救急医療医師のお気に入り。
彼以外の誰も受け入れられない彼女へのアプローチは難しい。
「・・・由良は、僕以外の男性を一切受け入れない。」
緊張に掠れたセイラの声が聞こえた。
いつも優しくて柔らかな微笑みを湛えている青い瞳が、今は憎悪に燃えていた。コートのポケットに突っ込んでいる両手の拳を出さないのは、殴らずに済むようにと自分を抑えているからに違いない。
「今度、由良に手を出したら、実の弟でも容赦はしない。もっとも、そんな事をしたら僕が手を下す前に彼女に殺されてしまうかもしれないけどね。」
冷笑と言ってもいい笑いを浮かべた兄の怖さに怯えつつ、怯える自分を叱咤する弟は頭を振って空元気を搾り出した。
「俺を殴らないのか。静流は、お前に殴らせるために自分は我慢しておくって言ってたぜ。」
精一杯の嘲笑を表情に出しているつもりで言う。その笑いが引きつっていることに、気付かないでいる。
「彼女が許しているのに僕が君を殴るわけに行かないだろう。ただ、優しい彼女と僕は違う。僕が水に流すと思ったら大間違いだ。」
「なんだよ!かっこつけてないで殴ればいいだろ!俺はあんたの女を犯そうとしたんだ。あんたが苦しんで怒る顔が見たくて、そうしたんだよ。」
「僕は喧嘩は嫌いだ。暴力を振るうのも振るわれるのも嫌なんだ。」
「すかしやがって。いつまでそんなお綺麗なことが言ってられるだろうな。」
その言葉は、またセイラの大切なものに手を出すと言っているような物だ。そう言われてはセイラも引き下がるわけには行かなかった。二度と彼女をこんな目に合わせたくは無い。
「・・・そんなにお望みなら殴ってあげてもいいんですよ。幸いここは病院だ、ベッドの空きもあるだろうし。」
「来いよセイラ!相手になってやる!」
コートを素早く脱いだセイラと、身体を屈めて構えたユーフューズの間に、お守り役が割り込んだ。
「お止めなさい侯爵様。セイラ様も、何が病院だから幸いなんですか。騒ぎを起こしていい場所ではないでしょう。」
「ピーターが先に僕の相手をしようと言うのですか。」
珍しく好戦的になっている兄を見て、弟は狂喜した。お守り役が止めるのもかまわずに兄の方へ躍り掛かる。狭い病院の廊下で乱闘が始まるところを、お守り役はどうにかして止めようとしたが、二人は止める気がないらしくピーターを完全に無視した。
病室の外が騒がしいことに気が付いて、由良がベッドから出た。静流がそれを制して戻るように手で指示するが、気になって戻ることも出来ない。当然病人であることも止めた理由ではあるが、彼女の格好が薄い入院着一枚だということも理由の一つだった。甥っ子の恋人を娘のように思ってはいるが、その薄着では目の毒にしかならない。黙って毛布に包まっていてもらいたかった。
大きな備品が壊れるような音や女性の悲鳴が聞こえると、もう由良はじっとしていられない。
「あ、こら」
そうなるともう静流になど彼女を引き止めることは出来なかった。格好になど頓着していられない由良はドアを開いて廊下に出る。ちょうど開いたドアのわきに、蹴られて後ろにひっくり返ったユーフューズが尻餅をついた。立ち上がる寸前に、セイラがその目の前に立って、彼の襟首を両手でつかみ、起き上がらせる。
「セイラ・・・!どうしたの、どうして・・・。やめてよ、やめて!」
普段から暴力を嫌っている彼が若き侯爵を痛めつけるなんて信じられなかった。しかも病院の廊下で、他の患者や病院のスタッフにも迷惑をかけていることにも気が付かずに。廊下の隅の方でやはり尻餅をついているピーターの姿が見えた。お守り役が止められなかったなんて。
セイラの背中に回り彼の背後から両肩を抑えた。それでも振り払われる。何か大声で喋っているが、早口過ぎてもう由良には聞き取れない。それに同じく早口過ぎて理解不能な英語で答えているユーフューズが懲りずに兄貴に向かっていく。
まずい、まず過ぎる。せっかく由良自身が暴走を我慢して被害を最小限に抑えたというのに、セイラやユーフューズが大きくしてどうするのだ。
