高貴な継母様のお気に入り。
ついに英国を出てしまいました。
元々、生活に必要最低限のものしか無い。荷物をまとめるのには大して時間も手間も必要なかった。
設備は全て部屋に備え付けてあったものだし、由良がわざわざ買って増やしたものは大してなかった。冬の寒さに耐えかねて買った厚手の毛布、そしてセイラが買ってくれた毛皮のコートくらいだ。衣類もほとんど増えてはいない。スーツケース一つに充分収まる。
由良は、セイラが侯爵に招待されているパーティの一週間前にイギリスを発つことに決めた。それが明日だ。頃合的にも充分だし、怪しまれないほど猶予のある時間を取っている。
クラスメート達には何も言っていない。知っているのは、テオ扮するユーフューズのみだ。彼が周囲に由良の事を吹聴する理由などなかった。その彼も、明日発つことまでは知らない。
知っているのはあの水色メイドのエリアと、大使館勤めの友人の萩原愛子、そして由良自身だけだった。
セイラには、いまだに妊娠の事を話してはいない。
進められた検診には一度だけ行って来た。静流に言われたいつもの健康診断、と言って。産婦人科では、まだ二ヶ月ほどだと言われた。自覚もなければ、それらしい兆候も無い由良自身は、未だに実感が湧かない。見せられた胎芽の写真もなんだかよくわからないし、生理不順はいつもの事だし、腹痛もつわりらしいものも全く無いのだ。救急病院で検査されなかったら、今も気づかずにいたかもしれない。
明日の正午の便でイギリスを発ち、フランスのパリで乗換後、日本へ直行する。
静流はまだ、由良が日本へ戻ることへ賛成してくれていない。日本へ戻ることで、改善した由良の症状が再び悪化するのではないかと懸念している。だから、勿論静流にも伝えてはいなかった。
実は、一番由良が恐れていたのはそれだったのだ。
セイラと離れて日本へ戻った自分が、万が一暴走したら、誰が由良を止めてくれるのだろう。
エリアがそんなことまで考えてくれているわけが無い。結局彼女は侯爵家であり、由良がセイラとは関わり無く消えることが重要であって、消えた後の事までは感知しないのだ。お金で済むことは面倒を見るだろうが、それだけではどうにもならないこともある。
このまま行けば、由良がセイラに会う最後の夜が今夜となる。
・・・必ず迎えに行くから。エリアの言うままに動いて。滞在予定の場所を日本に着いたらすぐに匠に知らせるんだよ。
あの日、熱いシャワーの下で約束した。絶対に別れたりしない。必ず一緒になることを、彼は堅く誓った。
嬉しかった。たまらなく嬉しくて、泣き崩れた。
セイラを信じる。そう思っていながら、心のどこかで諦めてもいた。
息が詰まる、と思ったほどの監視を受けながら、果たしてセイラが由良を迎えに来ることなどが出来るのだろうか。
もしかしたら彼は約束を守れないかもしれない。日本まで迎えに来ることなど出来ないのかもしれない。でも、それは決して彼のせいではなく。
それでも、いい、と思った。
あの日、エリアにはっきりと言った言葉に嘘は無かった。
・・・もう私は一人じゃない。・・・だから、セイラがいなくても生きていけます。
実感は全く湧かないけれど、それでももう、由良は一人ではないのだ。新しい命が自分の中に宿っていることを知ってからは、自分が変わった気がする。
誰に必要とされなくてもいい。
だって、自分にはこの命がある。この命があるのならば、生きていける気がするのだ。
子供は無条件に自分を必要とする。何の理由も、条件も必要ない。由良はそれをすでに知っているのだ。だって、自分がそうだったのだから。
由良が幼い頃は、何の理屈も無く父と母が好きで必要で大切だった。それが親子の絆であることを本能的に知っている。
発作が起こって暴走しそうになっても、必ず堪えて見せると強く思っている。セイラのために耐えられたように。
