侯爵夫妻のお気に入り。
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早急に帰国するとなれば、学校を辞める手続きも急がなければならない。
一年以上も在籍していた語学学校だけに、名残惜しいが仕方が無かった。クラスメートのテオやシュテファン、プオンやジュディス達には知られないようにこっそりと退学届けを用意する。
プオンとジュディスが由良の胸元に目をつけて、
「そんなの、してたっけ、由良。」
彼女の首を飾る小さなリングに疑問を浴びせる。
リングとは言っても、とても指にはめられるような大きさではない。はめられるとしたら幼児の指だろう。そのくらい小さな輪が鈍く光っていた。地味な鎖でネックレスになっているが、普段アクセサリーを全くしない由良だからこそ目立つ、という程度の、小さなものだ。
由良が手に取って軽く目の前に掲げる。
「・・・すっごく小さい模様・・・?みたいなのが彫られてる・・・?」
ジュディスが目を凝らしてそれを見つけたらしい。
リングの内側にこんな精密な彫り物がなされているという事が驚きだった。肉眼では、それが模様であることしかわからないので、何を表しているのかまではわからなかった。
「アンティークショップで買ったの。」
照れくさそうに呟いた由良が、それを再び手の中に握る。
「あ、もちょっと見せてよ由良。」
「なんか鳥みたいな模様だね。」
目敏いプオンがそう指摘する。
その模様の招待を、セイラが昨夜説明してくれた。
小さなリングには、二つの紋章が刻まれているのだそうだ。一つは、セイラの父親の家の紋章で、今ひとつは沢渡家の家紋。
・・・僕が、一歳の誕生日に両親から送られたものだそうだ。勿論、僕は覚えていない。姉からそう伝え聞いただけ。今度お出かけした時にでも正式なエンゲージリングを選ぼうね。それまで、これを婚約の証に持っていて。君が僕のものである証明だよ。
そう言って首にかけてくれたのだ。
宝飾品を異性から貰ったのは初めてだった。それだけでも舞い上がるには十分だったのに、彼の両親の形見と知って、緊張せずにはいられない。
・・・君ってアクセサリーを全く身につけないから、これが最初になるのかな。なんだかそれも嬉しいね。君の身を飾るはじめての装飾品が僕の贈った物だなんて。
そんな風に嬉しそうに笑って言われると、そんな大層大切なものは受け取れない、などと言って突っ返すことは出来なかった。
買った、とあえて嘘を言ったのはものの出所が怪しまれないためである。セイラに貰ったことがテオにばれたら、探られかねない。
傍の席で興味なさそうな風を装いながらも、黒髪黒瞳の変装をした彼は聞き耳を立てている。その証拠に、やがて身を乗り出してきて、
「俺なら・・・もっとでっかいダイヤの入った奴買ってやるぜ?」
などと軽口を叩いた。
由良は襟の中にそれをしまって見えないようにすると、口を尖らせて答えた。
「気に入っているんだからこれでいいの。ダイヤなんか入って無くてもかまいません。」
「ふーん?」
それから、変装した侯爵様は軽く指で何かを合図する。それから顎をしゃくって、学校の正門の方向を見た。
教室の窓から、大して広くも無い学校の敷地を囲う壁が途切れた門の所に、水色のワンピース姿のエリアが立っていた。
・・・メイド服じゃなくても、水色なんだ。
「お前にって。・・・お前、本気で日本に帰る気なのか。」
誰にも聞こえないような小声でそっと耳元に呟いたテオは、その声音に含まれた心配そうな感情に自分でも気付いていないのだろう。
「・・・エリアから聞いたの?」
「ああ。聞いた。・・・なんでだよ?セイラと喧嘩でもしたのか?」
テオのその言葉で、由良が妊娠した事までは知らないのだとわかる。知っていれば、こんなものでは済まない質問攻めにあうだろう。