もう背後からでは無理だと判断して、由良は二人の間に飛び込んだ。ユーフューズをかばう形でセイラの前に立ちふさがる。
素早い由良の動きに対応できず、セイラは彼女を避けることが出来なかった。一瞬彼の動きが止まった瞬間を狙って、彼の胸に飛び込むように抱きつき、止める。
「やめてって言ってるのに!!喧嘩は嫌いって言ってたセイラが病院でこんなことするなんて、信じられない。大嫌い!!」
力の限り抱きしめてセイラが動けないように下半身を踏ん張った。
由良の最後の言葉が功を相したのか、我に返ったセイラが目を大きく見開いて止まった。
「・・・嫌い?」
「そうだよ、どうしてセイラは優しいのに、ユーフューズには優しくしてくれないの!?自分の弟でしょ、どうして出来ないの!どうしてこんな乱暴するの!そんなセイラは嫌い。優しくない貴方なんか嫌い。・・・こんなにたくさんの人に迷惑をかけるなんて、貴方らしくない。」
言われて周囲を見回す。ざわつく院内で、多くの人がこちらを注目している。備品の椅子や棚の配置がずれていた。遠巻きに看護士が数人こちらを見ている。どうやって止めるべきか相談していたのだろう。尻餅をついて呻いているお守り役が視界の端に見える。
ここまで自分を見失っていた。由良に止められるまで、自分がしでかしてしまったことに気が付かないなんて。肩で息をしている自分が、信じられない、とでも言う風に、セイラは大きく深呼吸をした。そして目の前に仁王立ちしている自分の恋人の姿を見て赤くなる。目にも止まらぬ素早さで床に放っておいたコートを取りにいき、薄手の入院着一枚しか着ていない彼女を覆った。下着すら身につけていない、そんな格好で人前に出るなんて。
「由良ちゃん、病室に戻って。そんな格好で出てきちゃ駄目だよ。」
「それじゃあ貴方も戻って。もうこれ以上迷惑をかけないで。」
「わかった、わかったから、さあ。」
殴ることに慣れていない拳が痛むのか手で庇いながらもう一度病室に入る。彼を押し込むように入れた後、由良はユーフューズを振り返った。
「貴方も弟なら、お兄さんを労わってくれてもいいでしょ?それが兄弟なんじゃないの?」
それだけ言うと自分も病室へ入りドアを閉めてしまう。
廊下に残されたお守り役と同様に、床に尻餅を付いたままの侯爵様は無様な自分の姿を恥じ入り、穴があったら入りたい気分だった。先に立ち上がったピーターが、遠巻きにしている病院のスタッフの方へ謝罪に行く。兄に殴られたり蹴られたりした箇所を手で押さえながら立ち上がり、廊下の長いすに腰を下ろした。
上等なスーツがよれよれになってしまった。所々がほころび、汚れてしまっている。
「今、迎えを呼びましたので。」
お守り役が傍へ控える。
「ん・・・。」
ピーターが差し出した濡れハンカチを顔にあてた。冷えた感触が心地いい。
「なあ、なんで由良はセイラを嫌いなんて言ったんだろ?俺に兄貴を労われなんて言ったんだろう。」
お守り役は頭を下げたまま跪いている。
「あのお嬢さんは、セイラ様に対しても、侯爵様に対しても公平であろうとしているのです。普通の兄弟であれば、こうあるべきなのだとお二人にお説教したわけですね。」
「俺らは普通の兄弟じゃない。わかりきってることじゃないか。」
「彼女にはそう見えるのでしょう。あるいは、そうであって欲しいと望んでいるのではないでしょうか。」
「・・・普通の兄弟であって欲しいと望んでいる、の、か。」
ユーフューズは今日初めて兄と喧嘩らしい喧嘩をしたのだ。
まだ侯爵家にいた頃のセイラはいつでもニコニコと愛想がよくて、誰にでも優しい兄だった。だから、あれほど怒った彼を見たのも初めてだった。由良のためなら、あそこまで激怒するのだということを改めて思い知った気がする。・・・自分のために、果たしてあそこまで彼は怒ってくれるのだろうか。
幼い頃、セイラは自分を好きでいてくれている、実の弟として大事にしてくれている、その思いを微塵も疑ったことなど無かったのだ。