子供を守るためならばどんな事だって耐えられるのが母親だった。それを由良は知っている。知っているのだから。
ジャージから普段着に着替えて、首に身につけたリングをはずし、何もなくなった机の上にそっと置く。
小さなその輪に、彼の両親が込めた思いをセイラ自身がどこまで感じているのかはわからないけれど、大切なものだということは理解できる。たった一つの、彼の両親の形見なのだ。二つとない大事なものを由良に預けたことが、彼の真剣さを物語っていた。
それだけで充分だった。セイラは自分にかけがえのないものを与えてくれた。彼以外の人とは絶対に望めないこの新しい命があるならば、彼がいなくても生きていける。だから、もしも彼が迎えに来てくれなくても、約束を違えたと恨む気持ちも無い。
ネックレスの隣りには、古くなって光沢を失った合成皮の黒手袋を一対。リングを置いていくのは、エリアにこれをはずすようにと釘を刺されたからだった。
・・・ティル家の紋章の刻まれたそれを、お持ちいただくわけには参りません。
貴族の紋章にどれほどの意味があるのかはしらないが、下手なことをすると罪に問われることさえあるという。だったらその紋章を潰してしまおうかとさえ思ったけれど、セイラからもらった大事なものにそんな乱暴はしたくなかった。あるべきところに帰るのならば、それでいいのかもしれない。セイラの気持ちは充分に伝わったのだから。
黒い皮の手袋は、もはや彼と自分しか覚えていない秀の形見だ。それをリングを一緒に置いていくのはどちらも形見だから、という理由だけではない。セイラと共有する記憶の縁と言う意味で、秀の手袋は二人に取って大事なものだった。大切なものを置いていくのだと、そういう意味を込めて。きっとセイラならばわかってくれるだろう。
日本に戻ったらもう一度検診を受けよう、住める場所を頼まなくては、子持ちでも働ける職場を探してもらえるだろうか、などと色々と考える。
そうやって考えていなくては、二度と会えないかもしれない恋人に会う勇気を持てない。笑っていつものように会うことが出来なくなってしまう。
綺麗で優しい金髪の青年。
ずっと由良の事を好きだったのだ、と言ってくれた。その事実だけでも由良に取っては青天の霹靂と言ってもいい衝撃だった。
料理が上手でいつも美味しい紅茶を淹れてくれて、由良をずっと支え続けてくれたよき理解者で、保護者でもあった。
随分傷つけてしまったし、心配も迷惑もたくさんかけてしまった。償っても償いきれないほどに、いくら埋め合わせてもたりないほどに、彼に尽くしてもらったことを何よりもありがたいことだと思っている。何一つ返せないままに別れてしまうかもしれないけれど。それは本当に申し訳ないと思うけれど。
「・・・これは、賭けだ。」
セイラが本当に自分を迎えに来てくれるのか、それともそれを断念してしまうのか。
出会ってからずっと自分を支えてくれた彼に最後までそんな負担を強いてしまう自分が辛いけれど、きっとこれが乗り越えなくてはならない壁の一つなのだろう。
鍵と端末だけを手にして、自分の部屋の鍵を閉める。その鍵と端末も、エリアに指示されたとおり、こっそりとセイラの部屋へ置いてきてしまう予定だ。
自分の職場である彼の店に向かう足はいつも通り速く、いつもの自分となんの変わりも無いように。
これが最後になっても。ならなくても。
明るいままの自分でいようと強く心に決めて、歩き出す。
侯爵邸の執務室で肩肘をつきながらぼんやりと電子書類に目を通していたユーフューズは、執務机の片隅に置かれていた立体映像装置に気がついた。
・・・ああ、セイラがから突っ返されたアレだったっけ。
彼のお見合い相手が浮かび上がるその装置に軽く手を振れて、流して見る。
