大柄ボディガードのお気に入り。
浮気(?)してしまいます?
もてる男は辛いですねぇ。
端末の画面は変わらないかつての仲間の姿を映していた。真っ黒な髪と瞳、浅黒い素肌に目立つ白い歯が印象的だ。
「いいや。由良ちゃんからの連絡はない。・・・国際線が乗り入れる全部の空港へ問い合わせたが、彼女が税関を通った形跡もない。本当に日本へ帰国したのか?」
その事が信じられないかのような匠の表情が事実だと物語っている。
「そんな・・・わたしが聞いていた話では、BA機でフランスにトランジット後、AF機で日本へ向かったはずです。到着予定空港は成田でした。・・・今頃は東京について、どこかの宿泊施設に滞在することになっている。わたしが由良さんから聞いたのはそこまでです。宿泊施設は事前に知らされていないからまだ教えられないと言っていました。」
白い顔をして端末を凝視するセイラが、押し殺したような声を出した。
「・・・わかった。ありがとう匠。何かわかったらすぐに連絡をくれるかい?」
「了解した。・・・早く見つかるといいな。」
端末の通信を切った彼は立ち上がる。濃紺のブレザーを着て、出かける準備を始めた。
「セイラ。」
声をかけられて、初めてそこに愛子がいることに気がついたみたいな顔をする。それが寂しい。愛子のことなど眼中にないという彼の様子が辛かった。
セイラの店舗は臨時休業の札をぶらさげて、今現在はセイラと愛子二人しかいない。カウンターの椅子に座って端末の映像から目をそらした愛子はそんな情ない態度の店長をじっと見た。今、セイラの目の前にいるのは、消えてしまった彼の恋人ではないのに。自分なのに、彼はまるで愛子がそこにいることを認識していないみたいだ。
「どこへ行かれるんですか?」
「侯爵邸だ。・・・悔しいけど、もう僕にはユーフューズを頼る以外に手段がない。頭を下げてでも彼に由良を探してもらうように頼む。」
下唇を噛む表情がどこか幼くて可愛いとさえ思えた。
愛子はセイラとユーフューズの確執を全く知らないが、この表情を見る限り決して友好的な関係ではないことがわかる。
そんな相手に頭を下げてまで協力を要請しなくてはいけないのだろうか。由良は自分の意思で消えたのだ。セイラに何も告げずに。
そんな悔しい思いまでして探してやる必要があるというのか。
「セイラ!」
「ああ、ごめん。君には随分迷惑をかけたね。いつか、必ずこのお礼をさせてもらうから。今日は悪いけど戻ってくれるかい?」
やっと愛子の方を振り返った彼に、つかみかかるようにその両袖を握った。立ち上がって、ぐい、とその両手を引く。
「由良さんは、自分で貴方の前から消えたんですよ!」
「愛子?」
わずかに屈んだセイラの顔を目掛けて、思い切り顔を突き出した。ぎゅっと目を瞑り、彼の赤い唇に自分のそれを重ねる。
避け切れなかった彼は両袖を捉まれて愛子の身体を突き放すことが出来ない。力付くで引き離せばバランスを崩してしまう。自分はともかく、愛子が倒れてしまうだろう。仕方なく彼女にされるまま、彼女の気が済むまでそのままの体勢で耐えることにする。
一分も経たないうちに、彼女のほうが先に顔を離す。表情に落胆と悔しさが滲んでいた。震える指を、彼の袖からゆっくりと離す。
「・・・ごめんね。」
掠れた声で短くそう言うと、愛子の口紅が付着してしまった口元を軽く指先で拭った。そんな仕草さえ、たまらなく魅力的だ。
「貴方の目の前にいるのはわたし、ですよ・・・?」
泣き出しそうな思いつめた声で呟く。
「由良がどこにいても、僕には彼女しか見えない。例えこの世にいなくなったとしても、他の誰も愛さない。・・・彼女は僕以外の異性を受け付けないし、僕だってそうだ。僕も彼女以外のどんな女性も受け入れない。彼女のように体が拒否反応を起こさないだけ・・・だから、ごめんね。」
セイラが坦々と愛子の誘いに乗れない理由を述べる。最後の謝罪にだけほんの少し、彼らしい優しさが含まれている。
「そんな、の、おかしいですよ・・・、貴方は、障害のある由良さんを放っておけない。それだけです。」
訴えるようにそう言うと、もう一度愛子はセイラに抱きついた。彼の背に腕を回して強く抱きしめる。
