侯爵兄上様のお気に入り。
読んでくださってありがとうございます。
ワゴンに乗せたスイーツを厨房に戻したメイドが、ピンクのチェリーを一つつまんだ。
「コラっ駄目でしょエリア!」
「いいじゃあーん、別に。毒が入ってるわけじゃないし、お客様は結局一口も召し上がらなかったのよ。」
メイド頭のソフィアが、行儀の悪い新人メイドを窘める。
エプロンの裾で砂糖がついてしまった指先を拭く。
「早く片付けなさい。夕食の準備までに侯爵様やおつきの方々のお部屋のチェックをするのだから。」
「はあーい。」
渋々、と言った調子で新人メイドのエリアはワゴンをまた押した。ワゴンの上から数々のお菓子を丁寧におろして、専用の容器にしまう。もう一度、ちらっとだけメイド頭の注意が自分に無いことを確認して、容器からもう一つ小さなパイを取り出した。口に放り込みながら、こそっと片手をエプロンの裏側へ潜り込ませる。
かすかな、ほとんど聞こえないくらいの起動音がして、また彼女は手をエプロンの上に出す。
・・・超小型だからどうかと思ったけど、どうにか使えているみたい。
エリアは水色の制服の中に隠したそれを、もういちどエプロンの上から軽く叩いた。
チリンチリンと、のんびりした鈴の音が厨房に響くと、
「あ、私行きます。」
自分から申し出る。鈴の音は主人が呼んでいるということだった。もう一度お茶を持って行かされるのだろうか、とげんなりする。今日はもう5回目だった。人の出入りは多くても、普段はお茶を出すほどの客が来ることは少ない侯爵邸だ。新しい侯爵様はお客を館に呼ぶのがお好きな方らしい。
もっとも、正式な侯爵として爵位を継承したのはほん一ヶ月ほど前のことだ。それまでの彼は、侯爵の息子に過ぎなかった。長男ではないので、爵位を持つことが無かったのだ。
長男ではないのに継承候補の第一位として、長い間『卿』と呼ばれてきたアーサー・ユーフューズ・ティル様。
もっとも世間的には、誰もが彼を侯爵として扱っていた。他に候補者が誰もいないのだから当然のことだ。
前侯爵はとうに亡くなり、直系は彼一人。爵位を告ぐ年齢に達していないだけの、未来の侯爵として誰もが彼を認めていた。
その、新しい侯爵様の呼び出しに従って、本日何度目かの客室へノックする。部屋の外までお客様の声が聞こえた。
「どうして僕が貴方の縁談話を聞かなくてはいけないのですか。」
「俺じゃなくて、兄上の縁談話だからに決まってるだろう。セイラが帰国した事はとっくに社交界で広まってる。貴族の奥様がたの噂の的だったんだぜ。」
メイドのノックの音に、ボディガードの一人が反応してくれて扉が開いた。
客用ソファの上で長い脚を組んで座っているのが新しい侯爵で、その隣りで立っている外国人の女性が客だった。その向側に立っているのは、このところ邸内でも噂になっている侯爵様の『腹違いの兄』、セイラ・ティルだ。
「・・・ああ、エリア。そのホロ装置を持ち運べるように梱包してまたここへ持ってきてくれ。セイラに持ち帰ってもらうから。」
いつ聞いても、傲慢というか、横柄、というか。いぱった侯爵様の声だが、何故かなんとなく憎めない気がするのは雇い主だからだろうか。
「かしこまりました。」
「侯爵閣下、僕には必要ない。持ち帰る気などありません。」
「いいから持って帰れよ。5人分入ってるぞ、好きな娘を選んでくれよ、いつでもお見合いさせてやる。」
それ以上言っても無駄なことを悟ったのか、侯爵様の兄上様は外国人の娘の手を引いてこちらへ歩み寄ってきた。近くで見ても、よく似ている。
「・・・君、それはいいから。僕たちは失礼する。」
「は・・・?」
返答に困り、エリアは困った顔をして、装置を片手で持ち上げた。大して重いものでもない。
扉を開き、どうしていいのかわからず困惑する連れの女性の手を引きながらその場を去ろうとする彼に、侯爵様が声をかける。
「おかしいな、セイラ。会わせて上げたらハグとキスをしてくれるんじゃなかったのか。」
「この場では彼女が無事かどうか確認できませんので。失礼。」
その返事を聞くと、腹を抱えてげらげらと笑い出した侯爵様を尻目に、彼はさっさと館の外へ出る長い廊下を歩き始めた。
広すぎる侯爵邸を、後半はほとんど走って逃げ出すように出た。
その間、セイラは一度も振り返らない。手を引いている由良の方を確認することさえしない。彼女が付いてこられないはずはないと思っているのだろうが、表情一つ見せようとしない彼に、由良の方はいささか不安になってしまった。
・・・セイラ、怒ってる?私が、捕まっちゃったから?