5人の令嬢達のホログラムとプロフィール。どれも侯爵家に相応しい格式と由緒ある家柄の娘達。彼女たちの何人が、侯爵家への嫁入り道具だと自覚しているのだろうか。ユーフューズがこの5人の中からセイラの相手を選んでも良いことになっていた。
ユーフューズ自身の婚約者はすでに決められている。実を言うとまだ会ったこともないのだ。映像で見る限りは愛らしい美少女でユーフューズ自身よりもさらに三歳若い。
何故か、由良の顔が頭に浮かんだ。
一緒にサッカーをやって汗を流す彼女の笑顔が浮かんでは消えた。
部屋へ押し入って犯そうとしたときの、恐怖に怯えていた様子が思い出され、大きな傷痕と、その直後に殴られた痛みをも思い出した。
『由良は僕以外の男性を一切受け入れない。』そう言って初めて自分に手を上げた、セイラの沈痛な表情も。
あの言葉は明らかに彼女が抱えるトラウマの弊害あることを示している。受け入れたくても、他の男を好きになりたくても、出来ないということなのだろう。
セイラと別れ、無事に日本へ戻って普通に暮らし始めたとしても、彼女は二度と恋は出来ないし、誰とも添い遂げることもない、ということ。
はたしてそれが由良の幸福に繋がるのだろうか。
日本がどんな国なのか、若き侯爵は殆ど知らない。知りたくもなかった。自分の父親をたぶらかした女の国の事など、知る必要はない。
でも何故か、由良がこれから帰って行くのかと思うとやけに気になった。
父親のように好きな女を作ってその女と添い遂げようなどと言う気は全くなかった。ユーフューズは侯爵である。そんな自由が許されるわけがない事を重々承知していた。決められた婚約者が例えどんな女性であっても、結婚を拒否できるものではない。恐らくは相手もそうだろうが。
だから女性にはだらしがなかった。本気で好きな女性など作る気持ちも毛頭なかった。玄人さんとも素人さんとも散々遊んだのである。ユーフューズは自分が女性に好かれる条件を満たしていることに自覚があったし、それを当然だと思っていた。
あんな地味で色気のない外国人の娘など、どうして気になるのか。最初はセイラの女だから注目していただけだったのに。
知れば知るほど、一層セイラの好みが理解できなかった。どこがいいのかさっぱりわからなかった。地味で頭が切れるようにも見えず、色気のない娘。運動能力だけが並以上というくらいしか特徴がない。
今だって、別にいい女だと思っているわけではい。
ただ、なんとなく、不幸になるのは寝覚めが悪い気がする。
自分を裏切った兄が安穏と幸福に暮らしていることが許せないのとは反対に、彼女があの明るさを失うような辛い人生を歩むことは想像したくなかった。不幸にしたくないと、痛切に思うのだ。
「馬鹿みたいに、笑ってりゃいいんだ・・・。何も考えず、何も知らないで。」
笑っていて欲しい。あの底抜けな明るさで。
難しいことも面倒臭いことも、厄介なことも怖いことも、全て笑い飛ばして。そうしていて欲しいのだ。
全然、タイプじゃない。少しも色気なんか感じない。服を脱がせても、彼女の傷痕に驚いて、欲情などしなかった。それなのに。
由良が不幸になるのかと思うだけで、胸が痛くてたまらない気がするのだ。
若き侯爵がすっと立ち上がると、同じ執務室に控えていたお守り役とボディガードも立ち上がる。
「・・・サム、調べてもらいたいことがある。」
「なんなりと、侯爵様。」
大柄なボディガードは執務机の前に立って、主人の指示を聞くために傍へ寄った。
ピカデリー・サーカスに現れたセイラは大使館のビルの階段を早足で登った。年中故障するエレベーターなどあてにしていられない。
受付で立ち止まって、IDカードを掲示し、要求を伝える。
「萩原愛子さんに面会をお願いします。」
「しばらくお待ちください。」
目の前の金髪の美丈夫だあまりにも流暢な日本を話したので受付嬢はびっくりしたように目を丸くした。
