい。もう、もうしないから。授業が済んだら、すぐにこっちへ来るから。」
「怒っているわけじゃないんだ。・・・そんな顔をしないで。君が友達と楽しい時間を過ごしているのを邪魔するつもりはないよ。どこで何をしているかわかっていればいい。・・・ただ、心配しているだけなんだ。本当にそれだけなんだよ。ランチタイムとは言っても、それほど忙しいわけじゃないんだから、気にしないで。」
「でも、本当に、もうしないから。」
少し怯えてさえいるのではないか、という落ち着きの無さだ。由良は、セイラを怒らせることをとても恐れている。
経理を済ませた彼は端末をそっと閉じた。反省の意を表してその場に立ち竦み俯いている彼女を、立ち上がってからそっと胸に抱きしめる。
「怒ってなんかいないよ。本当だよ。・・・そんなに怯えなくていい。」
優しく、それはもうわれものを扱うようにそっと彼女の両頬を手でとらえて顔を上げさせる。視線があった瞬間にはもう唇を重ねていた。宥めるように、やわらかく何度も繰り返してキスをすると、由良の両手がゆっくりと上がり、セイラの背中へ回ってエプロンの紐をつかむ。
「・・・ほら、ね。怒ってないでしょう。」
「うん・・・。」
優しく許してくれる彼に隠し事をしている自分がとても辛くなってしまう。
今までも、昼休みにスポーツに興じていたことはあったのだが、必ず時間は守っていた。このところ遅刻が頻繁になったのは、新入生のテオがそこに参加しているせいである。
テオはセイラの弟で侯爵様だが、それを隠して変装して学校へ通って、憧れの学校生活を満喫している。これがセイラにばれたら、学校生活が続けられなくなるから黙っていて欲しいと頼まれているので、今もセイラには何も告げていない。
学校でのことを全て逐一報告しろと彼に命じられているわけではない。セイラはそこまで過干渉ではなかった。だが、相手はセイラの弟なのだ。まして有名人でお貴族様となったらただ事ではない。お忍びとは言っても一緒にいることを伝えなくていいのだろうか。
そして、侯爵自身はボディガードをちゃんと連れてきていると言っているけれど、本当なのだろうか。どうも、そう言った気配を感じられないのだ。
セイラは由良についている監視は侯爵家からのものだと断定していた。
「・・・僕に関わる人を調べてまわってるんだと思う。君は一番親しい上にまだ最近の知り合いだから、当分は我慢してもらわなくちゃならないよ。」
いくら身辺調査されても別に困らないので由良は放っておく。隠すほどの事など何一つ無いからだ。
そして、侯爵様がお忍び入学されてからはむしろそれを利用していた。由良が学校を出る時刻には侯爵家からの監視がつくので、ついでの侯爵様も見張ってもらおう、という寸法だ。
今までは監視役の都合などお構いなしに下校していたけれど、最近は監視役が現れてからでないと下校出来ない。侯爵様も見張ってもらうために。彼らが現れるまでは、由良自身が校内で気を配って侯爵様に被害が及ぶことがないように気を張っている。
彼の弟の事を告げようかどうしようか迷っていると、店の玄関のドアが開いた。閉店の表示はだしたはずなのに。
「こんばんは。・・・お店はもう閉めちゃったんですね?」
ストレートの黒髪を軽くかきあげて挨拶をしたのは、グレーのスーツを着た愛子だった。
「愛子さん!」
「こんばんは、セイラ、由良さん。」
彼女の所へ駆け寄ると嬉しそうに笑う由良が、閉店後だというのに奥のカウンターへ連れてくる。
セイラもけして嫌な顔は見せない。にこやかに応対する。
「こんばんは。仕事の帰りかい?・・・紅茶でよかったら飲む?」
優しく声をかけてカウンターの向こう側へまわる。器を用意して、お湯を沸かし始めた。
案内された席に腰を下ろし、肩の大きな鞄から包みを取り出す。
「お二人は夕食はまだでしょう?お土産です。今日、中華街に寄りましてね。」
包みを開くと愛子の顔くらいもある大きな中華まんが顔を出した。歓声を上げる由良が思わず手の上に乗せる。大きい。
「ありがとう。早速温めよう。・・・お茶も烏龍茶にしようか。由良ちゃん、奥の食器棚から飲茶用の器を出して。」
「はあい!!」
由良は嬉々として厨房の奥へ行ってしまった。大好きな愛子と、大好きな中華まんの二本立てだ。有頂天である。
「・・・飲茶の用意まで出来るんですか、このお店は。」
少し驚いたように愛子が言うと、
「僕じゃなくて、母親の趣味でね。茶、という名が付くものはなんでも集めたかったらしいんだ。」
店長は気軽に答える。
カウンターの下の棚から茶葉を引っ張り出して中を確認し、専用の大きな急須を水で洗って、乾燥機にかけた。