通りに出ると、彼はタクシーを捕まえ、行き先を告げる。
「インペリアルホテル。・・・ん、ここからなら、ヒルトンの方が近い?どっちが速い?」
「そうですねぇ。時間から言って、インペリアルかな。」
「じゃ、そっち。出来るだけ急いで。」
「了解しました。」
頭頂部が大分綺麗さっぱりしてしまっているタクシーの運転手は、とても親切だ。
由良の顔をろくに見ずに、さっさと後部座席の奥へ押し込むと、自分は上着のポケットから出した端末を操作する。どうやら、今口にしたホテルの予約を取ったらしい。
「ねぇ、ちょっとセイラ。どうして?家に帰らないの?」
彼の表情の険しさに不安がる彼女が、どうして行き先が家じゃないのかを訝しく思うのは当然だ。
「帰ったら絶対あのピーターがあのホロ装置を持たされて玄関で待ってる。今の気分で再会したら僕は彼を殴ってしまいそうだ。頭を冷したいんだよ。」
また金髪をぐしゃぐしゃに掻いた彼は、掠れた声で唸るように言った。
頭を冷したいからって、市内の高級ホテルへ行くという感覚が由良にはそもそも理解不能である。
「どうしてそんなに怒ってるの?私がいけなかった?捕まっちゃったから?」
「君のせいじゃない。君に関係はあるけど君のせいじゃないんだ。」
「じゃ、どういうことなのか話してよ。」
不安でたまらない、と言った顔をする由良の方を、セイラがそれに始めて気がついたように見た。
「着いたら、話すよ・・・外では言えない。」
ずっとひいていた手を、そのまま握っていたことに気がついた。もう一度強く握る。
豪勢なホテルの玄関やらロビーやらをゆっくり堪能する暇も与えてもらえず、侯爵邸を出るときそのままの早足で部屋へ連れ込まれた。ジッとオートロックの音がして、ドアに施錠されたことがわかる。部屋に着いてやっとセイラは由良の手を離してくれた。
紺色の上着を脱いでポケットの中身を出し、備え付けの金庫の中へ放り込んだ。終始ピリピリした様子のセイラに、由良は竦んでしまっている。
綺麗にベッドメイクされた大きな目ベッドの上に腰を下ろしたセイラが、長い溜め息をついた。それから、両手を広げて彼女の方を見る。
「おいで。・・・怖かっただろう。驚かせてすまなかった。」
いつものような優しい笑顔を見せた彼に安心したのか由良も笑って、彼の目の前に歩み寄った。
立ったままの彼女を引き寄せてぎゅっと強く抱き締める。
「何もされなかったかい?・・・危害を加えられた覚えは?」
膝立ちになった姿勢で抱きしめられると、顔が彼の胸に押し付けられて少々苦しかった。
「何もされてないよ。・・・おもてなししてくれたのに食べられなかったのは寂しかったな。凄く美味しそうなアフタヌーンティー・・・紅茶さえなぁ・・・」
「僕がたくさんご馳走してあげる。本当に何もされなかった?何か言われた?」
「何も。だって、侯爵様は私を屋敷に置くとすぐに出てっちゃった。部屋に通されて、メイドさんが見張ってただけだったよ。」
「メイド?さっきの子かい?」
「うん。水色なんだねー、メイド服。とっても素敵だったな。」
「本当に、何もされてないの?」
「しつこいなぁ、セイラ。どうしたの。私が大人しく言いなりなるとでも思ってるの?」
「・・・確かめたい。」
かすれた声でそう言うと、セイラが腕の力を緩めた。やっと顔が上げられる。
由良の顔を凝視する青い目がすっと閉じられて、キスをする。由良も目を閉じてそのまま受け入れる。
「・・・本当に、どうしたの、セイラ。」
彼らしくない。今日の彼は本当にいつもと違っていた。微笑む余裕がないみたいに、ピリピリしているのがわかる。
「冷やしたいんだ。お願い、手伝って。・・・冷静になりたい。」
彼の意図が中々読めずにいる由良は、首を傾げるばかりだ。どうやってセイラの頭を冷したらいい?冷水でも浴びせる?
「ホテルの人にお水でも持ってきてもらう?それとも、シャワーでも浴びてさっぱりする?」
「君に溺れたら、冷静になれそう。」
彼の左手がそっと頬を撫でた。やっとセイラの意図がわかった由良は、沸騰したように赤くなった。
ひきつづき、よろしくお願いします。