奥のオフィスから、スーツ姿の愛子が慌てたように受付へ歩み寄ってきた。
「セイラ!どうなさったんです。こんな場所へいらっしゃるなんて・・・お店は?」
「由良ちゃんがいなくなった。」
両手で自分の口元を抑えた彼女がはっとしたようにセイラを見上げる。
セイラの青い目が射竦めるように愛子を見た。いつも柔らかくて優しい視線なのに、こんなに強烈な見つめ方も出来るのだと思い知る。
「その様子だと、何か知っているね?昨夜から彼女とまったく連絡がつかない。端末も鍵も僕の部屋へ置いていってしまった。彼女の事、知っているのなら、教えて。」
愛子はしばらく何も言わずに立ち尽くしていたが、受付嬢に何かを頼み、セイラに会議室を指差した。こんな場所では話せない、ということだろう。
狭い会議室に入ると、彼女はポケットから小さなメモを取り出して彼に示す。
「由良さんから頼まれた車のナンバーを調べました。・・・南海岸ブライトン、ティル家別邸に登録されていたものです。由良さんは、ここにお住まいの方の手引きで英国を出ました。ここにお住まいの方はどなたです?セイラ、貴方と一体どういう関係なんですか?」
驚愕に表情が強張った彼がそれに答えるまでには、わずかな時間が必要だった。
「現侯爵夫人・・・ヘレン様のお住まいだ。僕の父の後妻で、現侯爵ユーフューズの実の母親。実質的に侯爵家を動かしているのは、彼女の方だ。」
水色のメイド、という時点で彼女が裏で糸を引いていることは予測していた。
侯爵家の全ての館でメイドたちが水色の制服を着るのは、侯爵夫人の命によるものだからだ。中でも彼女が手足のように使っている女性たちは普段着さえ水色を着ているのだと、由良から聞いていた。私服のエリアを見た由良がセイラに伝えたのだった。たかが服装と思ったが、由良の中で何かがひっかかっていたのだろう。元来服飾品に興味のない彼女が気にするのだから、何かを意味していると感覚的に悟ったのかもしれない。
自分と由良への強烈な監視も、侯爵夫人によるものだった。
一年以上前、南海岸で暮らす彼女に帰国の挨拶へ寄ったセイラは、暴走した由良を救うために侯爵夫人の手を借りた。海兵隊どころか、ロイヤル・ネイビーまで出動させてくれて、申し訳なくて頭が上がらなかったことを覚えている。
だが、彼らがロンドンへ移り住んでからは全く干渉することもなく過ごしていた。
ユーフューズが18歳になり、新侯爵として爵位を継ぐまでは。
「その方が、何故由良さんを・・・。」
恋敵がいないほうが都合のいい愛子としては、由良が英国を出てくれたほうがいいに決まっている。
それでも、どこか納得がいかなかったのだろう。彼女が何故追い出されなくてはいけないのか、愛子にもその理由がわからなかった。
セイラに相応しくない、という理由はわからないでもない。相手は貴族の長男だ。一般人の娘が手を出していい相手ではない、というのならそれはわからないではない。
しかし、それならもっと早く彼女を追い出すべきだったのではないだろうか。こんな一年以上もの長い間二人を放置しておいた理由が理解できない。
「わからない。由良の何が夫人のご機嫌を損ねてしまったのかは僕にもわからない。帰国したばかりの頃は、夫人は彼女に好意的だったのに・・・。」
好意的だったからこそ由良を助ける手助けをしてくれたのだ。
夫人には最初に挨拶へ出向いたし、セイラは精一杯彼女への誠意を見せていたつもりだった。
そして、侯爵家へ戻るつもりもないことを伝えても置いた。戻らないことについては、彼女も納得してはくれなかったが、強制して連れ戻すことはしたくない、と言ってくれたのだ。
なのに何故ここに来て突然彼女を英国から追い出したりしたのだろうか。
その理由を、セイラは知る術がない。由良は、誰にも妊娠の事を言わずに消えてしまったのだから。
もう一度会えるのでしょうか?