「それから、これもお土産です。」
愛子がスーツの上着の内ポケットから、小さなメディアを取り出して、セイラの手を取って握らせる。
「日本から届いたものです。匠さんから。」
「匠が・・・。」
「貴方あてのメール便の内容を圧縮しています。どうぞ。」
「そう、か。・・・気を使わせてしまって。どうもありがとう。」
出来るだけ由良の目に触れないように手渡したそれを、セイラはそっとシャツのポケットにしまった。そんな彼の方を、どこか媚を含んだような上目遣いで、見つめる。
「お役に立てれば嬉しいです。」
いかにも健気な様子でそう告げて、乗り出していた身を椅子に戻した愛子は、もう一度スカートを治して座りなおした。
月に何度か、金曜日の夜には最寄のパブへ出かけていた。
パブは、日本で言うところの居酒屋に近いだろう。そこでアルコールを飲みつつ語らう。地元の人間の社交場だ。庶民のちょっとした楽しみ、とでも言うべきだろうか。
由良はその数少ない金曜日をとても楽しみにしている。勿論、アルコールが飲めるからではない。由良は未成年だし、まったくお酒には興味などなかった。
セイラがそこでピアノを弾いてくれるのだ。毎週金曜日の夜には生演奏をするバンドが入り、飲み屋の夜を楽しく演出する。そのバンドの一員としてキーボードを時々担当することになっていた。音楽を奏でている彼はとても楽しそうで、それを見ているのはとても幸せだった。
店を閉めてから出かけるので、演奏に参加するのは夜遅くなってしまう。それでも彼の登場を待ってくれている常連客やバンドの仲間のために二人は足を速めた。店の前まで来ると、既に音楽が外まで聞こえている。楽譜を携えて店の中へ入っていく彼を追いかけて、由良も中へ入った。
「遅くなってすみません。」
「ハーイ!待ってたよ!」
バンドのボーカルを担当するヒゲのおじさんがセイラを迎えて両手を振る。他のバンドマン達も手を振って歓迎してくれているのが見える。その中へ彼が楽譜を持って入っていく。軽く音を合わせて、楽譜を置いた。ドラムを叩くスキンヘッドの男性がスティックを叩くと、すぐに演奏が始まる。
店内は盛況で多くの人が入っていた。ソファに座って歓談する人もいれば、立ったまま話に花を咲かせる人もいる。
「グレープフルーツジュース、下さい。」
パブのカウンターでバーテンをしている若い金髪の青年に、由良はカードを手渡した。とても背の高い青年はにこやかに笑ってすぐにカードを手元の端末でカードをスキャンする。
「いつもありがとう。由良、これサービスしてあげるよ。」
大きなグラスいっぱいのグレープフルーツジュースと、ガラスの器にレモンのはちみつ漬けをスライスしたものを乗せて出してくれた金髪の青年に、由良は嬉しそうに笑いかけた。
「ありがとう、ブライアン。今日は貴方は弾かないの?」
「今日はちょっと無理。」
そう言って、左手をひらひらして見せる。青年の大きな手の指には包帯が巻かれていた。
「どうしたの?怪我?」
「試合で接触したときにね、爪が割れちゃって。」
「あらら・・・。お大事に。指はシューターの命だもんね。」
ブライアンはアマチュアのバスケットボーラーだ。勿論チームに所属しているが、それだけの収入では足りずパブでのアルバイトをしている。バンドのメンバーの一人でも有り、セイラと共に店の小さな舞台で時々ギターを弾いてくれていた。彼とセイラのセッションは中々盛り上がるので由良は大好きなのだが、怪我をしているのではしょうがない。
そのまま由良はカウンター傍のスツールに腰をかけ、演奏するセイラたちを眺めた。
「素敵だなぁ・・・。」
最初の頃は遠慮して余り曲数を弾いてくれなかったセイラだが、最近はレパートリーが増えてたくさん聞かせてくれるようになった。数をこなすほどに上達しバンドのメンバーと息が合っていくのは当然で、今は歌のコーラスにも参加するようになっている。日本にいるときには全く聞いたことが無かった彼の歌声はとても美しくて、数人の声が重なるコーラスでもセイラの声だけを聞き分けるのは難しいことではなかった。
「へえ、そんなにイイ?」
ふと気付くと、隣のスツールに一人の青年が腰掛けている。黒髪に黒い瞳。瞳が黒い、と言っても真っ黒、というのではない。由良のような東洋人の焦げ茶に近い黒だ。見覚えのある顔、というより間違えるはずも無い顔だった。
「テオ・・・!!」
監視が付いてきているのは知っていた。だから、彼にこの場所が知れるのは別におかしなことではないが、いつのまに店に入ってきてたのだろう、気付かなかった。