「私が彼に相応しい女性じゃないことなんて、貴方にだってわかってたことでしょう。・・・当然のことじゃない。セイラにはもっと相応しい女性がいる。貴方が、彼にお見合いを勧めたような、お姫様が・・・ね。」
どこか諦めたような表情と声の由良が、彼女らしくなさ過ぎて。
テオはなんだかやりきれない気持ちになる。
・・・これでいいじゃねえか。セイラが何も知らずに由良が消えてしまえば、俺の望みどおり、セイラはさぞかし嘆き悲しむことだろう。
セイラがこの日本人娘をいかに溺愛しているのかは、充分に理解したのだ。だから、その彼女が目の前から消えれば、兄の落胆は目に見える。そして、自分が兄を英国から出さないと命じておけば、彼らの父親のように彼女を追いかけていくことさえ出来ないのだ。
兄の絶望を望んでいたはずの自分なのに、傍らの娘の、諦観した表情が辛く思えてたまらなかった。
彼が救急病院から屋敷に戻って三日後、エリアが自分に近寄ってきて耳打ちしたのだった。
「セイラ様のガールフレンドは、日本に帰国なさるようですよ。」
「由良が?」
「はい。」
「・・・なんで、また。まさかセイラも一緒に英国を出る気か!?」
「いいえ。彼女はセイラ様に何も言わず、気付かれぬようにこの国を出る事を約束なさったそうです。」
「何故だ。なんで、由良は・・・」
「外国の一般人の娘が、侯爵様の兄と添い遂げるなど到底無理な話だと、ようやくわかったのでしょう。」
ユーフューズは、水色の制服を着たメイドを見上げて睨むように凝視した。
「当然のことではないですか?侯爵様も、これでセイラ様を侯爵家にお迎えするのが楽になるのでは?」
平然と、むしろどこか薄く笑いを浮かべているかのような表情で念押しをするエリアを、軽く手を振って追い払った。彼女は素直に退室していく。
「~~~!!」
がたん、と音を立てて椅子が倒れた。立ち上がった拍子に倒れた椅子を、控えていたボディガードが寄ってきて直す。
ピーターの顎にはまだガーゼが貼ってあった。兄弟の喧嘩を止めようとして兄に顎を殴られたのである。
・・・これでいいはず、なのに。
お守り役さえ止められなかったセイラをあっさりと止めた由良の姿が思い出せる。薄い入院着一枚の格好で飛び出してきて、二人の間に割って入って、兄を止めた。初めての兄弟喧嘩は、情けないことに明らかに兄に軍配が上がりかけていたのだった。あれ以上やりあっていたら、本当にユーフューズは入院することになっていたかもしれない。そのくらいセイラは本気で弟を痛めつけたのだ。
二人の強い絆を見せ付けられ、そして、由良の言葉に、今までどんな人間にも感じなかったものを感じていた。
好きな人の弟だから、暴走しなくて済んだ。乱暴しようとしたユーフューズを見て、暴れなくてよかったと安堵して。少しも彼を責めようともせず。かと言って恐れもせず。
好きな人の弟だから、仲良くして欲しい。普通の、兄弟として。兄には優しくしろと、弟には労われと、いっちょまえに説教までして。
彼女が学校に来たとき、ユーフューズはどこか気まずい思いを消せなかった。謝ってさえもいなかった由良に、どう接していいかわからなかった彼を、彼女はいつもと変わらずサッカーに誘った。何事も無かったように振舞っていた。
この間の事を気にしていないのか、と尋ねると、彼女はまくしたてるように、しかも明るく答えた。
「いやー、気にしてるよ?部屋メッチャクチャだったからね。時間の経った自分のゲロとか掃除すんの、大変だったんだよ。責任取ってよーっていうくらい。でもね、少しだけ、感謝もしてる。私、一度暴走すると、自分では止められなかった。いつも、セイラに迷惑かけて止めてもらってた。はじめてあの時、自分で自分を抑えられた気がしたんだ。暴走して周囲に散々迷惑をかけて・・・挙句に自殺しようとするなんて、自分でも本当に性質悪いなって思う発作だからさ。貴方やピーターさんを半殺しとかにしなくて済んで、本当によかった。被害が自分の部屋だけで済んで、本当にすっごい進歩だなって思う。・・・多分、セイラの弟である貴方だったから、どうにか理性が効いたんだじゃないかなって思うんだ。」