セイラは逆らわず、そのまま受け止めた。軽く彼女の肩に手を置いて、撫でるでもなく、抱くでもなく。
「彼女の障害は僕にも責任がある。放って置けないのは当然だし、・・・彼女があんなふうになる前からずっと、彼女を好きだったんだよ。」
「どうして、どうしてですか?貴方を捨てて行ってしまったんですよ?」
「何回見捨てられたって追いかけ続けるよ。僕はとてもしつこいんだ。絶対に諦めたりしない。・・・一度は他人のものになった彼女を諦め切れなかったんだから。」
ここにいない由良を非難する愛子の言葉に、彼はどこか恍惚としたような表情でそう答えた。
捨てられても追いかけ続けるなんて、考えようによってはちょっとストーカー気味なのでは、と一瞬考えた愛子だったが、セイラのにっこりと微笑んだ顔を見るとそんなことはどうでもよくなってしまう。
ストーカーだろうが、ちょっとぐらいしつこかろうが、この人だったら許せる気がしてしまうのだ。
そして、自分もこの人にそこまで思われてみたい、と思って目に涙が浮かんだ。それは永遠に叶うことの無い希望だから。
「愛子のことも好きだよ。・・・出来たら、由良のいい友人になって欲しかった。由良はとても君を気に入っていたから・・・。」
「・・・!由良さんのために、私が必要だって、そう言うんですか!?」
「うん。だけど、そんな事普通は出来ないよ。気まずいにも程があるしね。・・・君の気持ちを考えたら、とてもそんな事は望めないだろう。その程度のことは僕にもわかるつもりだよ。・・・だから僕はただ君に謝ることしかできない。巻き込んでしまって、迷惑をかけてしまった。・・・必ずお礼はするから。」
愛子の脳裏に由良の姿が浮かぶ。
地味で色気もなくて、けれど、いつも穏やかで明るい娘。自分の恋人を好きだと思う愛子の気持ちもちゃんと知っていた。それでも彼女は、愛子がセイラの元で働くことに賛成してくれた。気付いていたのに、愛子を遠ざけるような事はしなかったのだ。
自分と会うときはいつも屈託のない笑顔で迎えてくれて、心から嬉しそうに語りかけてくる彼女の事が、どうしても嫌いにはなれないと思った。恋敵だとしても。英国を出ることを愛子に教えたのは、セイラの頼みたいからだと、そう言って。
・・・セイラは何があっても動じないだろうとは思うけれど、愛子さんの助けが必要になるときがあるかもしれないから、その時には彼の力になってやって下さい。
手渡された車のナンバーの出所は、セイラにとって重要な情報になるかもしれない。ならないかもしれない。しかし、由良には意味の分からないそれも、愛子やセイラならばちゃんとわかるはずだ。
貴方はそれでいいんですか、と尋ねると、気軽くうん、と頷く。
・・・私は、もう大丈夫。
侯爵家が彼女の障害のことで彼女を疎んじていることはわからないことではないけれど、かと言ってそれを許していいのだろうか。愛子の中の、かすかな正義感がそう言うけれど。
これで彼女がいなくなれば、セイラはフリーになるのだ、という下心を捨てられなかった。
由良がいなくなって傷心の彼に迫れば、などと余りにも短絡的だけれど。案外、男と言うものは寂しがりやだから簡単に落ちてくることが多い。それを愛子は経験上知っている。
「なんだ、あいてんじゃねぇか。おい、どうし・・・」
店舗の出入り口から入ってきた叔父の静流が、抱き合っている二人を見て硬直する。
「なぁっ!?こりゃ、失礼しましたっ!?」
入店して一歩で再び出て行った叔父の動きがあまりにコミカルで、思わず笑ってしまう。腕の力を抜いた一瞬に、セイラはさっと愛子を離して叔父を追いかけて行った。
「誤解だよ、静流。」
「ちょっと待てよ、セイラ。今のは由良ちゃんじゃなかったよな?どういうことだ。お前、まさか浮気・・・」
「誤解だって言ってるのに。この大変なときに、もう。参ったな・・・。」
思わず頭をぐしゃぐしゃとかき始めた甥っ子に迫り、問い詰める。
「浮気じゃなきゃなんだよ?由良ちゃんはどこだ?まだ学校か?店が休みってどういうこった?」
「静流は何か手がかりを知らないかい?由良ちゃんが消えちゃったんだ。・・・足取りが全くつかめなくてもうお手上げなんだよ。」
