侯爵夫人のお気に入り。
救急病院へ搬送された彼女は。
救急病院に運ばれた由良はそのまま意識不明となった。
侯爵家の権力を傘に着て病院内でも上等な個室へ収容させると、かかりつけ医として連絡を受けたセイラの叔父が駆けつけてきてくれた。
病室で顔を押さえてぼんやりと立ち尽くすユーフューズを見もせずに、ベッドに横たわる彼女に繋がった多くの医療機器を確認していく。一通りそれが済むと、ようやく彼は振り返って侯爵とそのお守り役を見た。
「・・・セイラには連絡を?」
「いいえ、まだ。」
お守り役が答えると、静流は舌打ち一つしてすぐに手に持っていた端末で連絡を入れた。病院の場所と病室名、由良が意識不明であることを簡単に告げるとすぐに切れる。
「・・・成りだけはでかくなりやがったな、ユーフューズ。彼女に何をした。」
セイラにそっくりな外見を持つ彼の弟は何も答えない。答えられるわけが無い。兄の叔父に、兄の恋人の部屋へ押し入って乱暴しようとしたなどと、どうして言えるだろうか。貝のように押し黙った侯爵には何を尋ねても無駄だと判断したのか、静流は尋問の対象をそのお守り役に変更した。
「あんたなら喋れるな。・・・いいか、俺は彼女の主治医だ。あんたらが彼女に何をしたのかを知らなければ、どう処置をしていいいのかもわからねぇ。今カルテを見せてもらったがな、過度な心理的ストレスに寄る嘔吐であることしかわからねぇし、何故今意識不明になってるのかも原因不明だ。内科医が原因不明でお手上げって言ってるんだよ。」
わずかな間躊躇ったが、お守り役は重い口を開いた。
「彼女に、強引に関係を持つよう迫りました。まともにアプローチしても、どうにもならなかったのです。」
「・・・暴力を振るっただろう。」
「彼女が余りにも強くて、銃を持ち出さないわけには行きませんでした。侯爵様も殴られています。」
お守り役から再び侯爵へ視線を移す。
確かにユーフューズの左顎が腫れていた。由良に殴られたのだろう。
「馬鹿野郎が・・・っ!!覚悟しておけ、俺は殴らずに我慢してやる。可愛い甥っ子に一発分譲ってやるからな。セイラが知ったらユーフューズを殺しかねないと思えよ。」
「何故この女性はこんなに強いのですか。そして、何故急にあんなことに・・・。」
「彼女が強いのはそれだけ鍛えてきたからだ。そこになんの不思議もねぇ。だがな、精神の方は違う。一生消えないようなトラウマを持っている。他人と、特に異性と必要以上に接触すると恐怖の余り逆上する。わかるか、恐怖の余り、逆上して暴れるんだぜ?暴れた挙句に己を忘れて自殺へ走ろうとする。過去に二回、自殺未遂をしているそうだ。俺も一度だけ逆上した彼女に叩きのめされた相手に会った。そいつが五体満足に退院できたのが不思議なくらいだし、そいつは一生東洋人の娘には近寄れないだろうよ。周囲に迷惑をかけることを恐れて、彼女がどんなに苦労して生活しているかあんたたちにわかるか?・・・逆上した彼女を宥めて止められるのはセイラだけだ。」
診療内科医の説明を聞いて愕然とするユーフューズが、ぼそりと呟いた。
「・・・そんなこと、いくら調べても出てこなかった。それに、普段の由良はとてもトラウマがあるようには・・・。」
「当たり前だ。知ってるのは俺とセイラだけなんだからどうやったって洩れるわけがない。何事も無ければ、彼女は普通の娘だからな。」
「とんだお嬢さんだったのですね。・・・侯爵様、セイラ様がお付きになる前にさっさと逃げたほうがよろしいと思いますよ。殺されかねません。」
お守り役が珍しく自分から進言する。
だが、ユーフューズはその場を動こうとしなかった。
「侯爵様。」
「ピーターが傍にいても、俺は殺されるか?」
ボディガードに対して皮肉っぽく言う。
「静流。」
「なんだ、悪ガキ。」
「由良は、俺がセイラの気を引こうとして由良に近付いたことを知っていたんだ。それなのに、俺の事をセイラに黙っていてくれたし、俺を守ろうとまで言ってくれた。俺に気があるからそうしてくれたのだとばかり思ってたけど、そうじゃなかった。なんでだ?なんで由良はそんなことをしてくれたんだ?」
「彼女は、お前の事を友達だと思っていたからだろう。」
「・・・え?」
「あるいは、セイラの弟だから、大切にしてやりたいと思ったのかもしれない。由良ちゃんはユーフューズとセイラに仲良くして欲しいと、そう望んでいた。事情がどうあれ兄弟なんだから仲良くして欲しいんだと。そのために彼女に出来ることはお前の信頼に応える事だったんじゃないのか。」
思わずベッドの上の由良の顔を見る。ユーフューズは傍に歩み寄って、彼女の髪に軽く触れた。
「そういうお人好しなんだよ、この子は。・・・乱暴してもお前がそんな軽症でいられるのは、多分お前がセイラの弟だからだろう。赤の他人だったら、同じ病院の集中治療室に入っててもおかしくねぇんだぞ。」
廊下の騒がしい気配が感じられた。足音が病室に近付く。
「侯爵様。」