由良のクラスの新入生であり、セイラの弟。侯爵様が変装した姿。なんだってここに、こんな時間に。細長いビールグラスに半分ほどのラガーを入れて、片手でくゆらせている。そんなことをしたら炭酸がどんどんぬけてしまうのに、とどうでもいいことを思ってからふと我に返った。
「侯爵様、なんでこんな時間にこんなところにいるんですか。危ないですよ。」
由良は声を潜めてそっと耳打ちする。
「・・・あのな、俺だってパブくらい通うよ?貴族ったって、イギリス人には変わりないんだぜ?たまたま今日は河岸を変えたってだけでさ。」
「侯爵様は未成年なのにどうしてビールなんか飲んでるんですか。」
「阿呆か。水の代わりにちっせぇ時からワインだのウィスキーだの飲んでるよ、俺は。ビールくらい、なんだっつの。」
お国柄の違いに、蒼白になった由良の様子を楽しそうに笑う。
セイラはそんなこと言わなかったし、彼はそんな風にはお酒を飲んだりしない。由良が未成年であることを考慮してか、彼女の前ではほとんど飲まない。
「そんなことよりさ。・・・何、アレがカッコイイと思うわけ?由良は。」
「か、かっこよくない?私、音楽とか全然わからないけど、彼の演奏は素敵だなって思う。」
頬を染めて、恥ずかしそうに恋人を褒める由良を見て、侯爵様はなんとも複雑な表情をする。
「・・・侯爵家の人間は、必ず音楽をやらされる。それからスポーツも。勿論、学業は言うに及ばす、だ。セイラも侯爵家の人間だからな。」
だから、セイラはピアノを弾くと言いたいらしい。侯爵家で育ったからこその特技だと、決め付けている。
「でも、セイラは、スポーツはやらないよ。」
由良に取ってはそれだけは唯一恋人に要求できない寂しい事の一つだけれど、侯爵様の言う事に一石を投じる事実でもあった。
「出来るはずだ。クリケット、テニス、サッカー、最低でもこの三つは出来るように仕込まれる。」
若き侯爵の言い方が断定的で、まるでその慣例に反抗しているようにさえ思える。
「どんなに否定しようが、奴だって侯爵家の人間なんだ・・・。」
「侯爵様・・・。」
吐き捨てるかのような言い方に、侯爵様の苦悩が見える気がした。
セイラが侯爵家を出たように、この青年も出たいのかもしれない。あるいは、出てしまったセイラを羨んでいるのかもしれなかった。
「よせよ、そんな呼び方。ユーフューズって名前があるんだぜ。俺、お前にはちゃんと名前で呼んで欲しいんだ。」
「ユーフューズ、さん・・・発音、難しい。」
日本人の由良にはかなりの難物だ。うまく発音できる自信が無かった。
「でも、呼んでくれ。昔はセイラも、俺をそう呼んでくれていたんだ。・・・よし、見てろよ、由良。俺だってロックだろうがジャズだろうがフォークだろうが、なんだってイケるところを見せてやるからな。気に入ってくれたなら、俺の事も褒めてくれよ。」
カウンターにグラスを置くと、素早く小さな舞台の方へと歩き出した。バンドのメンバーと何かを話し合っているが、すぐに話がついたのか、ギターを担当していた中年の男性が楽器をユーフューズに丁寧に手渡す。ユーフューズはすぐにベルトを身に付け、軽く弦をかき鳴らすとギターの調律をし直す。
そして、その様子をキーボードの椅子の上から見守っていたセイラがやがてその青い目を見開いた。ギターを交代した若者が誰であるのか、瞬時に理解したようだ。変装していても、セイラには一目でわかるのだろう。由良でさえすぐにわかったのだから当然だ。
しかしセイラは何も口を挟まず黙って彼の調律が終わるのを待っていた。一瞬だけ由良の方を見て、再び楽譜に目を移す。
由良は暫くバンドの方から目を離せずにいたが、やがて誰かが再び傍らにやってきた気配に気付く。
「・・・ピーターさん。」
小柄なお守り役がそこに立っていた。
「こんばんは、お嬢さん。学校では侯爵様がお世話になっているようで、ありがとうございます。」
地味な黒っぽいスーツに身を包み、まるで影のようにそこに立ち尽くしているピーターの視線はバンドの方へ向けられていた。
「何年振りでしょう、兄弟で合奏なんて。」
「・・・侯爵家では必ず音楽をやらされるそうですね。」
「ええ。ですが、セイラ様はピアノが大層お好きでいらっしゃいました。私の護身術指南なんかよりもずっと熱心でしたよ。そんなセイラ様と合奏をするんだと仰って、ユーフューズ様もお小さいながら指が切れるほど練習なさって。それはそれは素晴らしくも愛らしい合奏でした。」
あの二人が小さな頃を想像すると、まるで天使のようだろうな、と考えてしまう。天使が奏でる調べを、由良も是非聴いてみたかった。
仲良くして欲しいなぁと心底思う由良ですが。