「なんだと?どういうことだ。」
「三日前の夜からずっと連絡がつかない。探しているんだけど、わかっているのは、侯爵家の誰かの手引きで国を出たってことだけなんだ。・・・日本へ向ったはずなのに、あちらには到着した様子も無いって言うし、手を尽くしたんだけど、もう僕にもどうにも。これからユーフューズに頭を下げて彼女を探してもらうよう頼みに・・・。」
「馬鹿野郎!なんでそんなことになったんだよ!お前、まさか由良ちゃんに堕胎を進めたりしたんじゃないだろうな!?それで他の女に手を出してんじゃないだろうな!?」
青い目が、大きく見開いた。
「堕胎・・・?」
「あの子妊娠してんだぞ。まさか、お前、知らなかったのか!?」
呆れたような静流の表情。
「そ、そんなこと、一言も・・・。」
うろたえる、というよりも狼狽の余りそれ以上言えなくなった甥に、心療内科医は歯噛みするように叫んだ。
「ちゃんと、二人で話し合えって、あんなに念を押しておいたのに!」
「待って静流。それ、本当なの!?彼女、僕の子供を・・・!?」
「カルテを見る限り妊娠は間違いなかった。誰の子かまでは確かめるまでもねぇだろうが!由良ちゃんがお前以外の男と子作りするわけないんだからな。」
突然セイラが、その場に膝を付いた。
小さく十字を切って、両手を組んで胸につける。左の目から一筋の涙がこぼれていた。
「お、まえ・・・。」
彼の行動に驚いた静流は、どうしていいかわからずその場に立ち竦んだ。
店から恐る恐る出てきた愛子が、その様子をじっと見守る。
英語で感謝と賛美の言葉を小さく述べているのがかすかに聞き取れた。そこで、やっと静流は、ティル家がクリスチャンであることを思い出す。
「嬉しい、の、か。」
「嬉しくないわけ、ないでしょう。諦めてたんだ、彼女も、僕も。口には出さなかったけど、・・・子供は欲しいに決まってるよ。でも、彼女の過去を思うととてもそんなこと口に出せなかった。結婚することさえ二の足を踏む彼女にどうして僕から僕の子供を産んで欲しいなんて言えるの。ずっと自分の体がまともじゃないと卑下していた彼女に、そんなこと言えるはずなかった。生きて僕の傍にいてくれるだけでも有り難いことなのに、その上そんな高望みなんて出来ないと思ってた。」
愛子の口紅を拭ったその指が、彼自身の涙を拭う。
彼女が目の前にいなくても、彼女が自分の分身を宿しているのだと思っただけで涙が出るほど幸せな気持ちになれた。
望めないと思っていたのに。
元々彼女はこの世界の住人じゃない。だから、そんなことは有り得ないだろうと思っていた。
乱暴されたという過去のせいもある。彼女が発育異常で悩んだという過去のせいもある。色々な事情で子供を望むなどおこがましいのだと思っていた。
だが、ふと現実に立ち返れば、健康な男女が避妊もしていなかったのだから、充分に起こり得ることでもあるのだ。
「そうと知ったからには、どんなことをしてでも彼女を見つけなくちゃ。」
そう呟くセイラの表情には、先ほどまでの思いつめた様子は全く無くなっていた。ずっと彼にあったピリピリとした緊張が完全に消えている。まるで、頭の中にお花畑が広がっているかのように、妙に浮き立った様子に変化していた。
「お、おい・・・セイラ?大丈夫か?」
「大丈夫に決まってるでしょ。僕は父親になるんだよ、子供と妻を守れなくてどうするの。・・・ユーフューズに殴られるくらいどうってことないよ。」
「侯爵邸にいくつもりか?」
「うん。どんなことをしてでも由良ちゃんを見つけて連れ戻るから。」
余りにも明るく、まるで彼の恋人のような底抜けな明るさでそう言ってからセイラは店舗から出てきた愛子に笑いかけた。
「聞いてたの?」
「ハイ・・・。おめでとう、ございます。そう言うべきなんでしょうね。」
赤い目になってしまった愛子は、ショックを隠すように片手で顔を隠した。それでも、それだけの言葉が出たのは、大人の女性としてのプライドがあるからだろう。
「ありがとう。君が良かったら、また来てくれる?」
「・・・そうですね。お店の営業が再開できるようでしたら、またお昼から参ります。」