余りにもあっけらかんと彼女が言うので、自然にユーフューズの口からすらすらと謝罪の言葉が出ていたのだ。
「あんなことして、悪かったって、思ってるよ。ごめんな、由良。」
「もういいよ。それより早くセイラと仲直りしてよね。」
それには、ユーフューズも苦笑するしかない。
あんな真似をした弟を、セイラは絶対に許さないだろう。承知の上でやったつもりだったのに。何故か心には後悔ばかりが残っていた。
「本当は、セイラだってユーフューズさんの事嫌いじゃないんだよ。」
被害に遭いそうになった自分自身よりも、加害者側のユーフューズとセイラの関係を修復することばかりを考えている彼女が不思議で仕方が無い。
そんな彼女が、あっさりと身を引いて国に帰るなんて。信じられなかった。
たかがセイラに、見合い相手のプロフィールを渡したくらいで、彼女が尻尾を巻いて逃げていくだろうか。
「なんで、だよ。・・・お前のセイラに対する気持ちって、その程度だったのか。セイラしか受け入れられないんじゃなかったのかよ?」
その声に滲んだ苦悩に驚いて、由良がテオを振り返る。
「なんで、そんなに平気そうに言うんだよ。お前は他の女とは違うんじゃなかったのか。貴族とかそんなの、関係ないって、ただの兄弟として仲良くしろって、お前そう言ってたじゃないか。なのに、なんでそう言ってたお前が逃げ出したりするんだよ・・・!」
「テオ。・・・私がいなくなるの、寂しいんだ?」
「馬鹿!」
「私服でも、水色のお召し物なんですね。・・・お似合いですよ。」
由良はお世辞ではなくそう言った。
確かに水色はエリアによく似合っている。ただそう思ったから素直にそう言っただけなのだら、エリアは酷く恐縮したような顔をした。
「ありがとうございます。主人に、水色のものを着るようにと進められているので。」
この場合の主人はユーフューズなんだろうか?などと密かに考えつつ、由良は彼女が差し出した小さな書類袋を受け取った。
「渡航できる日程は、そちらに入っています。ご都合の良い日を選んでいただけますか。」
「ファーストクラスだったらいいのにな。」
「空席があれば、そのように変更も可能です。便が決まったらお申し付けください。」
袋から日程表を取り出して、その日付を確認する由良が、指でそれを辿った。
「この最後の日。侯爵様からご招待されてるパーティの日だ。この日までには、私は英国を出なくちゃいけないって事だね?」
「左様です。」
「・・・パーティには、どこかのお姫様が彼と一緒に出ることになるの?」
「そんなことは、貴方が気にすることでは有りません。」
「じゃあ、私がこの女性にしたほうがいいってオススメしてもいい?」
「余計なことを仰らないで下さい。セイラ様には然るべきお相手がちゃんと決まっていますから。」
由良はくすっと小さく笑って、日程表を袋にしまった。
「退学届けは受理されたよ。あとは、部屋の方の契約だけど・・・そっちはセイラが全部やってるから、私にはどうにも。」
「そちらは放置していただいて大丈夫です。貴方が忘れ物が無いように出立して下されば。」
心の中で舌を出しながら、由良は神妙な顔をして見せた。
「日程は、明後日に伝えるよ。」
「かしこまりました。では、明後日に日本での受け入れ先での希望をうかがいます。」
「よろしく。」
無事に交渉を済ませた彼女は軽く会釈だけをして、通りに駐車している黒塗りの車にへ向かった。
前回とはナンバーが違うことを確認する。
帰国するふりでありながら、別の事にも動きます。