それなのに、彼は父侯爵の葬儀が終わらないうちに、屋敷を出て行ってしまったのだ。今思えば、葬儀で侯爵家全体が慌しかった時を狙っていたのだろう。急すぎる侯爵の死に家中が混乱していたのだ、脱け出すには絶交の機会と言えた。誰にも、何も言わずに、黙って出て行ってしまった。勿論ユーフューズにも、一言もなかった。そんなのが普通の兄弟と言えるわけが無いだろう。
不思議だ。何故自分はこれほど嫉妬にまみれているのだろう。セイラに愛されている由良に嫉妬し、由良に愛されているセイラに嫉妬する。侯爵として充分な地位も財産も得ていると言うのに、周囲を見れば女性に不自由することなどは無いのに、どうしてそんなにも満たされないのか。彼らに無いものをたくさん持っているのはユーフューズの方であるはずなのに、何故自分はこんなにもあの二人が許せないのだろうか。
病院の玄関から黒服の配下がこちらへ歩いてくるのが見えた。迎えの車が来たようだ。お守り役に促され、ユーフューズは重い腰を上げた。
病室では、病院のはずが仁王立ちしてセイラを叱り付けていた。
「どうしてあんなことしたの。大人気ないにも程があるでしょう。ユーフューズは私と同じ年なんだよ、腕付くで喧嘩するなんて、どうかしてる。」
「・・・ごめん。確かに、どうかしてたよ。」
右手の拳を擦りながら、椅子に腰を下ろしたセイラは申し訳なさそうにそう呟いた。年の離れた恋人にお説教されて、面子も何もあったもんじゃない。
「病院にもいっぱい迷惑をかけて。セイラらしくないったらないよ。そんなセイラ嫌い。」
「ごめん、ごめんてば。もう、しないから、嫌いだなんて言わないでよ。」
そんな痴話喧嘩を楽しそうに眺めている静流は、手元にある端末のカルテを何度か見直す。
「君の事が心配だったんだ。君に何かあったらと思ったら頭に血が上ってしまって、・・・考え無しだった、本当にごめん。」
「・・・許してほしい?」
「許してくれるでしょう?駄目?」
「ユーフューズと仲直りして。仲直りするまで、もうセイラと口を聞かないからね。」
さすがにその条件は無理だろう、と思った叔父が口を挟む。
「・・・由良ちゃん、もうそのくらいしてあげたら?君を心配してのことなんだから、そんな言い方は駄目だよ。」
「だって、静流さん・・・。」
「そんなことより、由良ちゃんはセイラと話し合うべきことが他にあるんじゃないのかね?」
暗に先ほどの診断結果について相談するべきだと言っている。由良は赤くなって、ごほん、と咳払いをした。
「え?一体何の事だい、静流。」
「俺からは言えない。・・・二人で話し合いな。んじゃな、俺はこの病院の救急担当医と話してこなくちゃならないんで、しばらくはずすぞ。」
端末を手にそのまま病室を出て行った静流を見送ると、セイラは飛びつくように由良を抱きかかえてベッドに座る。
「セイラ、ちょっと!まだ許したわけじゃ・・・!]
「話し合うことって何?」
「・・・今は、まだ言えない。」
「どうしてさ?話し合えっていうことは僕にも関係があるんでしょう。」
先ほど届けられた診断結果についてはまだ何も言えないと思った。
由良は、まだその結果を疑ってさえいる。何かの間違いでそんな結果がでただけ、とか。誰か他の患者のと間違ってしまっただけ、とか。
何より、本当だったとして、その後どうしたらいいのかまで考えられずにいた。自分自身の結論が出ていないのに、セイラに軽々しく伝えるわけには行かなかった。
だがセイラにここまで追求されて何も言わずに済ませるには、由良は余りにも知能が低すぎる。彼を騙すことなど出来るわけが無い。そこまで考えて、一つ思い当たることがあった。
彼にしていたもう一つの隠し事を、白状するにはいい機会かもしれない。
「・・・セイラ、怒らないで聞いてくれる?」
「うん、いいよ、何?」
「ユーフューズに口止めされてて、ずっと言えなかったんだけど。やっぱり言わなくちゃって思うから・・・。彼、今私のクラスメートなの。」
読んでくださってありがとうございます。