強がって言っているのかもしれない。振られた事実を認めたくないのかもしれない。愛子はどうにか微笑んで頭を下げる。静流にも軽く会釈し、走るように早足で駆け去った。
訝しそうに彼女の後姿を見つめながら、
「ありゃ、誰なんだ?」
静流が尋ねた。
「大使館の人。・・・由良ちゃんの行方について尋ねてたんだ。由良ちゃんとも親しかったから。」
「それで抱き合ってたわけか?」
ニヤリと笑って揶揄する叔父に、
「だから、誤解だってば。僕と彼女はそんなんじゃないよ。ただのはずみだ。」
本心から困ったように弁解するセイラは、叔父を促して歩き出す。
「・・・どーだかなぁ。お前は優しいからな、女も自分に都合がいいように解釈するんだよ。」
「僕は浮気なんかしない。」
きっぱりと言い切って、セイラは店へ戻った。静流もそれに倣う。
「せっかく来てくれたんだから、何か飲んでく?」
「アイリッシュコーヒーをくれ。」
「今日の商売はもうおしまい?」
「・・・俺は今日は学会だったんだ。早く済んだから、ちょっとお前と由良ちゃんの顔を見ようかと思って寄ったんだよ。」
お湯を沸かして、豆を挽く音が店内に響く。他に誰もいないために、一層その音がはっきりと聞こえた。
「今日、侯爵邸に行くのなら、俺も一緒に行くよ。行方不明なんて、ただ事じゃないだろう。」
「侯爵家が彼女を手引きしたことはわかってる。でも、多分それはユーフューズじゃないんだ。彼なら、由良を浚っても国外へ逃がしたりはしない。逃がしたら僕だって逃げることを彼は知っているからね。僕を国外へ出したくないのなら、彼女だって出さないはずだ。・・・でも、彼女が英国を出国した事は確かなんだ。その先がわからない・・・。」
アイリッシュコーヒーの独特の香りが漂い始めた。専用のカップに注いだそれを、静流の前にそっと置く。
セイラはついこの間不本意ながらも来たばかりだが、静流が侯爵邸を訪れるのは本当に久しぶりだった。
「相変わらずでけぇウチだな。」
感心するというより、呆れたような言い草だった。
門で出迎えてくれたのは、侯爵様のボディガードの一人の巨漢だった。初対面の時、腰を押さえていたのは由良に叩きのめされたせいなのだと彼女から聞いたのだ。
「ようこそおいでくださいました。」
丁寧な物腰で答える黒スーツの男は、軽く頭を下げる。
「侯爵様はいらっしゃいますか?」
気持ちが急くのを堪えて、掠れた声で尋ねた。
「現在はパリへお出かけです。パリからミラノへ向かってそれから戻られる予定になっています。」
「・・・!?今、イギリスに彼はいないのですか!?」
「ええ。婚約者の姫君のドレスをパリのデザイナーとミラノのデザイナーで競わせて作らせていらっしゃるので、それをごらんになりに。婚約披露パーティーはもう今週末ですから、前日の晩に戻られると思います。・・・セイラ様もご出席のご予定でしたね?」
「しかし、僕は今、パートナーがいないから欠席しようと・・・。」
「出席なさいませんと、主人に会うのは当分は難しいでしょう。披露の後、侯爵様は婚約者様を伴って領地の視察へお出かけになります。」
魂胆が見えた気がした。
セイラ一人でパーティに出席させて、侯爵の選んだ女性をエスコートさせることで婚約へ持ち込んでしまおうとしているのだろう。
パーティーの後で婚約を破棄することも、あるいは婚約者ではなくその場だけのパートナーだったことにすることも出来なくはないが、それは相手方に大きな恥をかかせることになりかねない。侯爵家に直接関係のない人に迷惑をかけることは出来るだけ避けたかった。
しかしもうそんなことは言っていられない。
誰に迷惑をかけようが、誰を傷つけることになろうが、そんなことを気にしている余裕などはない。
由良を探してもらうためには、どんなことだってしてしまうだろう。
「・・・わかりました。出席します。出席すればユーフューズに会えるのですね?」
「それは保障しますよ。何しろ、パーティーの主役なのですから。」
サムと呼ばれているボディガードは、主人に指示されている通り答えた。
彼女はどこへ消えてしまったのでしょうか。