セイラが到着した事に気が付いたお守り役が、主人にもう一度警告する。彼は壁の方へ引き下がった。
「・・・いいんだ、ピーター。」
素早く病室のドアが開くと、ベッドに駆け寄った金髪の青年が膝を付く。コートの裾が床についていた。
息が上がっている。ベッドの娘の息遣いを指で触れて確認し、周囲の医療機器を見る。白いシーツに隠されていた彼女の右手を優しく引っ張り出して、手当てを施されたその手の甲に軽く口づけをした。患者の耳元に顔を近づけて優しく囁く。
「由良ちゃん。・・・もう大丈夫だから。」
日本語の、独特の響きのあるその言葉を、何度も、何度も繰り返す。
静流はその様子を黙って見つめている。
ユーフューズもピーターも、壁に寄って立ち尽くしたままその様子を見守っている。
「戻ってきて、由良ちゃん。」
やがて彼女は目を覚ました。
「セイラ・・・。」
「大丈夫だよ、由良ちゃん。何も怖いことは無いからね。」
焦ったように身を起こした由良は、周囲を見回した。視界の中に、心配そうな表情をしたユーフューズとピーター、それに、静流を見つけて大きく溜め息をつく。
「よかった。ユーフューズさんも、ピーターさんも、無事だね・・・。よかった、よかったよぉ・・・。セイラ、私自分を抑えられたよ。二人とも無事だった。ね、凄いでしょ、セイラ、静流さん。褒めて褒めて。ご褒美くれる?」
彼女は嬉しそうに笑った。
私がんばったでしょ。えらかったでしょ。100点のテストの答案を見せる子供みたいな顔で笑う。
そんな彼女をセイラは優しく抱きしめて、彼の後ろから静流が彼女の頭をよしよしと撫でた。
ユーフューズは、そんな由良を見てやりきれない気持ちになる。自分が彼女に何をしたのかと思いだすと、自己嫌悪と罪悪感でいっぱいになった。彼女が普通の精神状態を保てない状況を作ったのは自分だと言うのに。そんなひどいことをしたのに。
その張本人がすぐ傍にいるのに、その相手が無事であることを、彼女は純粋に喜んでいる。
・・・バカなのか?それとも・・・。
ユーフューズにはとても理解しがたかった。何年も前のセイラの裏切りを今も許せずにいる自分には、ついさっき自分に危害を加えようとした相手をあっさりと許す彼女の事がわからない。もう忘れてしまったかのように笑っている。
「ご褒美を上げるよ。」
甘い声で囁いたセイラが、人前でありながら恋人との熱いキスを披露した。ベッドの上の由良をしっかりと抱いて彼女が蕩けるまで長く口付けする。
静流がにやにやしながら口笛を吹いた。
彼が顔を離してくれたときに、彼女は赤面したまま毛布を被ってベッドの中に潜ってしまった。恥ずかしくて照れてしまったのだろう。
・・・なんだ、出来るんじゃないか。
ユーフューズが触れようとしたときには厳しく拒絶したくせに。
惚れているわけでもないはずなのに、何故かユーフューズの心に怒りがともる。自分には許せず、兄には許せるという事実が怒りに拍車をかける。
照れて毛布から顔を出さなくなってしまった由良の頭の辺りをそっと撫でてから、セイラは立ち上がる。
「静流、彼女を頼む。」
「おう。」
信頼する叔父に恋人を託して、セイラは弟とそのお守り役に病室を出るように目で示した。二人ともそれに従って病室の外に出る。病人の前ではこれ以上の話は出来ない。
静かになった病室に、救急病院の看護士が入ってきた。手のひらほどの端末を静流に手渡すと、すぐに出て行く。
端末の中身を読んでいた静流は、大きな目を更に大きく見開いた。
「・・・由良ちゃん、君はこれを知っているのか。」
「静流さん・・・?」
毛布から顔を出した彼女が示された端末の画面へ視線を注ぐ。
「あ・・・。」
びっくりしたような表情の後に、顔を赤くした。
「嘘・・・。そんな、そんなことって。」
「なんだよ、ありえないことじゃないだろ。奴に知らせてくるか?」
すぐに立ち上がろうとした静流を、由良の手が止めた。
「待って、待ってください。その・・・、私が自分で言うまで、黙っててもらえませんか?」
神妙な顔で俯いてしまった彼女の方を見て、心療内科医は小さく溜め息をつく。
「君、嬉しくないのか・・・?」
「いえ、いえ、そんなことはありません。ただ、驚いてしまって、こんなの有り得ないと思ってたから、正直言って、本当に予想外で・・・。」
「まあ、君はまだ18になったばかりだから、戸惑う気持ちもわかるけどね。・・・もしも望まないのなら早めに処置することを進めるよ。俺はそっちは専門じゃないからはっきりした事は言えないが、出来たら俺はセイラにおめでとうって言ってやりたい。君次第だよ。」
看護士の持ってきた端末には由良の診断結果が記されていた。
その中に、『妊娠中』の文字が見える。
その文字を見つめながら、由良はなんともいえない複雑な面持ちで小さく頷いた。
この若さで。
彼女はどうしたらいいのでしょうか。
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